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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道中央道路開削に斃れた囚人達を慰霊・顕彰する碑‼

北海道中央道路構想

明治維新後に北海道の各地に入植地が開放されて開拓事業が始まったが、同時に内陸部の開拓地に至る道路の整備を早急に行う必要があった。北海道内巡視を行った役人などの報告などから、道路開削事業が最優先事業として取り上げられたのは明治16(1883)年1月、この時点での「中央道路構想」は「札幌県幌内鉄道幌向停車場」より分岐し、石狩川をさかのぼって中央山地を越えて十勝国に出、釧路国をへて根室県に達する内陸横断道路であり、後の「中央道路」とは異なるが、南下してくるロシア帝国に対する国防上の必要性と地形や殖民上の理由からだっという。開拓初期の北海道では安上がりの労働力として囚人を使役する政策がとられ、明治20年代には全道的に普及、これらの道路建設では集治監(刑務所)で服役中の囚徒が動員され、多くの犠牲者をだし後に「囚人道路」とも呼ばれることになった。

凄惨を極めた囚人労働

北海道では明治14年設置の樺戸(現月形町)集治監(明治政府設置の国立監獄)、明治15(1882)年設置の空知集治監は市来知(現・三笠)、明治19(1886)年には標茶に釧路集治監が設置されます。明治19年に樺戸、空知集治監の囚人を動員し上川道路開削に着手、明治22年より仮道路を全線改修をして明治23年に完成、囚人達は道路建設の後も屯田兵屋の建築もする。上川には明治20年に樺戸監獄所忠別派出所、明治22年には空知監獄所忠別派出所が設置され、明治22(1889)年6月、忠別(現:旭川)~湧別間の仮道路の開削を開始、空知監獄署の囚徒37人を動員し忠別~湧別間に幅6尺の仮道路を開削し、湧別~網走間は既存の北海岸道路を補修・改良して約60日で網走に達した。距離にして約216kmの道路をを37人で60日で建設という過酷な重労働であった。

仮道路開通翌年の明治23(1890)年4月に本道路の北見道路(中央道路)の建設が忠別太(旭川)~伊香牛間(23.4km)から着手され、空知監獄署の収監者が工事に投入され明治23年10月に完成、伊香牛~上越間(39.3km)の開削も着工するが、この区間は民間請負で11月に完成し上川と北見との国境(留辺蘂川とポンルベシベ川の合流地点が工事の境界と思われる)まで開通。あまりの悪路で翌年の明治24(1891)年に空知集治監の収監者222人を動員して補修工事を行ったがあまり改善されなかったようです。

明治20(1887)年に釧路集治監の囚人を動員し釧路から川湯~小清水~藻琴の台地~網走までの道路開削に着手し明治23年開通、この難工事だった川湯や野上峠付近で百数十人の犠牲者を出しもう一つの囚人道路と呼ばれている。同年6月に網走に囚人宿泊所(網走分監)を建設。

明治24(1891)年4月に網走~北見峠間(162.8km)の道路建設に着手するが、仮道路から経路が変更され野付牛(北見)経由となり距離が延長された。北見道路開削の犠牲者数は空知監獄署(上川側の工事)の死亡者は106人で、道路建設期間中の死亡者は74人というも公式記録がないため実数は不明。網走~北見峠間の工事で記録上は釧路集治監網走分監時代の明治24年4月~9月3日までの死者は25人、釧路分監から工事を引き継いだ監網走分監の9月4日~12月末迄の死者は186人、併せて211人の囚徒と4人の看守・合計215人が犠牲(238人とも)となった。野上~上越間は70.8kmで死亡者数は186人、1km当たり2.6人、380mにつき1人の犠牲者が出た事になる。犠牲者の遺体は仮監の近くや道路脇に埋葬されたが、昭和30年代以降になって各地で発掘され、墓地に改葬された総数は北見道路で61名となるが、犠牲者の3割以下で未だに大地に埋もれたままの遺体は多い。過酷で凄惨を極めた囚人労働なきあとは監獄部屋(タコ部屋)に受け継がれていく。

中央道路(北見道路)沿線の慰霊碑

囚人の強制労働によって開削された中央道路(上川道路・北見道路)沿いに道路開削工事に斃れた削犠牲者慰霊碑が点在している。中央道路(北見道路)は網走市から網走湖西岸をとおり女満別町~北見市端野地区~北見市街~北見市留辺蘂地区~佐呂間町~遠軽町生田原~遠軽町~遠軽町丸瀬布~遠軽町白滝~北見峠~上川町~旭川市街迄で、その沿線に12ヶ所の官設駅逓所が建設された。駅逓開設時は無人の施設が多かったという。

