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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道先住民族の記念碑・顕彰や慰霊の碑を巡るⅠ‼

静眠の碑少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑 網走市

静眠の碑 正面上段の碑文より「静眠 少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑」下段の碑文は「君たちの死を ムダにはしない 平和の願いをこめて 1982.5.3 ウィルタ協会」裏面の上段碑文「田中了書」下段碑文は「1942年 突如召集令状をうけ サハリンの旧国境で そして戦後 戦犯者の汚名をきせられ シベリアで非業の死をとげたウイルタ ニブヒの若者たち その数30名にのぼる 日本政府がいかに責任をのがれようとも この碑はいつまでも歴史の事実を語りつぐことだろう ウリンガジ アッパッタアリシュ(静かに眠れ)」※日本政府は昭和17年に対ソビエトの諜報活動のため南樺太の北方民族ウイルタを日本兵として招集。北方民族ウイルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌは昭和17年8月、旧日本軍の諜報活動に従事しソ連国境近くで活動、ウイルタやニブヒの青年約50人も招集されていたという。ゲンターヌは仲間と供にソ連軍に捕まり戦犯として8年間抑留され、昭和30年に刑を終えるも、故郷の樺太に戻る事が許されず、昭和31年に舞鶴へ引き揚げそのご網走に移住した。昭和50年に「オロッコの人権と文化を守る会」(ウィルタ協会)が発足、樺太の同胞との交流や少数民族の復権に努め、肉体労働で生計をつなぎながら、少数民族の軍人恩給支給問題を国へ訴えたが、日本政府は樺太原住民に対しては兵役方の適用がないと拒否。昭和57年にゲンダーヌ(日本名・北川源太郎)氏が、日本の為に働きシベリアに抑留され息絶えた同胞ウイルタ、ニブヒの人々の霊を慰め、戦争に弄れた北方少数民族の歴史を語り伝えたいと碑の建立を決意、多くの人の寄金で天都山中腹、眺湖台に「少数民族ウイルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑(静眠)」を建立した。先住民達を使い捨てにした日本政府への断罪と抗議の意味を込め静眠の碑は立っている。場所は民宿・眺湖台の手前。 ◇建立年:昭和57年5月3日 ◇建立者:ウィルタ協会 ◇所在地:網走市大曲(眺湖台)  ◇Gmap:Gマップ

南極探検 樺太犬供養塔稚内公園

南極探検 樺太犬供養塔 日本が初めて南極観測に参加するにあたり極地での物資輸送を目的に編成された「犬ぞり隊」が観測船宗谷で南極大陸に渡り任務をまっとう、しかし翌年の昭和33(1958)年、南極の悪天候を克服できず、樺太犬15頭が現地に鎖に繋がれたまま置き去りにされて死ぬという悲劇があった。樺太犬供養塔は南極大陸で命を落とした15頭の「犬ぞり隊」の霊を慰めるための稚内公園の犬ぞり訓練所跡地に建立された。観測隊がケルンをつくりそれを道標として雪原を前進したことから、慰霊碑は三角のケルンに秩父硬石が張りめぐらされています。昭和34(1959)年奇跡の生還を果たしたタロとジロはその後も観測隊を助けて活躍、ジロは帰国直前の昭和35年に突然の病に倒れ、生きて再び日本の土を踏むことはありませんでした。タロは札幌の北大植物園で余生を過ごし、昭和45年にこの世を去りました。現在タロは北海道大学農学部付属博物館に、ジロは東京上野の国立科学博物館に剥製となって保存されています。ここで知られていないのは、犠牲になったのは南極に置き去りにされた樺太犬だけではなかったこと。樺太犬は樺太アイヌにとっては荷物を運ぶ働き手であり、猟犬であり、食料だった。これは極地で暮らす人達とトナカイの関係と似ている。南極探検隊が着ていた防寒服が裏も表も樺太犬の毛皮だったこと、防寒具1着作るのに数頭の犠牲、全隊員分となればどう見ても百頭以上は犠牲になったと思われ、それは同時に樺太犬と共に暮らしていた人達も犠牲になったことを意味するが、南極に渡った樺太犬達の美談で、防寒具となった樺太犬と樺太犬と共に暮らしていた人達の犠牲は歴史の表から葬られたのだった。 ◇建立年:昭和36年10月1日 ◇設置者:稚内市 ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ  ◇Gmap:Gマップ

柏木ベンさんの碑稚内市

柏木ベンさんの碑 宗谷岬から西へ3kmの国道238号線沿いの第2清浜地区に、樺太探検へ渡海した間宮林蔵の銅像が建てらていたが宗谷岬に移転、同所に「間宮林蔵渡樺出航の地」碑が建立され稚内市教育委員会の設置した説明板があります。その隣に寄り添うように「宗谷アイヌ 柏木ベン」の名が刻まれた碑がある。碑文「此地は吾が祖先の樺太と逓送を行える地なり 間宮林蔵渡樺を記念し石標を建て 部落のすべてが毎年の祭を行えり 此石は当時をしのぶ唯一のもの也 宗谷アイヌ 柏木ベン」※碑文から集落で此石を祀り林蔵祭が毎年行われていたことがわかります。伝承によると間宮林蔵が最初の樺太探検の時に海岸に自分の墓石を建てたといい、その石が発見されたともいうがそれが「此石」なのでしょう。碑には建立年や建立者、建立経過は刻まれず、碑を建立目的や此石も見た人が想像するのみ、「間宮林蔵渡樺出航の地」碑の付随碑なのかもしれないが、結果的には宗谷アイヌ最後の文化伝承者・柏木ベンさんの言葉を「間宮林蔵渡樺出航の地」碑の引き立て役にしてしまった。間宮林蔵はその功績により碑や銅像などが建立されているが、その業績は宗谷アイヌの協力なしには不可能であっただろう。そういう意味では説明板などを設置するなどの配慮が必要と思うがそれもない。稚内市北方記念館に宗谷アイヌの説明を転記「ソウヤ(現在の稚内市宗谷)を中心に居住していたアイヌの人びとを宗谷アイヌといいます。19世紀はじめには400人規模の人びとが住んでいました。北海道アイヌの文化と樺太アイヌの文化の接点をなす重要な場所に位置しているにもかかわらず、その文化的実態はよくわかっていません。1961年(昭和36年)の柏木ベンさんの逝去により宗谷アイヌの文化の伝承者は絶えました。」稚内市は傍観していただけなのでしょうか・・・ ◇建立年:詳細不詳  ◇建立者:詳細不詳  ◇所在地:稚内市第二清浜  ◇Gmap:Gマップ

