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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道先住民族の記念碑・顕彰や慰霊の碑を巡るⅠ‼

静眠の碑少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑 網走市

# 正面上段の碑文より「静眠 少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑」下段の碑文は「君たちの死を ムダにはしない 平和の願いをこめて 1982.5.3 ウィルタ協会」裏面の上段碑文「田中了書」下段碑文は「1942年 突如召集令状をうけ サハリンの旧国境で そして戦後 戦犯者の汚名をきせられ シベリアで非業の死をとげたウイルタ ニブヒの若者たち その数30名にのぼる 日本政府がいかに責任をのがれようとも この碑はいつまでも歴史の事実を語りつぐことだろう ウリンガジ アッパッタアリシュ(静かに眠れ)」※日本政府は昭和17年に対ソビエトの諜報活動のため南樺太の北方民族ウイルタを日本兵として招集。北方民族ウイルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌは昭和17年8月、旧日本軍の諜報活動に従事しソ連国境近くで活動、ウイルタやニブヒの青年約50人も招集されていたという。ゲンターヌは仲間と供にソ連軍に捕まり戦犯として8年間抑留され、昭和30年に刑を終えるも、故郷の樺太に戻る事が許されず、昭和31年に舞鶴へ引き揚げそのご網走に移住した。昭和50年に「オロッコの人権と文化を守る会」(ウィルタ協会)が発足、樺太の同胞との交流や少数民族の復権に努め、肉体労働で生計をつなぎながら、少数民族の軍人恩給支給問題を国へ訴えたが、日本政府は樺太原住民に対しては兵役方の適用がないと拒否。昭和57年にゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)氏が、日本の為に働きシベリアに抑留され息絶えた同胞ウイルタ、ニブヒの人々の霊を慰め、戦争に弄れた北方少数民族の歴史を語り伝えたいと碑の建立を決意、多くの人の寄金で天都山中腹、眺湖台に「少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑(静眠)」を建立した。先住民達を使い捨てにした日本政府への断罪と抗議の意味を込め静眠の碑は立っている。場所は民宿・眺湖台の手前。 ◇建立年:昭和57年5月3日 ◇建立者:ウィルタ協会 ◇所在地:網走市大曲(眺湖台)  ◇Gmap:Gマップ

南極探検 樺太犬供養塔稚内公園

# 日本が初めて南極観測に参加するにあたり極地での物資輸送を目的に編成された「犬ぞり隊」が観測船宗谷で南極大陸に渡り任務をまっとう、しかし翌年の昭和33(1958)年、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に鎖に繋がれたまま置き去りにされて死ぬという悲劇があった。樺太犬供養塔は南極大陸で命を落とした15頭の「犬ぞり隊」の霊を慰めるための稚内公園の犬ぞり訓練所跡地に建立された。観測隊がケルンをつくりそれを道標として雪原を前進したことから、慰霊碑は三角のケルンに秩父硬石が張りめぐらされています。昭和34(1959)年奇跡の生還を果たしたタロとジロはその後も観測隊を助けて活躍、ジロは帰国直前の昭和35年に突然の病に倒れ、生きて再び日本の土を踏むことはありませんでした。タロは札幌の北大植物園で余生を過ごし、昭和45年にこの世を去りました。現在タロは北海道大学農学部付属博物館に、ジロは東京上野の国立科学博物館に剥製となって保存されています。ここで知られていないのは、犠牲になったのは南極に置き去りにされた樺太犬だけではなかったこと。樺太犬は樺太アイヌにとっては荷物を運ぶ働き手であり、猟犬であり、食料だった。これは極地で暮らす人達とトナカイの関係と似ている。南極探検隊が着ていた防寒服が裏も表も樺太犬の毛皮だったこと、防寒具1着作るのに数頭の犠牲、全隊員分となればどう見ても百頭以上は犠牲になったと思われ、それは同時に樺太犬と共に暮らしていた人達も犠牲になったことを意味するが、南極に渡った樺太犬達の美談で、防寒具となった樺太犬と樺太犬と共に暮らしていた人達の犠牲は歴史の表から葬られたのだった。 ◇建立年:昭和36年10月1日 ◇設置者:稚内市 ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ  ◇Gmap:Gマップ

チエトマナイ慰霊碑稚内市

# 稚内市東浦にある慰霊碑ですが、碑文には「地域開拓の初めから昭和初年ころまでこの地に墓地が有り先住民族を初め、海難事故者など無縁の人たちの霊が今尚地下に眠っています。ここチエトマナイにたおれた先人の霊が安らかな永遠の眠りにつくことを願い、さらにこの地の明日に向かっての一層の躍進に御加護賜らんことを、こい願い心をこめてここにこの碑を建立す」としるされている。 ◇建立年:昭和60年8月12日 ◇設置者:東浦町内会 ◇所在地:稚内市東浦  ◇Gmap:Gマップ

アイヌ民族一同の墓名寄市

# 明治30年代年代後半に此の地に入植した高橋計助氏の父、運助氏が付近にアイヌの人々の墓があったと聞き、その供養のため建立、最初のものは高さ6尺の角材、昭和42年堤防が築かれたため同41年に現在地に移転。行事、催事、その他、毎年6月10日に供養をし、昭和44年に高橋家が旭川へ離農した後も10年間ほど続けていた。」※以上「名寄市の石碑」より。最初の墓標は木で、その後に石に変わった。場所も移動して本来の墓の位置は不明だが永く地域の人達によって供養されていたのでした。碑文「南無妙法蓮萃経」「アイヌ民族一同之墓」裏面に「昭和三十七年五月吉日 施主 高橋計助」と文字は判読可能。碑は(幕別?)橋の下流側で白い花が咲いている近く。 ◇建立年:昭和37年5月吉日  ◇建立者:高橋計助 ◇碑全高:60cm ◇碑身高:60cm ◇碑材質:安山岩 ◇所在地:名寄市日影1線 名寄川左岸河川敷  ◇Gmap:Gマップ

北風磯吉木碑名寄市

# 元名寄市在住の佐藤幸夫さん(函館市在住)が、昭和62年に市内緑丘の所有地に木碑を建立。碑には北風さんの生き方を表した言葉をアイヌ語で刻んであるが、何者かによって壊され旭川の故杉村満さんの協力を得て平成13年に同じ場所に再度建立した。北風磯吉木碑のある所で名寄に在住した先祖らへのイチャルパが毎年執り行われているようです。北風磯吉翁は名寄市(現・下川町上名寄)のキトウシヌプリ付近で生まれ、地理に明るいことから16歳で天塩川流域の測量に加わった後、明治31年にアイヌの給与地であった内淵に移住し農業に従事しました。日露戦争で旭川第七師団に応召され伝令として活躍し金鵄勲章を受ける。アイヌ文化の伝承者でもあった北風磯吉さんが、皇国の臣民として愛国主義者の如きに扱われ、ファシズムの先棒を担がされたのはさぞ迷惑なことだったろう。復員後も内淵で農業に従事、大正7年には内淵特別教授場建設資金を寄付するなど地域の指導者として尊敬を集めた。碑に彫られた「アイヌネノアン キタカゼイソキチ エカシ プリコラムアイヌ ワポロスクプクル」と書いてある。意味は「人間らしい北風磯吉は、エカシ、大人として十分風格がある」ということのようで、より人間的である人間として生き抜いた方なのでしょう。アイヌ語で書れた碑があるのは素晴らしいが、説明板が無ければ何が書いてあるかわかりません。 ◇建立年:平成13年(再建) ◇建立者:佐藤幸夫 ◊所在地:名寄市緑丘 佐藤幸夫地所内  ◇Gmap:Gマップ