拘禁強制労働で斃れた囚人達の慰霊碑は、宗教的な動機で建立されたのを除けば殉難の碑となっているのが殆どで犠牲者と刻まれているのは一基だけです。殉難とは国家や宗教のために一身を犠牲にすることであり、本人の意思に反して監禁強制労働に斃れた人達は一方的な被害者、犠牲者と云う事になります。非人間的な監禁強制労働の被害者、犠牲者を殉難者とするのは国家の加害責任を不問にし、被害の実態を覆い隠す事になる。碑名ではなく労働形態の実質部分に注目し殉難者なのか犠牲(被害)者なのかをご自身で判断してください。

空知監獄署出張所跡碑旭川市

# 出張所跡碑は道道90号旭川環状線沿いの神居交番前にある。碑文を転載「ここより東200mの地(現美瑛川の中州)にあったといわれている。明治22年から明治24年にわたり忠別太から網走口に通ずる北見道路開設の工事が行われたが、この工事に空知監獄署出張所の囚人が従事して文字通りの苦役悪闘をしたと伝えられている。上川開拓の上で忘れることができない場所である。旭川市教育委員会」碑文では網走口とあるが、空知監獄署出張所は明治22年に囚人37人を動員し旭川から北見峠を越えて遠軽を経て湧別まで幅6尺の仮道路を開削し、湧別~網走間は既存の北海岸道路を補修・改良して約60日で網走に達したが、想像を絶する過酷な労働だったと思われます。本工事は同年10月に旭川側から開始されたが積雪で中断、翌年に雪解けを待って工事再開となったが囚人不足で伊香牛までの開削、伊香牛から現上川町上越までの区間は業者請負で施行した。明治24年は樺戸分監の囚人を使役し現・上川町上越までの道路補修で道幅6m、中央3mに砂利をいれた。北見・網走側は明治24年に北海道集治監網走分監(釧路集治監網走分監と途中交代)が担当し多大な犠牲者を出し中央山地を縦断する中央道路を貫通(正確には中央道路の一部で現・国道12号線、国道39号線の母体となった)させた。碑は空知監獄署出張所跡となっているが、明治20年に監獄署と改称され、明治23年7月に再び集治監と改称、翌年の明治24年7月に北海道集治監制となり本監は樺戸で空知・釧路・網走は分監となる。中央道路の上川側の工事は監獄署となり、明治24年の北見側では釧路集治監網走分監の工事で始まり途中で北海道集治監網走分監と代わるが、役所の所属が変って呼称が変更されたのであり、囚徒が入れ替わった訳ではない。◇建立年:昭和55年 ◇建立者:旭川市教育委員会 ◇所在地:旭川市神居2条6丁目 旭川中央警察署神居交番前 ◇Gmap:Gマップ

樺戸監獄署出張所跡碑旭川市

# 樺戸監獄署出張所跡碑の碑文より転載する「明治20年5月、上川仮新道の改修に囚徒を従事させるため農作試験所建物(現神居1条1丁目 忠別太駅逓第1美瑛舎)に樺戸監獄出張署が置かれた。ただし、獄舎看守詰所等監獄署としての施設はこの一帯に置かれ、後には事務所もここに移った。囚徒は新道工事のほか屯田兵屋の建築にいたるなど、陰ながら上川開拓に大きな足跡を残した。」とある。上川仮道路の開削では樺戸集治監が主役ですが、本工事の時は監獄署、改修時には集治監と呼称が変わっています。道路開削や屯田兵屋の建築など開拓初期のインフラ整備は、囚徒の強制労働で多大な犠牲をだして推し進められた。囚人達の犠牲なしに屯田兵の入植は不可能であったと思われ、碑文の「陰ながら」という表現に違和感を感じた。碑誌の部分は倒れたようで建立時とは形が異なっている。◇建立年:昭和45年 ◇建立者:旭川市教育委員会 ◇所在地:旭川市忠和3条7丁目1 市営住宅敷地内 ◇Gmap:Gマップ

中央道路記念碑上川町

# 中央道路仮道路開削は明治22年年6月22日に着工し年8月30日竣工、旭川より本工事が開始されたのは10月にはいってからで、積雪のため中断、翌年の明治23年4月に工事再開となるが、囚人不足で上川側の工事は伊香牛迄であり、愛別から中越(現・上越)までの区間は、札幌の業者・佐藤倉吉請負で11月に完成するが、明治24年に補修工事をしている。そのルートは伊香牛を過ぎてからは石狩川の右岸沿いを通り愛別の難所、安足間を避け(ここを通ると橋が二カ所必要になる)てエチャナンケップ川筋から越路峠(上川公園)を経て留辺蘂川筋に抜けた。旭川に空知監獄署出張所が開設され、北見道路開設の工事に囚人が従事したとあるが、囚人使役の実態は不明、上川側の区間の犠牲者が公式記録として残っていないだけで、上川側での推定殉難者は54人と云われており、犠牲者がなかったという事ではない。◇建立年:平成5年10月 ◇建立者:上川町教育委員会 ◇所在地:上川町字越路・上川公園 ◇Gmap:Gマップ