チエトマナイ慰霊碑稚内市

チエトマナイ慰霊碑 稚内市東浦にある慰霊碑ですが、碑文には「地域開拓の初めから昭和初年ころまでこの地に墓地が有り先住民族を初め、海難事故者など無縁の人たちの霊が今尚地下に眠っています。ここチエトマナイにたおれた先人の霊が安らかな永遠の眠りにつくことを願い、さらにこの地の明日に向かっての一層の躍進に御加護賜らんことを、こい願い心をこめてここにこの碑を建立す」としるされている。 ◇建立年:昭和60年8月12日 ◇設置者:東浦町内会 ◇所在地:稚内市東浦  ◇Gmap:Gマップ

北風磯吉生誕之地木標柱 下川町

北風磯吉生誕之地 寄川と支流矢文川の合流部付近にはかつてアイタコタンがあって下川町上名寄12線付近で明治13年(※戸籍上の出生日で実際の出生年月日は不明)に生まれた名寄アイヌの伝承者てあり、地元に貢献した功労者でもある北風磯吉生誕之地碑がある。北風磯吉氏は明治31年5月、名寄町(現・名寄市)内淵に移り農業に従事するが、明治33年12月から札幌月寒歩兵第廿五聯隊第二大隊第五中隊に入隊し満期となった明治36年に除隊するも、明治37年8月、旭川第七師団に豫備役として入隊し日露戦争に従軍、白襷決死隊に参加する。日露戦争には63名のアイヌ兵が出征し戦功により勲章を授与されたものは51名、金鵄勲章は3名におよんだというが、北風磯吉は功七級金鵄勲章であった。当時のアイヌ兵が「帝国の臣民」になりきるために戦場でに積極的にかつ危険な任務につき命がけの努力をしている姿をみてとれます。除隊してからは農業に従事し冬は造材夫として働いいていたが、昭和16年より名寄町日進10線にて炭焼き、冬は造材夫として昭和25年まで働き、名寄地方のアイヌ伝承者として多くの研究者の調査などに協力しています。昭和28年6月に旭川清和園に入園、昭和44年2月、肺結核にて逝去しました。北風磯吉氏が所有していた遺品・民俗資料は名寄市に寄贈され一部は北国博物館で展示されている。日露戦争の英雄ということもあるのか自衛隊名寄駐屯地資料館にも北風磯吉翁の資料があるという。標柱は国道239号線の上名寄16線から矢文橋(名寄川)を渡って、左折し約350mほどの右手道路際。 ◇更新年:不詳・平成年代  ◇建立者:下川町  ◇所在地:下川町上名寄  ◇Gmap:Gマップ

アイヌ民族一同の墓名寄市

準備中 名寄市郷土資料報告・第7集によると、明治30年代年代後半に此の地に入植した高橋計助氏の父、運助氏が付近にアイヌの人々の墓があったと聞き、その供養のため建立。最初のものは高さ6尺の角材、昭和42年堤防が築かれたため同41年に現在地に移転。行事、催事、その他、毎年6月10日に供養をし、昭和44年に高橋家が旭川へ離農した後も10年間ほど続けていたという。最初の墓標は木で後に石に変わり碑文「南無妙法蓮萃経」「アイヌ民族一同之墓」裏面に「昭和三十七年五月吉日 施主 高橋計助」と文字は判読可能。碑は幕別橋の左岸上流側の河川敷内にあるが、目印もなく草が伸びると高さのない碑(碑全高約60cm)を探すことは難しい。場所も移動して本来の墓の位置は不明だが永く地域の人達によって供養されていたのでした。 ◇建立年:昭和37年5月吉日  ◇建立者:高橋計助  ◇所在地:名寄市日影1線 名寄川左岸河川敷

北風磯吉木碑アシリ・クワ 名寄市

北風磯吉木碑 元名寄市在住の佐藤幸夫さん(函館市在住)が、昭和62年に市内緑丘の所有地に木碑を建立。碑には北風さんの生き方を表した言葉をアイヌ語で刻んであるが、何者かによって壊され旭川の故杉村満さんの協力を得て平成13年に同じ場所に再度建立した。北風磯吉木碑のある所で名寄に在住した先祖らへのイチャルパが毎年執り行われているようです。北風磯吉翁は名寄市(現・下川町上名寄)のキトウシヌプリ付近で生まれ、地理に明るいことから16歳で天塩川流域の測量に加わった後、明治31年にアイヌの給与地であった内淵に移住し農業に従事しました。日露戦争で旭川第七師団に応召され伝令として活躍し金鵄勲章を受ける。アイヌ文化の伝承者でもあった北風磯吉さんが、皇国の臣民として愛国主義者の如きに扱われ、ファシズムの先棒を担がされたのはさぞ迷惑なことだったろう。復員後も内淵で農業に従事、大正7年には内淵特別教授場建設資金を寄付するなど地域の指導者として尊敬を集めた。碑に彫られた「アイヌネノアン キタカゼイソキチ エカシ プリコラムアイヌ ワポロスクプクル」と書いてある。意味は「人間らしい北風磯吉は、エカシ、大人として十分風格がある」ということのようで、より人間的である人間として生き抜いた方なのでしょう。アイヌ語で書れた碑があるのは素晴らしいが、説明板が無いので何が書いてあるか理解できない人の方が多いです。 ◇建立年:平成13年(再建) ◇建立者:佐藤幸夫 ◊所在地:名寄市緑丘 佐藤幸夫地所内  ◇Gmap:Gマップ