クーチンコロ顕彰碑鷹栖町

# 旭川市「アイヌ文化の森・伝承のコタン」に英雄クーチンコロの顕彰碑がある。ここでは説明板より転載「上川地方の偉大な指導者であったクーチンコロ・エカシはアイヌの尊い神々を深く敬慕しながら常にコタンの幸せを希求し続けた人で有った。明治2年当時の兵部省の無法極まる強制移転命令に対して憤然と起ち堂々たる正論をもって遂に屈服させウタリの土地を守りぬいたのもクーチンコロ・エカシであり松浦武四郎ら多くの探検家達もクーチンコロ・エカシに導かれてこそ奥地探検が可能だったのである。和人支配によって激変するコタンの將来を心に深く案じた人であり、その明毅の風格はいまもウタリの胸裡に生き続けている。ここわれらのチノミシリに顕彰の碑を建立し、この地に生きこの地に埋もれた代々のエカシフチの象徴として永くウタリの鑑とする。昭和53年3月22日 旭川アイヌ協議会 新ロマン派会員 澤田茂作」※説明板は顕彰碑建立の4年後に設置されている。北海道の名付親として知られる松浦武四郎は安政4年と安政5年の二度にわたり当地を訪れている。安政4年の石狩川踏査では河口部から含めてクウチンコロ、トミハセ、セッカウシ、アイランケ、ニホウンテ、イハンハカル、シリコツ子、ハリキラ、イナヲアニ、イソテク、ピヤトキ、シリアイノの12人がそれぞれの居留地を中心に同行した。安政5年の上川から十勝に抜ける踏査では石狩河口部から含めてクーチンコロ、イソラン、サタアイノ、サケコヤンケ、イコリキナ、タカラコレ、エナヲサン、ノンク、クラウンテ、シリコツネ、セッカウシ、ニボンテ、イワンバカル、タヨトイ、アイランケ、イソテク、イヤラクルの17名(十勝側のガイドは含めず)がそれぞれに役割を決めて武四郎の踏査行に同行している。説明板にあるとおり雪の残る山岳と道なき原野や渓谷を越えていく踏査行は現地のアイヌの協力なしには到底不可能で合った事は武四郎の記録を見れば一目瞭然である。その中心にいたのが上川の総首長クーチンコロであった。 ◇設計者:すぎむら満目 ◇建立年:昭和49年12月12日 ◇建立者:旭川アイヌ協議会 ◇所在地:上川郡鷹栖町8線西4号 嵐山公園目  ◇Gmap:Gマップ

藤山ハルさん記念碑旧常呂町

# 藤山ハルさんは明治33年、樺太に生まれ戦後は常呂町で暮らしていました。昭和30年に言語学者の服部四郎氏と知り合い、49年に亡くなるまで、樺太アイヌ語のすぐれた話し手として、服部四郎氏とともに樺太アイヌ語の記録に取り組みました。司馬遼太郎著「街道をゆく38オホーツク街道」から引用「ハルさんの言語量はおどろくべきゆたかさで、その音声はたしかだった。彼女は樺太西海岸北部のライチシカの出身である」「彼女の死は、荘厳だった。なぜならその死とともに樺太アイヌ語は死語になったのである。が、学問としてのこった。」74歳で亡くなられた藤山ハルさんは遺言によって海を見下ろす小さい墓地に、枕を樺太に向けて葬られたという。石碑は藤山ハルさんの墓が自然葬だったため、場所がわかりにくく墓参りが難しい状況だったため、服部四郎氏の長男・旦さんと、藤山ハルさんの次女・白川八重子さんが常呂霊園に建立したものです。矢印は、ハルさんの故郷樺太の西海岸エストリを示しています。 ◇建立年:平成20年11月3日 ◇建立者:服部旦/白川八重子 ◇所在地:北見市常呂町常呂 常呂霊園  ◇Gmap:Gマップ

聖観音菩薩先住民慰霊碑 旧常呂町

# 常呂霊園に常呂在住の榎本誠・榎本國さん夫妻(故人)より寄贈された聖観音像があります。碑文より「南無観世音菩薩 常呂町の発展に献身せる先住民族の霊を供養し心からの謝意を捧げる。無縁の霊よ心安らかに眠れ 南無観世音菩薩 和人の所行の悪を許し観世音菩薩の心を全町民に捧げ給え 佛の慈悲と深い知恵と高い徳を以て常呂町民の守り本尊として永劫の因縁を垂れ給うことを念願しここに建立する 昭和五十五年十一月 建立者」※ブロンズ製の高さ2m、大理石の台座を含めると4mにもなる立派なもので、交通事故で生死の境をさまよった時にお世話になったった多くの人への恩返しともいう。 ◇建立年:昭和55年11月10日 ◇建立者:榎本誠 榎本國 ◇所在地:北見市常呂町常呂 常呂霊園 ◇Gmap:Gマップ

カムイコタンの跡碑遠軽町

# カムイコタンはかつてオホーツクの枝幸から常呂までを統率した湧別乙名の本拠地であった所で上川とも交流があったという。そういう古い歴史があってカムイコタンと呼ばれるのでしょう。滝は神居滝、滝に続く流れをカムイの瀬と呼んでいます。旭川にあるアイヌ博物館の川村家をはじめとして、御先祖が此の地に住まわれていたので丸瀬布郷土史研究会が昭和40年にアイヌコタン跡と記したオンコの標柱を設置、昭和57年に石碑に更新され「カムイコタンの跡」と書き換えられた。ここはいまも一族にとっては大切な場所のようですが、カムイコタンの跡というのは言葉が足りない印象で、先祖の魂が見守る此の地は一族にとってはカムイコタンそのものでは。すぐ近くに開基・開校70周年記念碑「清流」がある。 ◇建立年:昭和57年6月 ◇建立者:丸瀬布町教育委員会 丸瀬布郷土史研究会 ◇所在地:遠軽町丸瀬布上武利  ◇Gmap:Gマップ

桑田立斎アイヌ種痘之碑標津町

# 標津町望ヶ丘森林公園内に桑田立斎の石碑が有ります。碑文より「安政4(1857)年、新暦9月11日江戸深川の蘭学医、桑田立斎は折から220日の暴風雨の危機を乗り越え国後から野付けに渡り通詞 加賀伝蔵の補佐で士別一帯で種痘を行った。この種痘はアイヌの天然痘惨禍を憂えた函館奉行村垣範正らの要請で幕府により行われ、立斎は門人の西村文吉、秋山玄澤、井上元永とともに北上し広く巡回して1万3千人の生命を救った。ジェンナー種痘二百年にあたり一門の仁愛済生の偉業を称える。平成10年孟冬 標津町 桑田立斎先生顕彰会」立斎は途中で弟子に任せ蝦夷地を去り、井上元永は越年して種痘を実地してまわり計13,439人とあり、碑文の1万3千人より少し多い。当時の状況を松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」の現代語訳された「アイヌ人物誌」より一部転載する「窮民トミアンテ」には「昨巳の年公より種痘の医師を遣はされしかば・・・彼六太郎を連れてシツカリといへる所まで医師桑田氏を迎出て、第一番に其術を乞ふて申ける・・・此トミアンテのすゝめに依て先々の場所も一統何事もなく其術を受け、又桑田氏から着せるものを脱て与へられし其志に感じ、いとも有難き事と・・・其術を受けしぞ理りなりけるなり」とある。蝦夷地へ和人が入るとともに天然痘で亡くなるアイヌの人が激増。そこで幕府は桑田立斎に蝦夷地での種痘を命じ、その時この地で大きな力を発揮したのは松浦武四郎と親交の深かった通辞の加賀伝蔵という。ただ函館奉行は本当に天然痘惨禍を憂えて種痘に踏み切ったのか、それとも場所請負人の暗躍があって労働力確保のため種痘に踏み切ったのかという多少の疑問はのこる。 ◇建立年:平成10年 ◇建立者:桑田立斎先生顕彰会 ◊所在地:標津町南7条西・望ヶ丘森林公園内   ◇Gmap:Gマップ