中央道路開削殉難者慰霊之碑北見峠 旧白滝町

# 北見峠のパーキング傍にあり、碑文の漢数字をアラビア数字に変更し句読点を適宜追加した。碑文「中央道路開削経過 中央道路は網走に起り北見、留辺蕊、佐呂間、野上を経てこの「北見峠」を越え上川、愛別、旭川に至る当時全長57里14町11間(225粁402米)の殖民道路であり拓殖と北辺防衛上極めて重要視されて開削されました。しかもこの道路の北見側はその大半が釧路集治監より網走仮分監に移された千百余名の囚人を使役として開削されたものであり、明治24年春着工以来わずか7ヶ月余りを圣た同年11月にはこの北見峠まで網走から39里(156粁)の道路が完成を見るに至りその作業能率は今にして見れば驚異的なものでありました。したがって作業内容は想像を絶する酷使につぐ酷使、不眠不休の労役が続けられ、特に最も惨を極めた野上(遠軽町)北見峠間は過度の労役と病にたおれた死者180余名にも及び、死亡者は路傍に仮埋葬されたまゝ弔う人もなくそまつな名もない墓標は風雪にさらされたまゝ月日のたつに従消え去り、今になっては埋葬された場所もほとんどが不明になりました。その後、昭和32年春、白滝村字下白滝で6体を発見収容、昭和33年遠軽町字瀬戸瀬で46体を発見収容、更に昭和48年6月白滝村字白滝東区で6体を発見収容、それぞれ供養の上改葬しましたが、未まだ当時埋葬のまゝ地に眠れる霊の多いことと想い、こゝに殉難者慰霊の碑を建立しこの道路建設のいしずえとなった囚徒の霊の安らかな眠りを念ずるものであります。」裏面に「昭和48年8月建立 白滝村長 國松 一敏」とある。※この後にも留辺蘂町花園で2体、北見市で一体が発見され供養されている。◇建立年:昭和48年8月 ◇建立者:旧白滝村 ◇所在地:紋別郡遠軽町奧白滝 北見峠 ◇Gmap:Gマップ

無縁之塔中央道路開削殉難者 旧白滝町

# 中央道路開削殉難者慰霊之碑に最も惨を極めた野上から北見峠間は過度の労役と病にたおれた死者180余名とある。白滝では昭和32年春に下白滝(白滝の滝下流側付近)で6体、昭和48年10月に白滝東地区(白滝基線178番地)で6体の計12体の遺骨が白滝村、村民の有志、郷土研究家たちによって発掘され、墓地に卒塔婆を建て改葬された。平成4年に供養塔が新しくされ「無縁の塔」と墓碑にかわっている。墓碑正面には「無縁之塔」裏面に「平成四年八月 建立 中央道路開削殉難者慰霊祭執行委員会」とあるだけで経過は刻まれていない。当時の発掘は中央道路開削と駅逓資料に場所の略図と聞き取りの内容とが記されている。◇建立年:平成4年8月 ◇建立者:中央道路開削殉難者慰霊祭執行委員会 ◇建立地:遠軽町白滝 白滝墓地 ◇Gmap:Gマップ

白滝村開拓記念碑旧白滝町

# 石上藤蔵氏の入植100年を記念し関係者により平成8年に建立された碑ですが、碑文以外は囚人と関わりの部分のみ掲載する。「由来 石上藤蔵(安政1年4月7生)は明治33年、石北峠休泊所(※北見峠駅逓所の前身)の取扱人として来往、同35年、峠休泊所をあとに旧白滝17号地に入地開拓の鍬大いに振るった。この時、いまだ白滝原野は解放以前で、石上の親代わり的存在であった野上(遠軽町)駅逓取扱人であった角屋政衛の尽力で網走支庁に出願し許可を得て旧白滝に入地したのである。これが本村開拓農家の始祖といえよう。石上藤蔵入地後、明治43年春、山本治作が旧白滝に入ってきたが、おおよそ7年間全く孤独に近い生活を営んできた石上の開拓根性には、いまさらながら頭が下がる思いがする。明治43年11月太田熊吉、吾妻祝吉、翌年43年、青山右近、内田三蔵らがあいついで旧白滝原野に移住、ここにわずかな集落が形成されたのである。『樹林生い茂る未開の地に開拓の汗をながした往時を偲ぶとき、厳しい自然の中に大きな夢と志しをいだき、血のにじむような艱難辛苦に耐えて開拓に精励することにより、今日の繁栄をもたらしたことを忘れてはならない』この史実を確認。白滝村の開拓農家第1号入植者石上藤蔵の遺徳を後世に伝えるため、その証としてここに碑を建立する。」とある。※「ますほろ原野・石上正子著」によると"相内に仮監のあった頃、食料運搬を担当していた(義父)石上藤蔵が沢山の餅をつかせ仮監に運び看守の手前うどんと言いつくろって集監者に食べさせ「涙を流して喜ばれた」、看守は黙認していたのであろう"と書かれ、石上氏の人物像が垣間見える。石上藤蔵翁もまた囚人達と縁のある人でした。◇建立年:平成15年8月1日 ◇建立者:石上又一他18名 ◇所在地:紋別郡遠軽町旧白滝338 ◇Gmap:Gマップ