村長ニシパコロの住居跡サッテクベツ 士別市

村長ニシパコロの住居跡 安政四年、松浦武四郎が当地を訪れ最初に宿泊したのはリイチャニにあったニシバコロの空家だったが、ニシハコロを浜に下げられ家の屋根は腐り、内にはイタドリが生え悲惨な状態になっていた。天塩川流域の労働可能なアイヌ達は請負場所の中心地だった苫前に半強制的に下げられてていたがニシハコロは苫前の乙名であったようです。場所負制度が廃止され士別に戻っていたアイヌ達は、屯田兵入植前は士別の天塩川筋にアイヌ家屋は10件と云い、中士別0線付近に酋長ニシパコロをはじめ3戸、士別橋下流付近に3戸が漁猟によって生活していたと云い、明治29年頃まで居住していた様で、このことは北風磯吉によって確認されているという。またニシバコロは佐藤正克が上川、中川の実情調査に入っていた明治5(1872)年、名寄に越冬小屋を建て天塩川の案内をしていたという。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:士別市中士別  ◇Gmap:Gマップ

クーチンコロ顕彰碑鷹栖町

クーチンコロ顕彰碑 旭川市「アイヌ文化の森・伝承のコタン」に英雄クーチンコロの顕彰碑がある。ここでは説明板より転載「上川地方の偉大な指導者であったクーチンコロ・エカシはアイヌの尊い神々を深く敬慕しながら常にコタンの幸せを希求し続けた人で有った。明治2年当時の兵部省の無法極まる強制移転命令に対して憤然と起ち堂々たる正論をもって遂に屈服させウタリの土地を守りぬいたのもクーチンコロ・エカシであり松浦武四郎ら多くの探検家達もクーチンコロ・エカシに導かれてこそ奥地探検が可能だったのである。和人支配によって激変するコタンの將来を心に深く案じた人であり、その明毅の風格はいまもウタリの胸裡に生き続けている。ここわれらのチノミシリに顕彰の碑を建立し、この地に生きこの地に埋もれた代々のエカシフチの象徴として永くウタリの鑑とする。昭和53年3月22日 旭川アイヌ協議会 新ロマン派会員 澤田茂作」※説明板は顕彰碑建立の4年後に設置されている。北海道の名付親として知られる松浦武四郎は安政4年と安政5年の二度にわたり当地を訪れている。安政4年の石狩川踏査では河口部から含めてクウチンコロ、トミハセ、セッカウシ、アイランケ、ニホウンテ、イハンハカル、シリコツ子、ハリキラ、イナヲアニ、イソテク、ピヤトキ、シリアイノの12人がそれぞれの居留地を中心に同行した。安政5年の上川から十勝に抜ける踏査では石狩河口部から含めてクーチンコロ、イソラン、サタアイノ、サケコヤンケ、イコリキナ、タカラコレ、エナヲサン、ノンク、クラウンテ、シリコツネ、セッカウシ、ニボンテ、イワンバカル、タヨトイ、アイランケ、イソテク、イヤラクルの17名(十勝側のガイドは含めず)がそれぞれに役割を決めて武四郎の踏査行に同行している。説明板にあるとおり雪の残る山岳と道なき原野や渓谷を越えていく踏査行は現地のアイヌの協力なしには到底不可能で合った事は武四郎の記録を見れば一目瞭然である。その中心にいたのが上川の総首長クーチンコロであった。 ◇設計者:すぎむら満目 ◇建立年:昭和49年12月12日 ◇建立者:旭川アイヌ協議会 ◇所在地:鷹栖町8線西4号 嵐山公園  ◇Gmap:Gマップ

松井梅太郎顕彰碑旭川市

松井梅太郎顕彰碑 最初に説明板の顕彰碑由来を転載「工人松井梅太郎 顕彰碑由来 アイヌ木彫熊の開祖 松井梅太郎師は大正末期の頃から木彫熊の創作を始め、昭和24年2月15日 行年49歳で他界するまで20有余年に亘り、研鑽努力を重ね卓越せる技能を以て本道木彫の振興発展と後進の指導育成に盡力した偉大な先人であります。その功績は、永遠に不滅であります。故人の偉業をたたえ威徳を偲び同師の恩師である加藤顕清(故人)の創作にによって、昭和38年7年20日完成建立された。旭川民芸土産品研究会」※木彫り熊の発祥地としては八雲町ですが、リアルな木彫り熊は旭川という印象です。松井梅太郎氏は近文で生まれで熊打ちの名人、アイヌ木彫熊の先駆者として知られる。大正末期の頃から木彫熊の創作を始め、昭和24年に49歳の若さで他界するまで20有余年に亘り数々の作品を残す。熊を知り尽くした名工なくして、近文の木彫り熊はなかったでしょう。オサラッペ川の橋を渡り、嵐山に入ると「松井梅太郎の碑」が有ります。加藤顕清氏は上川中学(現・旭川東高校)出身で民芸品制作の指導を行っており、昭和13年にアイヌ民芸協会を設立にも関わっている。民芸では彫刻理論をメインに教えたと云う。顕彰碑のレリーフ(ブロンズ)人物像が加藤顕清の作品です。 ◇建立年:昭和38年7年20日  ◇制作者:加藤顕清  ◇建立者:旭川民芸土産品研究会  ◇所在地:鷹栖町8線西4号 嵐山公園  ◇Gmap:Gマップ