横死七十一人の墓寛政蜂起殉難墓碑 根室市

# 碑は納沙布岬の傍らに建てられているが、碑の横面に「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれていることから文化九(1812)年の4月に造られたもので、大正元(1912)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)沖で漁船の網で揚がったもの。凡そ100年近く海底にあったにしては鮮明で文字が読めること自体に違和感があるが、裏側は掘りが浅いのか殆ど読み取れない。根室シンポジウム実行委員会編「三十七本のイナウ」140頁の根室市史より転載した碑文を掲載している「寛政元年己酉□五月此地凶悪蝦夷結党為賊事起乎不意士庶遇害者総七十一人也姓名記録別在官舎千歳茲合葬建石 文化九年歳在壬申四月建之」現代語でいうと「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」※クナシリの蜂起から22年後の事だった。誰が何時、何処に建てようとしたのかは不明、おそらくは運ぶ途中で海難により沈んだのではと思われている。引き揚げられてから珸瑤瑁墓地入口に設置されていたが、昭和43年に現在地に移設された。

アイヌ達はクナシリで飛騨屋の支配人、番人らにより冬の食糧を確保する暇もないほど過酷な強制労働で餓死者が出る状態でした。飛騨屋の番人らは「アイヌを根絶やしにして和人を連れて来る」と脅し、アイヌたちは追い詰められていた。寛政元(1789)年になりクナシリ島の総首長サンキチが病死、メナシ領ウェンベツ支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んで亡くなる、クナシリ首長マメキリの妻が和人からもらった飯を食べてまもなく亡くなるなど不審死が続き、偶然であっても蜂起に至るのは時間の問題だったとも云える。寛政元年5月初めにアイヌ達が一斉に蜂起、国後、目梨地方の番屋を襲い、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞・番人らを殺害、更にチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加って海岸沿いにいた支配人、番人ら総数和人71人を殺害、目梨地方にいた和人の殆どは殺害されたが、アイヌに匿われ生き残った和人もいる。碑文では「凶悪」なアイヌとあるが、漁場でアイヌ民族を消耗品としてを酷使し、奴隷以下の扱いをした和人の方が遙かに陰険で凶悪であった思う。抑圧者は常に自分に都合の良い事しか歴史に残さないが、この石碑も発見の経過からそういう疑念を感じるものだった。ノッカマップではクナシリ・メナシの戦いで処刑されたアイヌの人たちを供養するため毎年9月上旬にイチャルパ(供養祭)が実施され、続けてここで供養祭が行われています。石碑は昭和42年7月に根室市指定文化財となっている。 ◇製作年:文化9年4月 ◇設置年:大正元年? ◇移設年:昭和43年 ◇管理者:根室市教育委員会 ◇所在地:根室市納沙布 納沙布岬  ◇Gmap:Gマップ

故吉良逓送人殉職紀年碑釧路町

# 釧路の東側にある宿徳内の丘に釧路から16kmの昆布森まで逓送の途中に猛吹雪で亡くなった吉良平治郎氏の殉職記念碑があり、彼を讃えこの丘を吉良ヶ丘と呼んでいる。碑の全面に「故吉良逓送人殉職紀年碑」と刻まれる。裏面の碑文は風化や苔などで判読は難しく、転載した碑文は間違っているかもしれい。「大正11年1月19日深夜風雪有アリ昆布森逓送人吉良平治郞君獨リ職ニ縦事シ其行ニ邁進ス時移リ烈風亂雪人跡ヲ絶ツニ至ツテ遂ニ力竭キ進退谷マルカ如シ而モ至誠以テ郵便物ノ保護に任セントシ縦容此地ニ噎ル齢37噫君カ殉職ノ功永ク銘スヘキナリ因テ建之 大正13年11月20日 山岸札幌逓信局長碑文ヲ選ス 日坂孫吉刻ス」と判読したが建立者名がない。紀年碑を囲む柵は釧路郵便局開局百年記念で昭和49年11月1日に碑の場所を元の場所から50mほど移動して設置、その10日後に説明板を設置したというが、新たに再建されている。遭難を知り捜索隊に加わった平治郎氏と又従兄弟であった山本多助氏が遭難5日後に吉良平治郎氏を発見した。その後に吉良平治郎氏の殉職が滅私奉公精神を煽る美談として、高等小学校で修身の教科書に「責任」という項目で取り上げられ、小学校の道徳副読本北海道版でも取り上げられたが、吉良平治郎氏がアイヌ民族だったことを伏せたのだった。山本多助翁は吉良平治郎氏の殉職に納得せず「吉良平治郎はアイヌなんだ」「自然と人間が共生するというアイヌの考えを持っていたら、郵便物を届けるためとはいっても猛吹雪の中を無理に出かけることはしないもんだ。そんな無謀なことはしない。いかなる場合でも人命を優先するというのが俺たちアイヌの考えなんだ。」と云い、山本多助氏は滅私奉公のために吉良平治郎氏が利用されるのに抵抗して、アイヌの立場に立って吉良平治郎氏を顕彰しようとしたが実現しなかった。 ※春採中学校のある場所に平治郎の家があったが、春採中学校を建てる時に平治郎の家を壊されたようです。春採中学校の前には道路を挟んで病院がが山本多助の家だったのです。 ある人が書いた吉良平治郎の物語にすごいものがあります。そこには、吉良平治郎が守った行嚢は、公のものである。よって平治郎は天皇陛下の御ために行嚢を守ったのであると書いている人がるのです。当時、公のものということは天皇陛下のものということなのです。それはつまり、当時の社会情勢の中で吉良平治郎は徹底的に戦争の遂行のために利用されたのです。 釧路の東側にある宿徳内の丘に逓送の途中に猛吹雪で亡くなった吉良平治郎氏の殉職記念碑がある。紀年碑を囲む柵は釧路郵便局開局百年記念で昭和49年11月1日に碑の場所を元の場所から50mほど移動して設置された。彼が亡くなってから吉良平治郎氏がアイヌ民族だったことを伏せ、当時の社会情勢の中で徹底的に滅私奉公精神を煽る美談として、徹底的に戦争の遂行のために利用された。山本多助氏は滅私奉公のために吉良平治郎氏が利用されるのに抵抗して、アイヌの立場に立って吉良平治郎氏を顕彰しようとしたが実現しなかった ◇建立年:大正13年11月20日  ◇建立者:###  ◊所在地:釧路郡釧路町昆布森村 吉良ヶ丘  ◇Gmap:Gマップ