国道開削殉難慰霊之碑薬師山第八十八番所 遠軽町

# 碑文より転載「建立の趣旨 中央道路は政府の北辺警備と北見地方の開拓促進のため明治19年に着工され、明治24年に完成された札幌、旭川、網走、釧路を結ぶ当時の大動脈でした。このうち、明治24年4月から同年12月にかけて集治監網走分監の囚徒を1970人使役して工事を行いました。網走、中越間163.7kmの開削では難工事を極め激しい労働と栄養失調のため238人に及ぶ死者を出しております。この場所は、仮監跡で67体が仮埋葬されておりましたので、昭和33年46体を発掘いたしまして供養を続けてまいりましたが、未だ21体地下に眠っております。こうして北見地方開発の礎となった犠牲者をこのまま放置したのでは忘れられ霊が浮かばれないのではないかと思いつき、暗い歴史は歴史として真実を後世に残すのが70年代に生きる私達に果せられた義務と考へ、囚徒の霊の安らかに永眠されることを祈念いたし、ここに46体の遺骨を納め地下に眠る21体と合わせて殉難慰霊碑を建立するものであります。昭和五十一年九月 瀬戸瀬婦人会」※6号野上駅逓跡から2kmほど丸瀬布側に進んだ瀬戸瀬に昭和33年5月、瀬戸瀬青年団(団長・大島一郎)が中央道路開削当時、埋葬されていた遺体46体を発掘し瀬戸瀬墓地へ埋葬、遺体はすべて納棺され整然と並べて埋葬されていたという。昭和51年に発掘跡に「殉難者の慰霊の碑を建てよう」と瀬戸瀬婦人会(会長・枝松ミサコ)が発起し、町をはじめ趣旨に賛同した300余戸から143万円の寄付を得て発掘跡に慰霊碑を建立し改めて改葬された。46体の遺骨が納められた墓碑でもあるが、発掘出来なかった21体の遺骨はどこにあるのかわかりません。むやみに歩き回らない方がよいと思います。◇建立年:昭和51年9月26日 ◇建立者:瀬戸瀬婦人会 ◇所在地:遠軽町瀬戸瀬 ◇Gmap:Gマップ

山の神建立の由来碑遠軽町

# 碑文より『明治24年に開削された国道333号中央道路旭川~網走間は別名囚人道路とも呼ばれた。北方警備を急ぐ明治政府は大量の囚人を工事に納入し北見峠から網走までの約163kmを一年で仕上げる超突貫工事であった。劣悪な条件下で犠牲者も多く明治27年駅逓の責任者としてこの地に入った佐藤多七(元・七号 滝ノ下駅逓取扱人)が旧囚人宿舎を住居にあてた際に裏に67本の墓標が立ち並んでいた。また夜毎「助けてくれ」との声やうめき声が聞こえたので、慰霊に努めたが同31年の大洪水で墓標が流出した。雪の深い2月のある日、佐藤多七は「野うさぎ」を追って薬師山に入りふと目に入った雪に隠れた見事な岩をみつけ息子、鶴松と近所の農民と力をあわせ巨岩を運び出し石碑を建てた。そして死後も囚人と呼ばれたのは気の毒と考え山の神と刻入した。婦人たちは雨や風にあたらぬよう石碑に屋根をかけた。明治38年のことである。開拓農民が生命を収奪された囚人への心からの手向けであった。現在は3代目が供養を続けている。昭和58年10月 佐藤幸平』※おなじ場所に「セトセ薬師山霊場八十八ヶ所建立の由来について」と記された碑がある。これによると薬師山霊場八十八ヶ所の建立は、佐藤多七翁が入植以来開墾の労苦と国道開削労務者の慰霊の安らぎを薬師如来に求め、瀬戸瀬住民が一体となって明治35年山頂に建立したのが始まりとあり、山神碑建立の3年前に薬師山に建立されたのだった。◇建立年:昭和58年10月 ◇建立者:佐藤幸平 ◇所在地:遠軽町瀬戸瀬東町 薬師山バス停