知里幸恵文学碑旭川市

知里幸恵文学碑 叙事詩ユーカラを「アイヌ神謡集」として世に出した知里幸恵文学碑。右側の碑の頭頂石には『銀のしずく 降る降る まわりに・金のしずく 降る降る』と「アイヌ神謡集」の一節が刻されている。「アイヌ神謡集」の編訳者として知られる知里幸恵(1903-1922)さんは登別に生まれ、母の姉金成マツの養女となり14年間を旭川にて過ごすが、大正7年来旭の金田一京助を泊めた縁で自ら書き始めた「アイヌ神謡集」出版の話が進み、金田一京助氏の勧めで大正11年5月に上京。金田一家に寄寓しながら校正作業にあたるが、その年9月、心臓病にて夭折、19年と3ヶ月の生涯であった。知里幸恵文さんの居住地跡となる北門中学校敷地内に文学碑建立日の6月8日は知里幸恵さんの誕生日にあたり、旭川市設置の知里幸恵文居住地跡史跡標があり、「アイヌ神謡集」は翌年出版された。北門中学校には知里幸恵資料室があり一般公開されている。 ◇建立年:平成12年6月8日  ◇制作者:空 充秋  ◇建立者:知里幸恵文学碑を建てる会  ◇所在地:旭川市錦町15丁目 北門中学校  ◇Gmap:Gマップ

川村カ子トアイヌ記念館旭川市

川村カ子トアイヌ記念館 松浦武四郎を案内したという総首長 クーチンコロという類い希な人物がいた。上川アイヌの石狩浜移住命令を断念させるべくクーチンコロと共に石狩に出向いた中の一人で、コタンのリーダーを継承したのが川村モノクテである。かれのあとを継いだのが川村イタキシロマだった。このイタキシロマの子がカネト(1889~1977)で母はアベナンカ。キンクシベツ(現旭川市永山)に生まれ、小学校卒業後は測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格。鉄道員札幌講習所を卒業後、北海道各地の線路工事の測量に携わる。2年後に除隊し三信鉄道に請われ、難しすぎて引き受け手の無かった天竜峡~三河川合間の測量をアイヌ測量隊を率いて敢行。現場監督も務めて難工事を完成。三信鉄道開通後は樺太や朝鮮半島での測量にも従事するが1944年に引き揚。戦後は測量の仕事を離れアイヌ民族文化を正しく伝承するため、私費を投じて大正5年に建設し川村カ子トアイヌ記念館の館長としてアイヌ民族の文化保存に尽力、北海道最古のアイヌ民族文化資料館として現在に至る。館内にはアイヌ文化の習慣を伝える生活用具を展示、屋外にはササ茸のチセが有る。売店は別棟。 ◇設立年:大正5年  ◇開設者:川村カ子ト  ◇所在地:旭川市北門11丁目  ◇Gmap:Gマップ

藤山ハルさん記念碑旧常呂町

藤山ハルさん記念碑 藤山ハルさんは明治33年、樺太に生まれ戦後は常呂町で暮らしていました。昭和30年に言語学者の服部四郎氏と知り合い、49年に亡くなるまで、樺太アイヌ語のすぐれた話し手として、服部四郎氏とともに樺太アイヌ語の記録に取り組みました。司馬遼太郎著「街道をゆく38オホーツク街道」から引用「ハルさんの言語量はおどろくべきゆたかさで、その音声はたしかだった。彼女は樺太西海岸北部のライチシカの出身である」「彼女の死は、荘厳だった。なぜならその死とともに樺太アイヌ語は死語になったのである。が、学問としてのこった。」74歳で亡くなられた藤山ハルさんは遺言によって海を見下ろす小さい墓地に、枕を樺太に向けて葬られたという。石碑は藤山ハルさんの墓が自然葬だったため、場所がわかりにくく墓参りが難しい状況だったため、服部四郎氏の長男・旦さんと、藤山ハルさんの次女・白川八重子さんが常呂霊園に建立したものです。矢印は、ハルさんの故郷樺太の西海岸エストリを示しています。 ◇建立年:平成20年11月3日 ◇建立者:服部旦/白川八重子 ◇所在地:北見市常呂町常呂 常呂霊園  ◇Gmap:Gマップ

聖観音菩薩先住民慰霊碑 旧常呂町

聖観音菩薩 常呂霊園に常呂在住の榎本誠・榎本國さん夫妻(故人)より寄贈された聖観音像があります。碑文より「南無観世音菩薩 常呂町の発展に献身せる先住民族の霊を供養し心からの謝意を捧げる。無縁の霊よ心安らかに眠れ 南無観世音菩薩 和人の所行の悪を許し観世音菩薩の心を全町民に捧げ給え 佛の慈悲と深い知恵と高い徳を以て常呂町民の守り本尊として永劫の因縁を垂れ給うことを念願しここに建立する 昭和五十五年十一月 建立者」※ブロンズ製の高さ2m、大理石の台座を含めると4mにもなる立派なもので、交通事故で生死の境をさまよった時にお世話になったった多くの人への恩返しともいう。 ◇建立年:昭和55年11月10日 ◇建立者:榎本誠 榎本國 ◇所在地:北見市常呂町常呂 常呂霊園 ◇Gmap:Gマップ