アイヌ民族弔魂碑厚岸町

# 江戸時代に入ってから間もなく蝦夷地は松前藩による商い場が開設され「交易」という名によるアイヌ民族に対する苛酷な搾取が始まる。アッケシのアイヌたちは、1789年のクナシリ・メナシの蜂起の時には松前藩と戦い多くの犠牲を払った。厚岸は江戸時代アッケシと呼ばれた蝦夷地東部を代表する交易と行政の中心地であり、1799年には江戸―アッケシ間航路も開設されている。1802年に東蝦夷地が幕府の直轄となり箱館奉行が設置されると、和人の移住に伴い必要とされたものは墓地と墓守であった。幕府はロシアの南下政策に対する辺境の要地、キリスト教禁止対策の一環、アイヌ民族の改宗などを目的として蝦夷三官寺を建立、その一つがアッケシのヌサウシコタンに造営された国泰寺でした。郷土館敷地内に「アイヌ弔魂碑」が建立されている。碑文全文「 由来、厚岸は美しい自然と資源に恵まれあなた方の楽土であった。然るにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により、財宝を奪われ加えて苛酷な労働のために一命を失うもの少なくなかったと聞く。けだし感無量である。我らはいま先人に代わって過去一切の非道を深くおわびすると共にその霊を慰めんがため、このたび心ある人々が相計り、東蝦夷地発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる。1977年8月15日 アイヌ民族弔魂碑建立委員会」※和人の侵略と搾取の実態を曖昧にすることなく、歪曲することなく率直な言葉で表現している碑は珍しいが、碑の建立場所を巡りアイヌ民族と和人の間には認識に大きなギャップがあった。アイヌ民族にとって「東夷鎮撫北海観察護国道場最勝禅窟景運山国泰寺」の文字が刻まれた国泰寺の山門は屈辱的な場所であり、国泰寺境内に建立する予定だった碑は、アイヌ民族の方々の強烈な抵抗により境内の外に建立された。※2002年1月29日に国泰寺より郷土館用地として町に寄附され、現在は郷土館用地(行政財産)として教育委員会の所管となっている。 ◇建立年:昭和52年8月28日 ◇建立者:アイヌ民族弔魂碑建立委員会 ◊所在地:厚岸郡厚岸町湾月1丁目2  ◇Gmap:Gマップ

太田紋助翁命墓碑厚岸町

# 太田紋助氏の業績が刻まれた碑はこの墓碑以外にはなさそうです。台座正面に「村名由来の人」横に小さく「明治25年4月3日没」と刻まれ碑文に「太田紋助は屯田設置に情熱をもやし前人未踏の大原始林を踏破土地選定に尽力す。その功績を称え氏の性をとって道庁令より村名を太田村とす」とあった。墓碑は共同墓地にあったが平成10年に太田屯田開基百周年記念協賛会により報国寺内に移設された。北海道有形文化財「太田屯田兵屋」内により詳しい説明書きがあり転載「太田紋助は弘化3(1846)年厚岸場所請負人、山田文右衛門の番人であった中西紋太郎、奔渡村シャリコトムの子として生まれた。幼少の頃はサンケルク、後に改めて太田紋助と称した。幼くして父を失い国泰寺で養われたが、時の住職、香山の影響を受け農事開墾に尽力し、更に幾多の公職について社会に貢献、同族のためにも奔走した。兵村設置に当たっては、自ら山野を探索してこの地を上申し、大いに努めたので、明治23年3月29日道庁令第12号をもってその地方を太田村と名付け、氏の功績を讃えたのだった」※46歳という若さで亡くなったことが惜しまれる。 ◇建立年:昭和8年10月3日 ◇移設年:平成10年4月3日 ◊所在地:厚岸郡厚岸町太田東 報国寺  ◇Gmap:Gマップ

教育者 三浦政治顕彰碑釧路市

# 釧路市春採の春採生活館敷地内に春湖翁頌徳碑と並んで三浦政治顕彰碑がたっている。三浦政治は永久保秀二に頼まれその後を継いで教師として赴任したが、僅か3年で春採から他の地に追放された。碑文より「三浦政治は官立春採尋常小学校長として大正13(1923)年5月より3年有半教育諸条件の改善、差別問題などの解決のため日夜奔走されかえって監督官庁による迫害をまねきアイヌ有志の抗議の甲斐なくコタンを逐われるにいたった。先生の[アイヌを虐げたりしたシャモ全部の身代わりとして死することを本懐]という生き方に学び民族連帯の絆を固めんことを願ってここに三浦政治顕彰碑を建立する。1977年11月23日 三浦政治顕彰碑建立期成会 北海道ウタリ協会釧路支部 北海道歴史教育者協議会釧路支部」※当時の教師としては型破りであるが、彼の信念に従って行動した。学校には何もないのでいい教育のできる算を出して欲しいと訴えたが無視され、代議士にかけ合ったり新聞に投書したり、補導委員としてコタンの人達を訪ね給与地の実態調査を行い、土地問題のため日夜奔走しアイヌ民族の生活向上のため奮闘したのです。当時の監督官庁にとっては非常に目障りな存在であり、3年有余で僻地に左遷された。碑の建立された頃は歴史教育者協議会の建立した説明板に詳しく書かれていたが今は無い。なお碑文と解説文の全文が『釧路碑文手帳Ⅰ・釧路新書』に載っている。 ◇建立年:昭和52年11月23日 ◇建立者:三浦政治顕彰碑建立期成会他 ◊所在地:釧路市春採1丁目12−22 春採生活館左前  ◇Gmap:Gマップ

春湖翁頌徳碑釧路市

# 釧路市春採の春採生活館敷地内に三浦政治顕彰碑と並んで永久保秀二碑がある。碑文は漢文で刻され管理人には解読は不能で『釧路碑文手帳Ⅰ・釧路新書』を参考にまとめた。春湖翁とあるのはキリスト教団の聖公会が明治24年に設立した春採アイヌ学校の主任教師、女宣教師ルーシー・ペインが同年の7月に宮城県出身の永久保秀二氏を教師、宣教師として招き、大正9年まで春採でアイヌ子弟の教育とアイヌ民族の生活向上に尽力、[春湖]と號した漢詩作家でもうり大町桂月とも親交のあったという。また永久保秀二翁の残した日誌類は釧路市の文化財として保存されている。ジョン・バチュラーの所属していた協会と同じで、教育内容には触れていないが、民族教育には寛容だったのではと思われる。碑の建立は教え子達が中心となって建設資金が集められ、工事は集落総出の労力奉仕で、土台の玉石は教え子達が炎天下汗を流しながら千代ノ浦海岸から運びコンクリートを流し出作りされたという。約30年という長い間校長兼先生を務め、アイヌ民族に慕われたという。大正13年に逝去するが、その13回忌に春湖翁頌徳碑が建立された。永久保秀二に頼まれその後任として赴任した三浦政治は内村鑑三、宮部金吾に師事し、二人の勧めでアイヌ教育に携わることになるが、永久保秀二、三浦政治という二人の教育者を支えたバックボーンにキリスト教があることは想像に難くない。 ◇建立年:昭和12年8月10日 ◇建立者:有志 ◊所在地:釧路市春採1丁目12−22 春採生活館左前  ◇Gmap:Gマップ