山神碑遠軽町

# 明治24年に釧路監獄網走分監囚徒を使役し工事開始、同年8月に生田原安国で北海道集治監網走分監に引き継れたが、それ以降に159人の死亡者を出したと云われ、網走より上越(石狩国境)間での犠牲者は211名と云われるが、札幌市東本願寺の法名記によれば238名、遠軽町史では271名、丸瀬布郷土史には238名とあり、白滝村史では野上から北見峠間で186名とある。網走分監長の報告書に「拒捕斬殺」で鎖を付けたまま埋葬された囚人数は記載はなく、いずれにしても211名以上の囚徒を犠牲にして北見道路は完成した。遠軽町史に山神建立は明治38年とあり、村人総出で薬師山から5日程掛かりで石材を運び碑を建てたという。実際は明治41年12月という話もあるが由来碑に従った。書は田畑定吉による。

釧路分監長典獄あての報告書によると死亡者は57名でこのうち中央道路関係は52名(獄内死27名)とされる。また網走分監長からの12月4日付け報告書では「明治24年8月16日ヨリ11月30日に至る、病因の総計1916人是は病監に入る可き患者にして、十中八九は一種ノ風土病、水腫性脚気にして、尤上川、網走間道路開発出役者に多し、其全治死亡等は左の如し、全治したるもの1625人、水腫性脚気死亡156人、胃病死亡2人、縊死1人、未治133人」とあり、159人となるが、看守に抵抗したり逃走を図り「拒捕斬殺」され、鎖を付けたまま埋葬された囚人数の記載はない。白滝村史や丸瀬布町史ではこの区間の殉難者を186人とし、25名を合わせると網走より北見峠(現・上越)迄の死亡者は211人となる。上川側での殉難者推定54人を含めると旭川~網走間での死亡者は265人以上(殉職した看守等は含めず)となるが、そのなかで発掘され供養された遺骨は61体に過ぎない。◇建立年:明治38年 ◇建立者:佐藤多七他瀬戸瀬住民 ◇所在地:遠軽町瀬戸瀬東町 薬師山バス停 ◇Gmap:Gマップ

旭野大師堂旧生田原町

# 北見道路開削では特に北見と遠軽間での犠牲者が多かったと云いい、殉難者の供養として駅逓関係者であった宇野シゲさんが高野山から御像をもらい受け大正4年3月21日、旭野に建立したと言う大師堂。大師堂は仏堂の呼称で大師号を贈られた僧を礼拝の対象として祀るが、真言宗の開祖である空海(弘法大師)を祀っている仏堂が多い。堂内に木版の弘法大師御堂建立寄進帳を掲げてありこの大師堂も弘法大師を祀っていた仏堂ですが、建物の傷みが激しく掛け軸や仏像などは別に保管されているようです。ただ寄進者の名前に宇野さんの文字と大正と有ったので、宇野シゲさんの建立した大師堂という事は確認てきますが、建物自体は修復を重ねているようです。大師堂は国道333号線沿いで生田原町安国から旭野トンネル方面に進み生田原川を越えてまもなく左側の林の中に大師堂が見えますが、林の中にうもれ見逃してしまうかも。現在「弘法大師堂」と呼ばれているようで、地形図には神社マークがある。かつて大師堂の近くに鎖で囲まれた囚人の墓や仮監舎もあったと云う。◇創建年:大正4年3月21日 ◇創建者:宇野シゲ ◇所在地:遠軽町生田原旭野 ◇Gmap:Gマップ

五号 佐路間駅逓所と遠藤藤次郎翁旧留辺蘂町

# 説明板より転載「元・佐呂間(5号)駅逓跡 網走、旭川間に中央道路が開通されるや、明治25年(実際に業務が行われるようになったのは明治28年)この地に、佐呂間(5号)駅逓が開設され、宿泊、人馬の継立、郵便物の逓送等の業務が行われた。初代取扱人に永井友吉が就任、官馬6頭、雇人1名が配置されていた。」※中央道路は軍用道路として開削された性格もあり早々に駅逓も設置されるが、和人が定住したのは少し遅れ初代逓取扱人は永井友吉氏でした。遠藤藤次郎氏は明治33年に遠軽にはいり、信太農場で努めた後の明治36年に5号佐呂間駅逓の二代目取扱人として着任するも、6年後に36歳という若さで世を去られる。子息の遠藤藤太郎氏は12歳で母つねさんを親権者とし明治42年に駅逓を引継いで三代目駅逓取扱人となり、上佐呂間と改称している。北見道路に点在する駅逓取扱人は何らかの形で中央道路開削で斃れた囚人達の慰霊と関わりの深い方がいますが、遠藤藤太郎翁もその1人でした。第4号駅逓所二代目取扱人であった千葉新太郎氏の三女・タケさんより、墓標のあった場所を聞いていた遠藤藤太郎翁が、聞いた墓標の一つを発見した。以来、遠藤藤太郎翁は供養を続けられて来たが、高齢のため墓守も出来なくなったと郷土史研究会に後の事を依頼された。郷土史研究会が中心になって遠藤藤太郎翁も立ち会い遺骨を発掘、荼毘にふされて後にお墓が建立され納骨されている。中央道路での囚人として59~60体めの遺骨で有り、新聞で「開拓道路工事に倒れた囚人 93年ぶり2遺体」と報道された。五号 佐路間駅逓所 ◇設置年:明治25年3月 ◇廃止年:大正13年4月 ◇所在地:北見市留辺蘂町花園 ◇Gmap:Gマップ