カムイコタンの跡碑遠軽町

カムイコタンの跡碑 カムイコタンはかつてオホーツクの枝幸から常呂までを統率した湧別乙名の本拠地であった所で上川とも交流があったという。そういう古い歴史があってカムイコタンと呼ばれるのでしょう。滝は神居滝、滝に続く流れをカムイの瀬と呼んでいます。旭川にあるアイヌ博物館の川村家をはじめとして、御先祖が此の地に住まわれていたので、丸瀬布郷土史研究会が昭和40年にアイヌコタン跡と記したオンコの標柱を設置、昭和57年に石碑に更新され「カムイコタンの跡」と書き換えられた。ここはいまも一族にとっては大切な場所のようですが、カムイコタンの跡というのは言葉が足りない印象で、先祖の魂が見守る此の地は一族にとってはカムイコタンそのものでは。すぐ近くに開基・開校70周年記念碑「清流」がある。 ◇建立年:昭和57年6月 ◇建立者:丸瀬布町教育委員会 丸瀬布郷土史研究会 ◇所在地:遠軽町丸瀬布上武利  ◇Gmap:Gマップ

荒野菊池ウイントク像 美幌町

菊池ウイントク像 JR美幌駅前の東南端に荒野と題した銅像が建っている。台座正面に「荒野 ここに狩り ここを拓きて フロンテア眠る 荒野の果てに ひびきしオトウィパ 今もなお聴ゆる ごとく」裏面に「荒野 設置者 美幌町 制作者 谷口百馬 撰文 三木唯史 設置年月 1997.12 本像は1953年に美幌観光協会が彫塑家 谷口百馬氏にコンクリート像の制作を依頼し森町交差点に設置したが1978年道路拡張に柏ヶ丘に移設された 1997年本像の保存活用を希求する同協会から寄贈を受けた町はこれを修復。鍛造し町百十年記念事業として現在地に設置した」※一般的には酋長像と呼称されているようです。碑文で経過は理解できるが、この像の人物が誰で、フロンテアやオトウィパの意味するものが旅人には見当もつかない。像の人物は碑文にはないが美幌地方最後の大首長、菊池儀平(アイヌ名ウイントク(ウエントゥク)とされそれが酋長像と呼ばれる所以。オトウィパの意味を北の教養選書・宇田川洋著「アイヌ伝承と砦(チャシ)」から引用する。菊池ウイントクの子息であった菊池儀之助(アイヌ名ウカイセ)氏が津別ツペットウンチャシについて「もし敵を発見したときは直ちにオトイパ(合図の声)を発する。このオトイパにハンゲオトイパ(近い声)とトイマオトイパ(遠い声)とがあり、ハンゲオトイパは少数の敵を知らせ、トイマオトイパは多勢の敵を知らせるのであるが、この声を発するのは女の役であった」とある。エンカルチャシからは網走の海模様が見え、海が時化るとオトエバーをして知らせると丸木船を出し網走の海岸に出て寄せられた貝を拾い集めてもどるとも云い生活に密着した面もあったようです。美幌・ヤーラモネス氏伝に「アイヌ人は神秘的なこの声(※オトイパ・合図の声)が一里も二里も聞こえると信じている」とも、荒野の果てにひびきしオトウィパが伝わってくる。でも説明板は設置してほしい。 ◇建立年:平成9年12月  ◇建立者:美幌町  ◇所在地:美幌町字新町 JR美幌駅  ◇Gmap:Gマップ

桑田立斎アイヌ種痘之碑標津町

桑田立斎アイヌ種痘之碑 標津町望ヶ丘森林公園内に桑田立斎の石碑が有ります。碑文より「安政4(1857)年、新暦9月11日江戸深川の蘭学医、桑田立斎は折から220日の暴風雨の危機を乗り越え国後から野付けに渡り通詞 加賀伝蔵の補佐で士別一帯で種痘を行った。この種痘はアイヌの天然痘惨禍を憂えた函館奉行村垣範正らの要請で幕府により行われ、立斎は門人の西村文吉、秋山玄澤、井上元永とともに北上し広く巡回して1万3千人の生命を救った。ジェンナー種痘二百年にあたり一門の仁愛済生の偉業を称える。平成10年孟冬 標津町 桑田立斎先生顕彰会」立斎は途中で弟子に任せ蝦夷地を去り、井上元永は越年して種痘を実地してまわり計13,439人とあり、碑文の1万3千人より少し多い。当時の状況を松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」の現代語訳された「アイヌ人物誌」より一部転載する「窮民トミアンテ」には「昨巳の年公より種痘の医師を遣はされしかば・・・彼六太郎を連れてシツカリといへる所まで医師桑田氏を迎出て、第一番に其術を乞ふて申ける・・・此トミアンテのすゝめに依て先々の場所も一統何事もなく其術を受け、又桑田氏から着せるものを脱て与へられし其志に感じ、いとも有難き事と・・・其術を受けしぞ理りなりけるなり」とある。蝦夷地へ和人が入るとともに天然痘で亡くなるアイヌの人が激増。そこで幕府は桑田立斎に蝦夷地での種痘を命じ、その時この地で大きな力を発揮したのは松浦武四郎と親交の深かった通辞の加賀伝蔵という。ただ函館奉行は本当に天然痘惨禍を憂えて種痘に踏み切ったのか、それとも場所請負人の暗躍があって労働力確保のため種痘に踏み切ったのかという多少の疑問はのこる。 ◇建立年:平成10年 ◇建立者:桑田立斎先生顕彰会 ◊所在地:標津町南7条西・望ヶ丘森林公園内   ◇Gmap:Gマップ