人道の戦士 山本多助の碑鶴居村

# 鶴居村HPに鶴居史の中に昭和39年にユネスコ村設置現地視察とあるが、それ以上の情報も無くユネスコ村もないが、茂雪裡の学校跡を過ぎてから左折し村道茂雪裡23号線に入り茂雪裡に架かるユネスコ橋を渡ってすぐ右折し少し進んだ木の下に人道戦士 山本多助の碑がある。正面の碑文上段の上に鳩の図、その下に「KUSIHRO UNESCO ASSOCATON」その下にUNESCOの建物の図が刻まれている。中・下段に「人道戦士 山本多助の碑」と刻んである。碑裏面には「アイヌ文化の優れた伝承者であり気骨あるかけがえのない人山本多助翁をたたえわれらユネスコ協会はエカシの友丹波節郎氏の発意によりここくしろ国際ユネスコ村にこの碑を建立するものである。1988年吉日 釧路ユネスコ協会 北海道くしろユネスコ村をふくむ結成 昭和28年10月」※解釈に戸惑うが、昭和28年に北海道くしろユネスコ村も含めて北海道くしろユネスコ協会が結成され、昭和63年に山本多助翁の碑が建立されたということのようです。設置されたユネスコ村はその後どうなったのだろうか、それらしい痕跡もなく荒れ果てていた。 ◇建立年:昭和63年 ◇建立者:釧路ユネスコ協会 ◇所在地:鶴居村茂雪裡  ◇Gmap:Gマップ

白糠先覚者 アイヌ慰魂碑白糠町

# 石炭岬の東山公園という見晴らしのよい高台に碑が建っている。碑文より「白糠はアイヌ語のシラリカ(潮溢れるる所という意碑)から名付けられたもので北海道でも自然の恵み豊かな集落として早くからひらけた由緒ある土地です。この白糠の源はまさに先駆者としてのアイヌ民族の尊い努力によってつくり上げられたものであります。白糠開祖の祖として貢献されたアイヌ民族の偉業を偲びこの知に骨を埋めた先人アイヌを顕彰するため、ここに全町民の総意をもってこの碑を建立いたします」と刻み、副碑の建立次第に「この碑を建てるに当たって北海道ウタリ協会白糠支部は、白糠在住全ウタリ賛同のもとに町内各層の有志に計り、発起人会をもって白糠町名誉町民青木金吾氏を会長とする建立期成会を発足させ、白糠町及び全町内会の全面的な支援を得て町民の浄財を仰ぎ、発起人一同と町内有志、全ウタリの共同の力をもって、ここに白糠先覚者アイヌ慰魂碑の完成をみたものである」※アイヌ弔魂碑と書かれた碑を見たのは厚岸に続いて二例目だったが、凄いと思ったのは全町民の総意で碑が建立されたことでした。 ◇建立年:昭和54年8月15日 ◇建立者:白糠先覚者アイヌ慰魂碑建立期成会 ◊所在地:白糠郡白糠町石炭岬 東山公園  ◇Gmap:Gマップ

小助川濱雄歌碑白糠町

# 和歌は「なみおと乃 磯に育ちて あれくれの 胸のたぎりの たゆるときなし」台座裏面の碑文より「歌人小助川濱雄君は明治38年眼下に見る白糠村泊に生れ30年の生涯を終えた。清廉篤実な学究の徒であった。少年の日村の先輩坂本漂葉に学び、歌道への志己み難く『潮音』社主太田水穂師に師事十年の研鑽の後特別社友となる。同門の先達小田観蛍師郷土北海道に文化の開花を志向して『新墾』の創刊に当たっては維持社友となり自らも亦『白糠潮音会』を設立して斯道の開拓に努めた。その間に絶唱の数々を生み清冽なリリシズムを歌い上げた。病魔頼りに襲い知友みな熱祷するも遂に昭和10年春浅き雪に消える。歌友ら悼み詠草を集めて『海彦』としたがいつか幻の歌集となる。年久しく釧路歌人会の人々復刊の気運を醸成、これを機縁に郷党追慕の情を籠めてこゝに歌碑建立する。小助川濱雄顕彰会 同級の友 坂本正能撰 山本秀一書 昭和54年11月」※ここでは歌人・小助川濱雄氏を顕彰した碑であるが、小助川氏はアイヌ民族の地位向上の為に奮闘されアイヌの人々をはじめ多くの人に慕われたのでした。 ◇建立年:昭和54年11月 ◇建立者:小助川濱雄顕彰会 ◇所在地:白糠郡白糠町石炭岬 東山公園  ◇Gmap:Gマップ

本別先駆者 アイヌ顕彰碑本別町

# 本別町市街より北の上本別にある上本別生活館敷地内にアイヌ顕彰碑がある。碑正面に「本別先駆者」「アイヌ顕彰碑」「本別町長 矢野幸雄書」裏面には本別は、アイヌ語のポンベツ(小さい川の意)からなずけられました。アイヌ達は、この地の厳しい自然を敬い、その恵みに感謝する、独自の精神文化・生活文化を継承しつつ生活を送っていました。明治期の国の北海道開拓計画により、本州からの入植者に先人アイヌは暖かい支援のこころをもち、共に今日の本別の礎を築くことに協力してまいりました。この幾多の先人アイヌの労苦に感謝し、徳を偲び、功績を讃えて本別町民と関係者の石によってこの碑を建立します。昭和六十三年十月 北海道ウタリ協会本別支部 本別先駆者アイヌ開拓顕彰碑建立期成会」※控えめな碑文だが「協力」ではなく「共に築いてきた」ならば顕彰に相応しい碑文になったとおもうが。 ◇建立年:昭和63年10月 ◇建立者:本別町先駆者アイヌ開拓顕彰碑建立期成会 ◇所在地:中川郡本別町上本別  ◇Gmap:Gマップ

音更アイヌコタン跡音更町 開進地区

# 北海道音更町で住宅街の一角に音更アイヌコタン跡がある。音更町設置の説明板より転載「北海道庁は、明治20(1887)年から明治21(1888)年にかけて、散在するアイヌ民族を半ば強制的に国道241号横の丘陵地まで北6~北9線の一帯に移住させ『音更コタン』を形成しました。明治32(1899)年、明治政府は『旧土人保護法』を制定して、勧農政策として一戸当たり約5haの土地を給与し定住を図りました。しかし、狩猟漁労民族の伝統から、農耕には意欲なく土地を手放してしまい、勧農政策は失敗に終わりましたが、アイヌ民族が十勝開拓に果たした役割は大きいものがありました。また、大正5(1916)年当時62戸189人が居住していました。そのご、昭和5(1930)年当時24戸(川西支庁調査)、昭和25(1950)年当時28戸140人(音更村調査)が居住していました」※漁場や良い農耕地からアイヌ民族を締め出し半ば強制的に移住させ、一方的に土地を奪っておいて給与というのも傲慢な話したが、給与地に関してはとかく問題の多い制度でした。このコタンもそのような経過の中で形成されたものです。 ◇設置年:平成26年10月 ◇設置者:音更町教育委員会 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