丸山峠 中央道路開削犠牲者慰霊之碑旧留辺蘂町

# 碑文より「中央道路開削犠牲者慰霊之碑 留辺蘂町長坂本悟朗書 明治24年、旭川・網走間に網走監獄の受刑者使役し、粗食と過酷な労働により、約1000名の従事者中200名以上の犠牲者を出し、この中央道路が開削された。昭和59年6月3日、当町花園55号で遺骨2体を発掘した。留辺蘂町発展の端緒となった道路への感謝と犠牲者の冥福を祈念するため開町70年の意義ある年に当り追悼碑を建立する。昭和60年11月15日 中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会 留辺蘂町」※留辺蘂から生田原間で犠牲になった囚人は14人とも16人とも言われているが、この慰霊碑の他では生田原側の旭野に慰霊のため創建された大師堂がある。丸山峠の慰霊之碑は宮下町から第四号駅逓跡を過ぎ峠の下りに入ると間もなく。◇建立年:昭和60年11月15日 ◇建立者:中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会 ◇所在地:北見市留辺蘂町豊金 丸山峠佐呂間側 標高316m地点 ◇Gmap:Gマップ

中央道路犠牲者之墓旧留辺蘂町

# 碑文「中央道路の開削工事は明治二十四年、網走監獄の受刑者が従事して、二百名以上の犠牲者を出し完成した。昭和五十九年六月三日、当町花園に五十五号において、その二遺体を発掘した。留辺蘂町開拓の礎となった犠牲者、ここに眠る。昭和六十年晩秋 中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会 留辺蘂町」※中央道路建設で斃れた60体目の遺骨であり、未だ多くの遺骨が中央道路沿線に眠ったまで、新聞でも「二体の遺骨93年ぶりに掘り起こされ、参加者たちは追悼式を行って霊を慰めた」と報道された。遺骨は荼毘に付されたあと専念時に墓が出来るまで安置され、昭和60年11月24日に納骨式並びに除幕式が行われた。◇建立年:昭和60年11月24日 ◇建立者:中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会 留辺蘂町 ◇建立地:北見市留辺蘂町宮下町 共同墓地内 ◇Gmap:Gマップ

地蔵大菩薩堂旧留辺蘂町

# 昭和55年11月建立の常紋トンネル殉難者之墓と昭和60年11月建立の中央道路犠牲者之墓の間にあります。碑文より「道内国道、常紋トンネル開発業績記 此の偉大なる大業は、壮絶無残多大なる人名の犠牲によって完成す。『意呼悼しき哉、今如何にしてその苦を測り知るや』特に未だ全道の道辺に埋もれ眠る数多き霊よ、共に聞け、訳あって罪人となりしも、過酷なる重役に命を捧げ開発せる功績大なり。『茲に開発功労者と讃え万福の謝意を表す』菩薩に代わり声を大にして伝えん。貴男方は罪人にあらず、胸を張って故郷の天空に輝き、浄土の花園にあそび、地蔵大菩薩の誓願力により、良き後生を疑いなかるべし。万霊よ、菩薩の御胸深く永眠されんことをここに祈る。隆弘尼合掌 道内国道・常紋トンネル為創設犠牲者慰霊菩提也 昭和六十一年春 白龍山一世隆弘建之」※常紋信号所付近に埋もれたままになっている遺骨を気にされていた隆弘尼が建立されました。◇建立年:昭和61年5月21日 ◇建立者:白龍山一世隆弘 ◇建立地:北見市留辺蘂町宮下町 共同墓地内 ◇Gmap:Gマップ