横死七十一人の墓寛政蜂起殉難墓碑 根室市

横死七十一人の墓 碑は納沙布岬の傍らに建てられているが、碑の横面に「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれていることから文化九(1812)年の4月に造られたもので、大正元(1912)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)沖で漁船の網で揚がったもの。凡そ100年近く海底にあったにしては鮮明で文字が読めること自体に違和感があるが、裏側は掘りが浅いのか殆ど読み取れない。根室シンポジウム実行委員会編「三十七本のイナウ」140頁の根室市史より転載した碑文を掲載している「寛政元年己酉□五月此地凶悪蝦夷結党為賊事起乎不意士庶遇害者総七十一人也姓名記録別在官舎千歳茲合葬建石 文化九年歳在壬申四月建之」現代語でいうと「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」※クナシリの蜂起から22年後の事だった。誰が何時、何処に建てようとしたのかは不明、おそらくは運ぶ途中で海難により沈んだのではと思われている。引き揚げられてから珸瑤瑁墓地入口に設置されていたが、昭和43年に現在地に移設された。

アイヌ達はクナシリで飛騨屋の支配人、番人らにより冬の食糧を確保する暇もないほど過酷な強制労働で餓死者が出る状態でした。飛騨屋の番人らは「アイヌを根絶やしにして和人を連れて来る」と脅し、アイヌたちは追い詰められていた。寛政元(1789)年になりクナシリ島の総首長サンキチが病死、メナシ領ウェンベツ支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んで亡くなる、クナシリ首長マメキリの妻が和人からもらった飯を食べてまもなく亡くなるなど不審死が続き、偶然であっても蜂起に至るのは時間の問題だったとも云える。寛政元年5月初めにアイヌ達が一斉に蜂起、国後、目梨地方の番屋を襲い、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞・番人らを殺害、更にチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加って海岸沿いにいた支配人、番人ら総数和人71人を殺害、目梨地方にいた和人の殆どは殺害されたが、アイヌに匿われ生き残った和人もいる。碑文では「凶悪」なアイヌとあるが、漁場でアイヌ民族を消耗品としてを酷使し、奴隷以下の扱いをした和人の方が遙かに陰険で凶悪であった思う。抑圧者は常に自分に都合の良い事しか歴史に残さないが、この石碑も発見の経過からそういう疑念を感じるものだった。ノッカマップではクナシリ・メナシの戦いで処刑されたアイヌの人たちを供養するため毎年9月上旬にイチャルパ(供養祭)が実施され、続けてここで供養祭が行われています。石碑は昭和42年7月に根室市指定文化財となっている。 ◇製作年:文化9年4月 ◇設置年:大正元年? ◇移設年:昭和43年 ◇管理者:根室市教育委員会 ◇所在地:根室市納沙布 納沙布岬  ◇Gmap:Gマップ

故吉良逓送人殉職紀年碑釧路町

故吉良逓送人殉職紀年碑 釧路の東側にある宿徳内の丘に釧路から16kmの昆布森まで逓送の途中に猛吹雪で亡くなった吉良平治郎氏の殉職記念碑があり、彼を讃えこの丘を吉良ヶ丘と呼んでいる。紀年碑を囲む柵は釧路郵便局開局百年記念で昭和49年11月1日に碑の場所を元の場所から50mほど移動して設置、その10日後に説明板を設置したというが、説明板は新たに再建されている。碑の全面に「故吉良逓送人殉職紀年碑」と刻まれる。裏面の碑文は風化や苔などで判読は難しく、転載した碑文は間違っているかもしれい。「大正11年1月19日深夜風雪有アリ昆布森逓送人吉良平治郞君獨リ職ニ縦事シ其行ニ邁進ス時移リ烈風亂雪人跡ヲ絶ツニ至ツテ遂ニ力竭キ進退谷マルカ如シ而モ至誠以テ郵便物ノ保護に任セントシ縦容此地ニ噎ル齢37噫君カ殉職ノ功永ク銘スヘキナリ因テ建之 大正13年11月20日 山岸札幌逓信局長碑文ヲ選ス 日坂孫吉刻ス」と判読したが建立者名がない。遭難を知り捜索隊に加わった平治郎氏と又従兄弟であった山本多助氏が遭難5日後に吉良平治郎氏を発見した。その後に吉良平治郎氏の殉職が滅私奉公精神を煽る美談として、高等小学校で修身の教科書に「責任」という項目で取り上げられ、小学校の道徳副読本北海道版でも取り上げられたが、吉良平治郎氏がアイヌ民族だったことを伏せ当時の社会情勢の中で吉良平治郎は徹底的に戦争の遂行のために利用されたのだった。山本多助翁は吉良平治郎氏の殉職に納得せず「吉良平治郎はアイヌなんだ」「自然と人間が共生するというアイヌの考えを持っていたら、郵便物を届けるためとはいっても猛吹雪の中を無理に出かけることはしないもんだ。そんな無謀なことはしない。いかなる場合でも人命を優先するというのが俺たちアイヌの考えなんだ。」と云い、山本多助氏は滅私奉公のために吉良平治郎氏が利用されるのに抵抗して、アイヌの立場に立って吉良平治郎氏を顕彰しようとしたが実現しなかった。 ◇建立年:大正13年11月20日  ◇建立者:詳細不詳  ◊所在地:釧路郡釧路町昆布森村 吉良ヶ丘  ◇Gmap:Gマップ