祖霊碑音更町

# 北海道音更町の住宅街に音更アイヌコタン跡があり柵と網に囲われた中に四基の碑があり、その中の一基が祖霊碑。碑文より転載「当開進コタンの祖先は往昔より山に猟し河海に漁り松前藩財政の基盤だった。明治新政が誕生するや開発の先駆となり貢献した功績は大きい。藩の漁場請負制度が廃止されるや明治8年より13年まで十勝漁業組合の下漁労に従い此の収益を保存し不時備う。後に続く者其の恩徳を感謝し慈に碑を建て先祖の御霊を弔う。昭和41年10月 社団法人十勝旭明社社長 縦六位勲六等 㐂多彰明撰 開進部落ウタリ一同」※ここで気になるのは十勝漁業組合の下漁労の事、明治7年に福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上すると、若松忠次郎は官の勧めもあって福島屋を離れ、杉浦嘉七の雇人の山崎勘之肋、堺千代吉、およびアイヌ代表とはかり明治8年に十勝漁業組合を組織、漁場経営は従来の場所請負制と酷似しアイヌを使い暴利をむさぼっていると批判され開拓使が明治13年に解散をさせた。十勝漁業組合が解散時に清算した利益は現在の貨幣価値で数億円に相当する金額であった。この中にあるアイヌ代表とは誰であったか、喜多彰明はアイヌ代表にも、官側にもたてる立場で気になる部分である。また「祖霊碑」建立一ヶ月前(9月24日)に旭明社が建立した「開道之礎石音更蝦夷民族祖先累世之霊廟」碑があるが、戦後20年を過ぎて蝦夷民族とは見識を疑う。毎年4月29日に祖霊碑祭が開催されているようだが、音更町民でもコタン跡や碑のあるこの場所を知らない方が多いようで辿り着くまで時間がかかった。※平成17年には音更霊園の敷地内に「音更町ウタリ納骨堂」が設置されたという。 ◇建立年:昭和41年10月 ◇建立者:開進コタンウタリ一同 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

喜多彰明先生の碑音更町

# 旭明社はアイヌ民族の中からエリートを選抜して組織して同化政策を柱に和人化を推し進める事を目的とした。それを行政側から強力に推し進めたのが喜多章明(1897~1986)氏の役割ということになるが、それはアイヌ伝統文化と決別する事を意味し苦渋の選択を強いるものだった。アイヌ民族の地位向上を期待して従う人もいたが、誰もが受け入れられる内容ではなかった。そういう経過はあっても50年以上に亘ってアイヌの生活や経済の向上推進のために働いた喜多彰明氏に、開進コタンの一同は喜多彰明の碑を建てその功を称えた。たがアイヌ共有地の関係では一貫して道庁職員として暗躍したと考えてよさそうだ。旭川の荒井源次郎氏は共有地をめぐり喜多彰明氏と和人小作人との動きを指して奸計と暴露、土地問題が契機となって保護法撤廃の運動が起こるなどの事もあった。戦後20年を過ぎて碑文に「縦六位勲六等」の肩書きに拘るなど違和感のある碑でした。 ◇建立年:昭和43年11月17日 ◇建立者:開進地区ウタリ関係者 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

故中村要吉翁顕音更町

# 中村要吉翁(アイヌ名イベチカレ・1880~1939)は明治から昭和前期にかけてのアイヌ民族指導者でした。碑文より転載「翁は明治13年アイヌ民族の一人として生まれ、当時同族の生活環境の変遷期に対処して、当時開進コタンの創設開拓に、はた又言語、風俗習慣等其の固有文化を異にする同族子弟の教育同化に尽くしたる足跡は洵に大きい。後を嗣げる当社団音更支部社員ウタリ一同は翁並びに先輩の苦辛開拓の行跡を追懐し、其の功績を称え碑を建て永く後世に伝う 昭和39年9月19日 右建設代表者十勝旭明社理事社長縦六位勲六等 喜多彰明 協賛 音更町長 本家三郎 協賛会長 中村豊信」※中村要吉翁は明治34年に戸長役場が開設されたのを機に、音更アイヌの戸籍整備に協力し氏名改定(和名化)のとき名付け親となり届け出一切を処理、またアイヌ民族の生活環境改善に努め、民族の復権に寄与する事を期待し、私財を拠出して開進尋常小学校の設立及び維持のために尽力した。当時の新聞報道などを見る限り、のちにウタリ教会の母体となる旭明社の考え方には懐疑的であったようですが、同族の生活や地位向上の為に奔走、昭和14年1月9日死去行年60歳であった。碑は開進コタン跡の国道側にたっている。 ◇建立年:昭和39年9月19日 ◇建立者:十勝旭明社 ◊所在地:海河東郡音更町木野大通東18丁目  ◇Gmap:Gマップ

開進尋常小学校跡地音更町

# 開新生活館入口脇に開進尋常小学校跡と大きく書かれた史跡標がある。裏面の説明文には「明治39年、アイヌ民族教育のため北海道庁が開設。昭和6年村立の音更・下音更に分割統合されるまで、庁立の単級校として運営されました」とある。明治(1899)32年に明治政府は「旧土人保護法」を制定し、勧農政策として1戸当り約5haの土地を給与し定住を図り、同化政策として明治39(1906)年にアイヌ民族の子弟教育のために「音更特別教育所・後の開進尋常小学校」を設置した。アイヌ民族の伝統文化を否定した差別的内容であったが、中村要吉は教育が民族の復権に寄与すること期待し、私財を拠出してこの学校の設立及び維持のために尽力したというが、苦渋の選択であっただろう。 ◇建立年:昭和59年10月 ◇建立者:川田工業株式会社寄贈 ◊所在地:音更町新通20丁目1番地12  ◇Gmap:Gマップ

大川宇八郎顕彰碑音更町

# 碑文より「翁は安政2年岩手県に生を享け、商人として明治10年渡道、同12年 オトフケプト モッケナシ 今の宝来富丘附近に到りアイヌ人と交易を始め、翌13年意を決し サッテキオトフケ 今の相生附近に入地、十勝内陸定住の祖となった。以後来住する人々を抉け、自らも農牧畜を営み、相次ぐ冷水害、病害虫にも挫けず堅い決意と不屈の信念を貫き、十勝開発の先駆者として功を収めたが、特に馬産改良に遺した功績は大きく開拓者の範と広く讃えられ、昭和12年当下士幌において、その尊い生涯をとじた。こゝに翁の足跡を辿り、碑を建てゝ永くその偉徳を顕彰する。昭和35年9月10日」裏面に「大川宇八郎顕彰碑建立期成会」とあり会長1名、副会長2名、役員13名、事務局6名の名前を刻んである。碑は道道73号線沿いで音更町本照寺の駐車場の前に音更発祥の地碑と並んで建っている。碑には記載されていないが明治16年に河川の鮭魚が禁止され明治17年の4月頃にはアイヌ民族が餓死寸前に陥いり、晩成社の依田勉三や鈴木藤太郎らとともに緊急に食料を調達し配ると共に、札幌に出向き早急な措置を求めている。晩成社の日誌4月20日付けにも記録が残されていた。参考文献・十勝開拓史話 ◇建立年:昭和35年9月10日 ◇建立者:大川宇八郎顕彰碑建立期成会 ◇所在地:音更町下士幌北2線東41  ◇Gmap:Gマップ

第二伏古尋常小学校跡帯広市

# チョマトー公園に近い国道38号線(十勝国道)沿いに説明板がある。説明文を転載する「明治37(1904)年、この地にアイヌ民族の児童の教育を目的に、北海道庁立第二伏古尋常小学校(後の日進尋常小学校)が開設された。全学年一緒に授業を受ける複式学級で、高学年の児童は下級生の面倒をよく見たと言う。また学科の他、農業実習の耕作も行われた。大正4(1915)年校長として着任した吉田巌は、アイヌ民族の教育と地位の向上のために大きな業績を残した。昭和6(1931)年、学校教育面で、もはや和人とアイヌとの間に一線を画する必要がなくなったとして廃校になった。下段の左側に日進尋常小学校の写真、右側に沿革がしるされている。説明板から沿革を転載「明治37(1904)年5月北海道庁立第二伏古尋常小学校開校、明治39(1906)年6月野経太郎訓導兼校長に着任、大正4(1915)年12月北海道庁立日新尋常小学校と改称、大正10(1921)年12月校舎改築、昭和6(1931)年8月閉校、平成5年3月 帯広市教育委員会」 ◇設置年:平成5年3月 ◇設置者:帯広市 ◊所在地:帯広市西16条北1丁目  ◇Gmap:Gマップ