留辺蕊町白龍山遍照院旧留辺蘂町

# 留辺蕊町東端の武華川沿いの山腹にある白龍山遍照院の隆弘尼は、戦後尼僧となり、開道100年(1968年・昭和四三年)を迎えた時に、国道開削で亡くなった方々は開拓功労者と云い、囚人の墓を探して供養して回りその土を集めて網走刑務所外の網走湖畔二見ヶ岡に国道開削殉難慰霊碑を建立された。また常紋トンネル工事で斃れた労働者の遺骨掘り起こしの際、菅笠を被って読経し続けたのは他ならぬ白龍山遍照院の尼僧達だった。遍照院には本堂の隣に「慈弘塔」という仏堂があり不遇な運命に弄ばれた「囚人の位牌」が納められている。常紋トンネルと北見道路犠牲者の慰霊と云う意味では白龍山遍照院と先代の隆弘尼僧を省く事はできない。北見方面からは留辺蘂市街地の手前でJRと交差する橋梁手前から入る。◇創建年: ◇創建者: ◇所在地:北見市留辺蘂町泉369 ◇Gmap:Gマップ

中央道路開削犠牲者慰霊碑北見市

# 碑文より「明治二十四年春 北海道長官永山武四郎は拓殖と北辺防備のため旭川網走を結ぶ中央道路の建設を急ぎ、網走集治監の囚人を使役し開削工事に着手した。約八ヶ月間の難工事に動員された囚人千百余名中想像を絶する苛酷な労働により相次ぎ亡くなられた犠牲者は二百名を超え、その多くは路傍に仮埋葬され墓標なきまま今日に至っている。平成四年七月 第五区仮監跡と考えられる当地国道の南側、豊田五六九番地の畑地から一体の遺骨と共に鎖錠前が発掘され手厚く供養のうえ改葬した。北見市開基百年の意義ある年に当たり当市の発展の端緒となった中央道路、現国道三十九号へ感謝を捧げつつ未だこの地に眠れる尊い犠牲者のご冥福を、お祈りし慰霊碑を建立する。平成八年七月十五日 北見市長 小山 健一 揮毫 久保観堂」※国道39号線にあざやかな案内板がある。碑文では「手厚く供養のうえ改葬」となっているが、遺骨が工事で偶然に発見されて、調査した北見市は文化的価値がないとしてそのままにしたと云うが、それをしった市民や関係者に抗議されて、供養と改葬、慰霊碑建立となったようで、物言わぬ囚人に代わって声を上げなければ歴史に残らないこともある。◇建立年:平成8年7月15日 ◇建立者:北見市 ◇所在地:北見市豊田 ◇Gmap:Gマップ

鎖塚供養碑・端野町開基八十年記念北見市

# 鎖塚供養碑 碑文
「端野町開基八十年記念/明治24年北海道長官永山武四郎氏は、網走と旭川を結ぶ国道開設の急を感じ網走、空知両監獄の囚人凡そ千人を動員し、5月上北両端より着工12月完成の突貫工 事をした。此の道路が北見の開発に貢献した事は言うまでもないが、工事の際死亡し路傍に埋められた墓標なき囚人は三百に余るとも云う。此の三基も亦(また)彼等を縛った鎖だけがその上に残されてあり是を鎖塚と呼ぶようになった。此処に供養碑を建て尊くも哀れな御霊を永く弔う。 昭和五十一年十月 端野町緋牛内鎖塚慰霊奉賛会一同建立」

工事開始時の明治24年4月~8月16日までは釧路集治監網走外役所~釧路集治監網走分監であり、この期間の死亡者は25人。工事が生田原安国付近まで達した8月中旬頃に北海道集治監網走分監に引き継がれ、9月4日~12月末までの死亡者は186人という。両者合わせて殉難者は211人となるが、上川側の54人(推定)を含めると265人以上、看守に抵抗したり逃走を図り「拒捕斬殺」された囚人は見せしめのため鎖をつけたまま埋められたというが、釧路分監長典獄あての報告書や網走分監長からの報告書には記載がなく犠牲者数に含まれていない可能性もある。端野では鎖を付けたまま埋葬された遺骨がよくでたと云い、それが墓標なき囚人は三百に余るという表現になったのだろうと思われる。そのなかで発掘され供養された遺骨は61体に過ぎず、120年を過ぎた今も多くの遺骨は埋もれたまま。◇建立年:昭和51年10月17日(鎖塚供養碑) ◇建立者:端野町緋牛内鎖塚慰霊協賛会一同 ◇所在地:北見市端野町緋牛内846 菊地坂 ◇Gmap:Gマップ