吉良平次郎記念碑故吉良平次郎君 この地に眠る 釧路市

吉良平次郎記念碑 桂恋墓地の南側入り口近くで墓碑群とは離れた場所にある釧路郵便局が建立した記念碑。碑文「故吉良平次郎君 この地に眠る」「昭和63年6月1日 釧路郵便局建之」とある。淑徳内の碑と大きな違いは記念碑でも逓送と殉職が消えたこと。建立の由来文は刻まれていず、この年代になって建立した理由は不明だが滅私奉公の呪縛から解放されたのは素直に喜ぶべきか。同墓地には吉良平次郎氏が亡くなってから8ヶ月後に建立された「郵便遞送人吉良平次郎墓」があるも碑文は殆ど読めない。 ◇建立年:昭和63年6月1日  ◇建立者:釧路郵便局  ◇所在地:釧路市 桂恋桂恋墓地  ◇Gmap:Gマップ

アイヌ民族弔魂碑厚岸町

アイヌ民族弔魂碑 江戸時代に入ってから間もなく蝦夷地は松前藩による商い場が開設され「交易」という名によるアイヌ民族に対する苛酷な搾取が始まる。アッケシのアイヌたちは、1789年のクナシリ・メナシの蜂起の時には松前藩と戦い多くの犠牲を払った。厚岸は江戸時代アッケシと呼ばれた蝦夷地東部を代表する交易と行政の中心地であり、1799年には江戸―アッケシ間航路も開設されている。1802年に東蝦夷地が幕府の直轄となり箱館奉行が設置されると、和人の移住に伴い必要とされたものは墓地と墓守であった。幕府はロシアの南下政策に対する辺境の要地、キリスト教禁止対策の一環、アイヌ民族の改宗などを目的として蝦夷三官寺を建立、その一つがアッケシのヌサウシコタンに造営された国泰寺でした。郷土館敷地内に「アイヌ弔魂碑」が建立されている。碑文全文「 由来、厚岸は美しい自然と資源に恵まれあなた方の楽土であった。然るにその後進出した和人支配勢力の飽くなき我欲により、財宝を奪われ加えて苛酷な労働のために一命を失うもの少なくなかったと聞く。けだし感無量である。我らはいま先人に代わって過去一切の非道を深くおわびすると共にその霊を慰めんがため、このたび心ある人々が相計り、東蝦夷地発祥のこの地へ、うら盆に弔魂の碑を建てる。1977年8月15日 アイヌ民族弔魂碑建立委員会」※和人の侵略と搾取の実態を曖昧にすることなく、歪曲することなく率直な言葉で表現している碑は珍しいが、碑の建立場所を巡りアイヌ民族と和人の間には認識に大きなギャップがあった。アイヌ民族にとって「東夷鎮撫北海観察護国道場最勝禅窟景運山国泰寺」の文字が刻まれた国泰寺の山門は屈辱的な場所であり、国泰寺境内に建立する予定だった碑は、アイヌ民族の方々の強烈な抵抗により境内の外に建立された。※2002年1月29日に国泰寺より郷土館用地として町に寄附され、現在は郷土館用地(行政財産)として教育委員会の所管となっている。 ◇建立年:昭和52年8月28日 ◇建立者:アイヌ民族弔魂碑建立委員会 ◊所在地:厚岸郡厚岸町湾月1丁目2  ◇Gmap:Gマップ

太田紋助翁命墓碑厚岸町

太田紋助翁命墓碑 太田紋助氏の業績が刻まれた碑はこの墓碑以外にはなさそうです。台座正面に「村名由来の人」横に小さく「明治25年4月3日没」と刻まれ碑文に「太田紋助は屯田設置に情熱をもやし前人未踏の大原始林を踏破土地選定に尽力す。その功績を称え氏の性をとって道庁令より村名を太田村とす」とあった。墓碑は共同墓地にあったが平成10年に太田屯田開基百周年記念協賛会により報国寺内に移設された。北海道有形文化財「太田屯田兵屋」内により詳しい説明書きがあり転載「太田紋助は弘化3(1846)年厚岸場所請負人、山田文右衛門の番人であった中西紋太郎、奔渡村シャリコトムの子として生まれた。幼少の頃はサンケルク、後に改めて太田紋助と称した。幼くして父を失い国泰寺で養われたが、時の住職、香山の影響を受け農事開墾に尽力し、更に幾多の公職について社会に貢献、同族のためにも奔走した。兵村設置に当たっては、自ら山野を探索してこの地を上申し、大いに努めたので、明治23年3月29日道庁令第12号をもってその地方を太田村と名付け、氏の功績を讃えたのだった」※46歳という若さで亡くなったことが惜しまれる。 ◇建立年:昭和8年10月3日 ◇移設年:平成10年4月3日 ◊所在地:厚岸郡厚岸町太田東 報国寺  ◇Gmap:Gマップ

教育者 三浦政治顕彰碑釧路市

教育者 三浦政治顕彰碑 釧路市春採の春採生活館敷地内に三浦政治顕彰碑がたっている。三浦政治は永久保秀二に頼まれその後を継いで教師として赴任したが、僅か3年で春採から他の地に追放された。碑文より「三浦政治は官立春採尋常小学校長として大正13(1923)年5月より3年有半教育諸条件の改善、差別問題などの解決のため日夜奔走されかえって監督官庁による迫害をまねきアイヌ有志の抗議の甲斐なくコタンを逐われるにいたった。先生の[アイヌを虐げたりしたシャモ全部の身代わりとして死することを本懐]という生き方に学び民族連帯の絆を固めんことを願ってここに三浦政治顕彰碑を建立する。1977年11月23日 三浦政治顕彰碑建立期成会 北海道ウタリ協会釧路支部 北海道歴史教育者協議会釧路支部」※当時の教師としては型破りであるが、彼の信念に従って行動した。学校には何もないのでいい教育のできる算を出して欲しいと訴えたが無視され、代議士にかけ合ったり新聞に投書したり、補導委員としてコタンの人達を訪ね給与地の実態調査を行い、土地問題のため日夜奔走しアイヌ民族の生活向上のため奮闘したのです。当時の監督官庁にとっては非常に目障りな存在であり、3年有余で僻地に左遷された。碑の建立された頃は歴史教育者協議会の建立した説明板に詳しく書かれていたが今は無い。なお碑文と解説文の全文が『釧路碑文手帳Ⅰ・釧路新書』に載っている。三浦政治顕彰碑と並んで建立されていた春湖翁頌徳碑(永久保秀二碑)は崩壊し現存しない。永久保秀は明治24年に設立した春採アイヌ学校の主任教師、女宣教師ルーシー・ペインが同年の7月に宮城県出身の永久保秀二氏を教師、宣教師として招き、大正9年まで春採でアイヌ子弟の教育とアイヌ民族の生活向上に尽力[春湖]と號した漢詩作家でもあり大町桂月とも親交のあったという。永久保秀二の再建され墓碑が紫雲台墓地ににあります。 ◇建立年:昭和52年11月23日 ◇建立者:三浦政治顕彰碑建立期成会他 ◊所在地:釧路市春採1丁目12−22 春採生活館左前  ◇Gmap:Gマップ