チヨマトウ戦没者慰霊碑帯広市

# 碑文より「チヨマトウの伝承と歴史 チヨマトウはアイヌ語で「恐ろしい沼、害を受ける沼」という意味である。この沼は古くは大きな三日月湖だったといわれ、幕末に帯広を訪れた松浦武四郎もこの沼のことを「チヨゝマトウ 谷地中に小沼一ツあり。この水赤くなり手本川え落。」(戊午東西蝦夷山川地理取調日誌) と記録にのこしている。しかし次第に小さくなり、平成16年の道路直線化に伴う埋立で現在のような状態になった。この沼には十勝アイヌと日髙や北見など他から攻めてきたアイヌが戦ったという口承が残されている。・・伝承については省略・・平成16年11月吉日 真理教北門神社 建立」いずれの戦いにおいても犠牲者を出しているので「チヨマトウ戦没者慰霊碑」が建立されている。最初は昭和2(1927)年に帯広史跡保存会が「チョマトー古戦場」の標柱を建立し、昭和35(1960)年にはチホマトー慰霊碑建設委員会によって慰霊碑が建立されました。 健在あるのは平成16(2004) 年の道路工事で直線化に伴う埋め立ての際に、北門神社が記念碑を更新されたようです。 ◇建立年:平成16年 ◇建立者:神理教北門神社 ◇所在地:帯広市西16条北2丁目 チョマトー公園  ◇Gmap:Gマップ

蝦夷文化考古館幕別町

# 幕別町が設置した開設板より転載する「蝦夷文化考古館 この地を幕別町千住という。この地区はかつて白人村と呼ばれた。白人はアイヌ語で『チリオゥトゥ』と云い『鳥多き沼』の意味である。白人村にアイヌが住みついたのは寛延2(1749)年多くは北見方面からの移住と伝えられる。昭和19年白人を『千住』と改称。 吉田菊太郎独力で考古館を建設 この地に住む吉田菊太郎(1896~1966)はアイヌ民族の生活を立て直す事を計画昭和4年に白人矯風会を組織して彼らの生活改善に大きく貢献した。また先祖が残した生活用品古俗品などの散逸を憂いかねてから道内外より収集していた文化財を保存するために考古館を建設した。館内にはそれら貴重な文化遺産が展示してある。昭和40年1月8日吉田菊太郎の死亡により考古館のすべてが町に寄付されたものである。幕別町教育委員会」注・氏名の吉田菊太郎は正しくは吉田菊太郎であり訂正している。また逸散は散逸とした。※昭和時代に活躍したコタンの指導者・吉田菊太郎翁は白人地区に白人古潭矯風会や白人古潭納税組合、白人共栄甜菜組合を設立、この地区のリーダーでもあった。白人(チロット)村の地名は無くなったが教育施設や公園、神社の名称として残っている。蝦夷文化考古館には図書資料や文書資料、写真資料も収蔵されています。 ◇開館時間:10時~16時 火曜日休館(祝日の場合は開館し、翌水曜日休館)  ◇所在地:中川郡幕別町字千住114番地の1  ◇Gmap:Gマップ

ヤムワッカウタリ慰霊碑幕別町

# 国道242号線沿いの明野幕別共同墓地内にある慰霊碑です。裏面の碑文より「ヤムワッカとはアイヌ語で(冷い水)をいふ意味で昔は各所に清水が湧出し、当時のアイヌは飲水として生活し地名も ヤムワッカといわれてきたが昭和41年幕別と改名された。この碑の右の標石はこの地方アイヌ古来の墓標で(二股)は男(一方)は女を表している。この伝統を永く残し茲に当地で他界したアイヌを慰霊し共同の墓として建立する。昭和51年8月11日建立」※台座に建立に賛同した42家名が刻まれ、碑の右横に男女一対の墓標が建てられている。墓地の横を通る国道修復の工事現場から20体のアイヌの人達の遺骨が発掘され、無縁仏として町の墓地の一角に仮埋葬されていたが、9年後にアイヌ式墓標の建立と共に改葬改葬されたのでしよう。幕別町の資料によればアイヌ式墓標でクワと言い男性用の墓標をオッカヨクワ、女性用墓標はメノコクワというとの事、本来は木の墓標ですがここでは石標になっています。 ◇建立年:昭和51年8月11日 ◇建立者:ヤムワッカ縁42家 ◇所在地:明野・幕別共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

白人(チロット)コタン慰霊碑と三界万霊塔幕別町

# 千住14号線、先住14号橋近くの白人墓地に赤茶色をしたスイス産の墓碑がある。台座に10名の発起人と建立に協賛した36家の名前が刻まれているが、由来を記した碑文は刻まれていない。三界万霊塔には「白人古潭南四線東八十番地ニ在リシ旧土人古来ノ墓ヲ途別川切替用地トナリシ為メ此所ニ移転シ万人ノ骨ヲ埋葬ス 昭和四年十一月 幕別矯風會 建立」と刻ざまれている。三界万霊塔は昭和4年11月幕別矯風會が建立した慰霊碑です。 ◇建立年:昭和44年4月 ◇建立者:発起人10名他36家 ◇所在地:中川郡幕別町千住 白人墓地  ◇Gmap:Gマップ

フシコウタル・チビヤコタンの供養塔浦河町 

# 無縁仏となった先祖の霊を弔ってあげようとウタリ協会浦河支部会員が協力し合い募金を集め、フシコウタル(古い亡き同胞)の供養塔を昭和53年に建立した。中曽根康弘首相が日本は単一民族国家であるという国会発言に象徴されるように、存在そのものが国家によって否定され囚人、タコ労働者とともに差別の対象にされてきた。地域によっては墓も和人とは差別され、死んでもなを差別は続いたのでした。その2年後の昭和55年には向ヶ丘の共同墓地にチビヤコタン無縁供養塔を建立、最後に建立されたのが姉茶のフシコウタル供養塔になります。平成19年の先住民の権利に関する国連宣言に続き、平成20年の衆参両院の国会決議を受け政府がアイヌ民族を先住民と認めたが、差別がなくなったという事ではない。 ◇建立者:ウタリ協会浦河支部  ◇チビヤコタン無縁供養塔  ◇建立年:昭和55年  ◇所在地:浦河町緑町 向ヶ丘共同墓地  ◇Gmap:42.191766, 142.776322 ◇フシコウタル供養塔  ◇建立年:昭和53年11月  ◇所在地:浦河町杵臼 杵臼共同墓地  ◇Gmap:42.184766, 142.876359 ◇建立年:昭和57年8月改  ◇所在地:浦河町姉茶 姉茶共同墓地  ◇Gmap:42.228906, 142.732752