北見市指定文化財「鎖塚の区域」案内板北見市

# 案内板より「明治24年(1891)、網走・上川間に中央道路が開削された。この工事には約1500人もの釧路集治監の囚人が使役されたが、4月から12月という短期間に約163kmもの距離を開削するという突貫的な難工事のため200人以上の囚人が倒れて亡くなった。この鎖塚の土饅頭はそのとき亡くなった囚人の墓標のひとつとされている。ただし地形の変化等があり、その形状については現在よりもかなり低かったと考えられる。端野町の開拓は明治30年(1897)の屯田兵の入地により、本格的に始まったが、その入地に至る道路はこの工事によって作られた。平成4年2月27日指定 北見市教育委員会」※とある。『土饅頭』とは盛り土状をした墓のこと。土饅頭の上に鎖や足かせだけが乗せられていたそうだ。またこの地に開拓に入った人達が土地を耕すと、足かせを付けた人骨が次々と出てくるので、その数におどろいたという。土饅頭が地形の変化で高くなっているのは、車道の整備等でまわりが掘られて低くなったため、土饅頭の高さが相対的に高くなったのだろう。工事は途中から北海道集治監網走分監となるが、実際に使役されていた囚人は同じです。道道104号網走・端野線の峠を下り、緋牛内に入ると、右手に北見方面へ向かう抜道(旧道)の途上にある。◇設置者:北見市教育委員会 ◇指定年:平成4年2月27日 ◇所在地:北見市端野町緋牛内846 菊地坂 ◇Gmap:Gマップ

鎖塚観音地蔵尊北見市

# 開道100周年に当たる1968年、忘却の彼方に去ろうとしていた3つの土饅頭に、当時の端野町長であった中澤氏が鎖塚の由来を記した立札を設置、5年後に地蔵尊を建立し囚人達の供養に努めた。1976年10月17日、鎖塚慰霊奉賛会によって鎖塚供養碑が建立され鎖塚保存会も結成された。真ん中に塚観音が安置されその両側にそれぞれ三体の地蔵尊が祭られている。塚の前に高札があり「この度はお参り下さいまして有難うございます。この輪廻車をまわして六道に迷う犠牲者のご冥福をお祈りください。」と記されている。◇建立年:昭和41年 ◇建立者:中澤廣 ◇所在地:北見市端野町緋牛内846 菊地坂 ◇Gmap:Gマップ

国道創設殉難慰霊の碑網走市

# 「碑文 百年にわたり、開拓者精神に燃えた父祖先人の高い理想と労苦が今日の網走管内の発展となってあらわれておりますが、とくに当地方開発の端緒となった網走と旭川とを結ぶ国道建設は、明治24年4月東北海道貫通中央道路として工事を開始し、当時現在の網走刑務所に服役中の受刑者の多数の血と汗の協力により完成したものであります。北海道百年の意義ある年にあたり、殉難者に慰霊の誠をささげるため国道創設殉難慰霊の碑を建設しさらに近年とみに増嵩しつつある交通事故の減少と交通安全を祈念し「交通安全観音像」を建立したものであります。 昭和43年10月 国道創設殉難慰霊の碑建設期成会 会長 佐藤 忠吉」※明治100年、北海道開拓100年にあたって何をするか決まらずにいる時、慰霊碑の建立運動をしていた留辺蘂にある白龍山遍照寺の隆弘(りゅうこう)尼僧による働きかけにて実現したもの。町村会に訴え満場一致で建立が決まったという。碑には、囚人の埋葬地と思われる場所から集められた各地の土がおさめられている。国道と道道のT時交差点角地で分かりやすい所に有るが車を止めるスペースは殆ど無い。◇建立年:昭和43年11月9日 ◇建立者:国道創設殉難慰霊の碑建設期成会 ◇所在地:網走市二見ヶ岡 ◇Gmap:Gマップ

門扉の刻字 (網走刑務所外庭)網走市

# 網走刑務所への唯一の通路~鏡橋を渡り敷地内に入っていくと左側に「私の手は厳しいけれど わたしの心は愛に満ちている」アムステルダムの刑務所の門扉の刻字からと書かれた大きな碑がある。碑文の一部から「明治23年3月 原始林に覆われ笹と葦の茂るこの地に 中央道路開削の拠点として、釧路監獄署網走囚徒外役所が開設された。以来 百年 この地で 罪を問われた人々が 厳しい試練に耐えて更正に励んだ」と有るように網走刑務所は中央道路開削のため全国の監獄から移送された1200人の重犯罪受刑者を収容するために造られ、非人間的な強制労働により200名前後が死亡、1000人以上の囚人が行方不明ともいう。道路沿いの畑から、手鎖、足鎖を付けた状態で白骨化した遺体が出土したり、荼毘に付される事もなく道ばたに埋められるなど、厳しい労働条件を示す痕跡や慰霊碑がある。北海道暗黒史の一翼を担った囚人酷使、どんな言葉を持ってきても権力犯罪の免罪符にはならない。◇建立者:網走刑務所 ◇所在地:網走市三眺 網走刑務所外庭◇Gmap:Gマップ

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