人道の戦士 山本多助の碑鶴居村

人道の戦士 山本多助の碑 鶴居村HPに鶴居史に昭和39年にユネスコ村設置現地視察とあるが、それ以上の情報はない。茂雪裡の学校跡を過ぎてから左折し村道茂雪裡23号線に入り茂雪裡に架かるユネスコ橋を渡ってすぐ右折し少し進んだ木の下に人道戦士 山本多助の碑がある。正面の碑文上段の上に鳩の図、その下に「KUSIHRO UNESCO ASSOCATON」その下にUNESCOの建物の図が刻まれている。中・下段に「人道戦士 山本多助の碑」と刻んである。碑裏面には「アイヌ文化の優れた伝承者であり気骨あるかけがえのない人山本多助翁をたたえわれらユネスコ協会はエカシの友丹波節郎氏の発意によりここくしろ国際ユネスコ村にこの碑を建立するものである。1988年吉日 釧路ユネスコ協会 北海道くしろユネスコ村をふくむ結成 昭和28年10月」※昭和28年に北海道くしろユネスコ村も含めて北海道くしろユネスコ協会が結成され、昭和63年に山本多助翁の碑が建立されたということのようです。設置されたユネスコ村はその後どうなっているのだろうか現地はく荒れ果て管理もされていない印象でした。 ◇建立年:昭和63年 ◇建立者:釧路ユネスコ協会 ◇所在地:鶴居村茂雪裡  ◇Gmap:Gマップ

白糠先覚者 アイヌ弔魂碑白糠町

アイヌ弔魂碑 石炭岬の東山公園という見晴らしのよい高台に碑が建っている。碑文より「白糠はアイヌ語のシラリカ(潮溢れるる所という意碑)から名付けられたもので北海道でも自然の恵み豊かな集落として早くからひらけた由緒ある土地です。この白糠の源はまさに先駆者としてのアイヌ民族の尊い努力によってつくり上げられたものであります。白糠開祖の祖として貢献されたアイヌ民族の偉業を偲びこの知に骨を埋めた先人アイヌを顕彰するため、ここに全町民の総意をもってこの碑を建立いたします」と刻み、副碑の建立次第に「この碑を建てるに当たって北海道ウタリ協会白糠支部は、白糠在住全ウタリ賛同のもとに町内各層の有志に計り、発起人会をもって白糠町名誉町民青木金吾氏を会長とする建立期成会を発足させ、白糠町及び全町内会の全面的な支援を得て町民の浄財を仰ぎ、発起人一同と町内有志、全ウタリの共同の力をもって、ここに白糠先覚者アイヌ弔魂碑の完成をみたものである」※アイヌ弔魂碑と書かれた碑を見たのは厚岸に続いて二例目だったが、凄いと思ったのは全町民の総意で碑が建立されたことでした。 ◇建立年:昭和54年8月15日 ◇建立者:白糠先覚者アイヌ慰魂碑建立期成会 ◊所在地:白糠郡白糠町石炭岬 東山公園  ◇Gmap:Gマップ

小助川濱雄歌碑白糠町

小助川濱雄歌碑 和歌は「なみおと乃 磯に育ちて あれくれの 胸のたぎりの たゆるときなし」台座裏面の碑文より「歌人小助川濱雄君は明治38年眼下に見る白糠村泊に生れ30年の生涯を終えた。清廉篤実な学究の徒であった。少年の日村の先輩坂本漂葉に学び、歌道への志己み難く『潮音』社主太田水穂師に師事十年の研鑽の後特別社友となる。同門の先達小田観蛍師郷土北海道に文化の開花を志向して『新墾』の創刊に当たっては維持社友となり自らも亦『白糠潮音会』を設立して斯道の開拓に努めた。その間に絶唱の数々を生み清冽なリリシズムを歌い上げた。病魔頼りに襲い知友みな熱祷するも遂に昭和10年春浅き雪に消える。歌友ら悼み詠草を集めて『海彦』としたがいつか幻の歌集となる。年久しく釧路歌人会の人々復刊の気運を醸成、これを機縁に郷党追慕の情を籠めてこゝに歌碑建立する。小助川濱雄顕彰会 同級の友 坂本正能撰 山本秀一書 昭和54年11月」※ここでは歌人・小助川濱雄氏を顕彰した碑であるが、小助川氏はアイヌ民族の地位向上の為に奮闘されアイヌの人々をはじめ多くの人に慕われたのでした。 ◇建立年:昭和54年11月 ◇建立者:小助川濱雄顕彰会 ◇所在地:白糠郡白糠町石炭岬 東山公園  ◇Gmap:Gマップ

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