姉去簡易教育所(姉去土人学校)跡新冠町

# 新冠町エコミュージアムふるさと探訪14の碑のなかで唯一強制移住にかんする碑文があり転載する。「この地域は昔から多くのアイヌの人たちが住んでいたところです。明治29年、古川アシンノカルは、アイヌ子弟ののため、私費を投じてこの地に土人学校(古川教育所)を設立し開校しましたが、翌年の5月には教師が退職するなどの理由から休校となりました。明治36年、旧土人保護法による学校設置に際し、この学校が献納され庁立姉去土人学校(姉去簡易教育所)として開校しました。しかし大正5年に新冠御料牧場経営の都合によりアイヌの平取村上貫気別地区への強制移住に伴い学校も移転する事になりました。平成18年11月 新冠町教育委員会」※滑若(現泉付近)に住んでいた吉川アシンノカル(安政4年~大正14年)御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、アイヌ教育の発展に努めた人物、他に姉去簡易教育所の平面図が記されている。姉去より上貫気別へ強制移住が行われそれに伴って学校も上貫気別に移転した、現在の平取町貫気別小学校は姉去からの歴史を受け継いでいる。北海道は旧土人保護法に基づく簡易教育所を北海道各地に設置、その数は三十一ヶ所にのぼります ◇建立年:平成18年11月 ◇建立者:新冠町 ◊所在地:新冠郡新冠町大富  ◇Gmap:Gマップ

山川力之碑 日高町

# 碑の表に「アイヌの言魂を語り伝えたシサム 山川力之碑 せめて魂をエゾ地で眠らせたや」と刻まれている。山川力氏は「アイヌ民族文化史試論」などの著作で知られる研究者で晩年はアシリレラ氏と共に活動を行っていた。平成14(2002)年に「山川力氏の碑」を建立、山川氏の遺骨はこの碑の下にはないが、ブルドーザーで掘り返された数多くのアイヌの人々の遺骨の破片が集められ埋葬されている。アシリレラ氏ら有志はこの碑の周辺にアイヌ墓標を立て、かろうじて残された先祖のアイヌ墓標の下に眠る遺骨と共に毎年慰霊祭を行っている。 ◇建立年:平成14年 ◇建立者:アシリレラ他有志 ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地)  ◇Gmap:Gマップ

福満(フクミツ)のアイヌ墓碑日高町

# ここでの墓標はハシドイの木で、先端が槍型のものは男性、穴アキは女性の墓、墓標をイルラカムイと云い先端にミゾの彫られたのもあったという。幕別町で見た男性用墓標は先端が二股でオッカヨクワ、丸い棒状の女性用墓標はメノコクワ、本来は槐(えんじゅ)の墓標というが石標だった。アイヌの人々は家族や身近な人が亡くなると土葬し槐(えんじゅ)の墓標を立てた後は決してそこに近づかなかった。槐やハシドイは百年は腐らない木と云われ、その木が朽ちて無くなると故人の魂も天に昇っていくと考えられていたのは同じようですが、地方によって墓標の木材や形に違いもあったようです。和人も明治初期迄は土葬が一般的で、今も土葬を禁止する法律はないが、土葬を出来る墓地が少ないだけ。和人優先というナショナリズムは死後の魂のあり方も、強制と排斥を伴い墓地にもそれがみられる。福満の旧墓地では門別町が委託した業者がブルドーザーでアイヌの遺骨を掘り起こし、遺骨は一体5万円で町に引き渡される事になっていたという。福満に先祖の墓があるアシリレラ氏は福満でアイヌの人々の遺骨を発掘する事と墓標を引き抜くことを拒否し、業者の「金儲けの邪魔をするな」「お前も埋めてやる」などの威嚇にも屈せず抵抗を続け、遠い親戚にあたる祖先の遺骨と墓標は現在もそのままの場所にある。アシリレラ氏ら有志はそのときブルドーザーが掘り返した遺骨の破片を集め、引き抜かれなかった墓標のそばに木を植え、その根元に遺骨の破片を埋めた。広い北海道で古来より変わらぬアイヌの墓標が有るのはここだけとなった。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:沙流郡日高町福満76番地 (福満墓地)  ◇Gmap:Gマップ

旧上貫気別墓地碑平取町

# 最初に碑裏面の碑文を転載「平取町は肥沃な大地と豊かな自然に恵まれ、その開創は古く、祖父は昼なお陽光の届かない原生林に挑み上貫気別を開いた。明治大正の馬耕時代及び軍用場生産のため新冠牧場は拡大され御料牧場へと変遷したが大正4(1915)年、姉去コタンを追われ上貫気別に強制移住になった人々の悲しさは凄絶なものがあった。この郷土の開拓に心血を注ぎ鍬をお下ろした先覚者の事績を後世に伝え諸霊に参列者のみな様と共に鎮魂の誠を捧げます。平成2年8月 平取町町長 宮田泰郎」※最初の強制移住は明治28(1895)年の新冠郡滑若村から同郡姉去・万揃で、2度目は大正4(1915)年に姉去コタンを追われた。碑文に主役である追われた人々がどういう人々なのか刻まれていないので、この碑からアイヌ民族と云うのが理解出来る人は少ないかもしれません。道道71号線沿いで平取町旭地区の旧墓地付近は無人で自然に戻り案内板などもありません。 ◇建立年:平成2年  ◇建立者:###  ◊所在地:沙流郡平取町旭  ◇Gmap:Gマップ

造林殉難者の碑と志登利の碑平取町

# 平取町荷負地区にある八幡神社の本殿手前左側に墓碑が二基並んでいる。神社に墓碑という組み合わせは余り見ないが、昭和初期に造林作業に従事した青年2人が雨と雪のため道を迷い殉難した事を悼んで慰霊碑が建立されたようだ。碑文の中に「希クハ英霊止リテ」とあることから「滅私奉公」の象徴として神社なのかとも思った。碑文から遭難事故は昭和6年10月26日の発生ですが、碑の何処にも建立年が刻まれていないが昭和年代の建立と思われ発起人2人の名が刻まれている。志登利の碑は碑文の読めない部分もあるが、要約すると当時は荷負村に多くの和人が入りアイヌの生活が脅かされるようになり、それを憂いた志登利は経済力に応じた合理的な生活設計をたてるよう指導し、その結果和人に見劣りしない迄に至った。同族の今日があるのは君が父子の賚賜によるとその徳を称えた碑であった。碑文によると亡くなったのは明治43年9月15日で、碑の建立は大正丙寅歳秋8月と考えられるが、碑を建立してから後に碑文を刻んだ可能性もありそうです。この墓碑で気になったのは同族を愛奴人と刻んでいたことです。 ◇建立年:建立年不明 ◇建立者:荷負村民一同 ◇所在地:沙流郡平取町荷負78−7 八幡神社  ◇Gmap:Gマップ

祖先代々萬霊無縁の碑平取町

# 平取本町の平取共同墓地と道をはさんだ西側の小さな空き地に有志による木造の「先祖代々有縁無縁の碑」が建てられたのは昭和44(1969)年、昭和57(1982)年に石碑になった。昭和52(1977)年の墓地整備条例が公布された時には平取町のアイヌ墓地では遺骨が掘り起こされ、墓標が引き抜かれていたという。平取では学問の為ではなく墓地整備のためにアイヌの人々の遺骨は掘り起こされたのだった。古式なアイヌ民族の墓標は後から入植してきた和人たちの石碑に置き換えられたのだった。当時アイヌ民族で平取町議員だった宇南山斎氏は、無縁のアイヌの人々の遺骨を一ヶ所にまとめて埋葬し、慰霊碑を建立するために有志を募り、当時の平取町議員で道南バス平取営業所の所長であった佐藤旭氏などが出資したという。 ◇建立年:昭和44年 ◇再建年:昭和57年  ◇建立者:###  ◇所在地:沙流郡平取町本町 平取共同墓地西脇  ◇Gmap:Gマップ

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