カウンター

北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
農民運動や農地解放、稲作関連の記念碑等を巡る‼

三毛別羆事件跡地苫前町

三毛別羆事件跡地 三毛別羆事件跡地に当時の住宅を再現し大きな熊の象と、跡地を示す石碑・説明板が設置されている。苫前三毛別羆事件は3日間で一頭のクマが開拓農家を襲い、6人を殺害、3人に重傷を負わせた日本の獣害史上最大の事件。場所は北海道苫前郡苫前村の三毛別六線沢という15~16戸が点在する縦長の集落で現在は三渓という。事件が起こったのは大正4年12月9日午前10時頃、太田三郎宅に一頭のクマが侵入し、在宅していた妻とその子供の2人を殺害。妻の遺体はクマによって持ち去られ、翌10日に変わり果てた姿で発見された。10日夜太田宅で2人の通夜が行われていた午後8時半頃に再びクマが遺体を奪い返しに侵入したが銃の発砲でクマは退散。その後にヒグマは太田家の下流にあった明景安太郎宅に侵入、上流に住む斎藤家の妻と子供が避難していたこともあり4人が殺され、3人が重傷を負った、午後8時50分頃の事である。その時すでに明景家の回りを開拓団の男たちが取り囲んでいたが、狙撃に失敗し仕留める事ができなかった。相次ぐクマの襲撃で人々は一刻も早く開拓地から逃れる事にし、3Kmほど下流の辻橋蔵家とさらに3Km下流の三毛別分教場とに分離避難させる事となった。クマ狩りの本部が下流の家に置かれ討伐隊員が集まったが、11日も12日もクマの姿は発見できず、13日夕刻には誰もいなくなった開拓集落9軒の家にクマが侵入、同日午後8時頃に更に下流に現れ発砲するも逃げられる。3日間の討伐隊は官民あわせ延べ600人アイヌ犬10数頭にも及んだが、14日午前にクマの足跡と血痕を発見し追跡した熊撃ち名人漁師の山本兵吉に仕留めらて幕引きを見た。仕留められたヒグマは体長約2.7m・体重約340kgのオス(推定年齢7~8歳)で、餌が十分に採れていたら400kgに近いクマと思われる。明治から大正期のヒグマによる食害事件は、人間とヒグマとがテリトリーを奪い合う様な状況で起きている。人里で起きた食害事件では事件を起こしたヒグマには明らかに前兆行動があったのを見逃したり、放置していたことが多いようだ。冬に穴に入らず飢えているクマは特に危険であり、また獲得した物(獲物)への執着心が異常に強くどんなことをしても奪いかえそうとする。遺体を奪い返した事は移住してきた人達がヒグマの生態や習性をよく知らずにしたことだが、それが更に被害を拡大させたようにも思えた。その後開拓民はその地を離れ戦後住む人もいたが現在は無住の地。この事件はテレビドラマ「熊嵐」となったので知る人は多いと思う。苫前町郷土博物館では最大級のヒグマ剥製とともに、この事件をジオラマ展示している。 ◇所在地:苫前郡苫前町三渓  ◇Gmap:Gマップ

三毛別羆事件犠牲者慰霊碑苫前町

三毛別羆事件犠牲者慰霊碑 碑文より「この度、生涯をかけての悲願たる熊害百頭退治の目標を達成し得たるを以て犠牲者各位に奉告申し上げ謹んで慰霊の誠を為し得たるは、偏に三渓部落は勿論、全町を挙げての御支援と関係各位の絶大な御協力に他ならぬ処にして、併せて深甚の謝意を表せんと欲す。思うに世界獣害史上かって類例をみざる残虐な熊騒動に依り当部落開拓の先人と7名の方々の尊い犠牲を目前にして、当時7才の子供心にも惨事の再来を防ぐ為一生を賭して熊退治に専念し、以て部落の安全を維持するは己れに課せられた責務なりと確信し深く決意せり。先ず20才にして狩猟の許可を得、尓来40数年営々として初志の完遂に務め幸いにして、本年5月3日遂に百頭の目標に到達し一生の悲願成就満足す。感激惜く与わざるものあり、依って茲に本碑を建立し以て慰霊と万端の報謝に凝す。乞いい願わくば各々の霊位来り享けよ。維時 昭和52年7月5日建之 施主 大 川 春 義 敬 白 部落会協賛」※部落は集落・村落を意味する方言、部落会は自治会や町内会に相当する組織。 ◇事故年:大正4年12月9日~10日 ◇建立年:昭和52年7月5日 ◇建立者:大川春義 ◇建立地:苫前郡苫前町三渓 三渓神社境内  ◇Gmap:Gマップ

北海道農民組合運動発祥地旭川市

北海道農民組合運動発祥地 碑全面に「北海道農民組合運動発祥地 岩淵 享 書」左側の碑誌より「本道における民主的な農民組合運動の鍬は、ここ上川郡東旭川村米飯の処女地にはじめてうちおろされた。1925(大正15)年9月5日、日本農民組合関東同盟米飯支部の旗であった。ながい封建的な地主制度のきびしい搾取をうちやぶる北海道農民の自覚的なたたかいが、天皇制政府、地主の圧迫に抗して組織として確立されたのである。それは上川郡神楽村農民の1911年から数年にわたる小作地又貸反対、御料地払い下げの闘争にひきつぐ本道農民組合運動の輝かしいあけぼのであった。米飯支部の創設に力をつくした人々をはじめ、運動初期に参加した多くの人達も今はない。苦難にたおれた先覚をしのび歴史の原点を永く記念し碑をここに建設する。 1973年9月5日 建立 農民組合創立50周年記念祭 北海道実行委員会 碑文 五十嵐 久弥 書 倉田康司」※裏面には「全日本農民組合北海道連合会は第二十六回定期大会の決定にもとずき、同連合会役員、諸局員で実行委員会を構成、創立五十周年記念事業の一環として此の碑を建立する 実行委員会名簿(氏名は省略) 石狩郡当別町 施行 岡本石材工業 1972」実行委員会の名簿は省略するが、実行委員の属する39市町村が刻まれている。となりに全日農道連再建20周年の1984年9月に全日農の顕彰碑が建立されている。 ◇建立年:昭和48(1973)年9月5日 ◇建立者:全日本農民組合北海道連合会 ◇所在地:旭川市東旭川町豊田  ◇Gmap:Gマップ

全日農顕彰碑旭川市

全日農顕彰碑 北海道農民組合運動発祥地碑の隣に顕彰碑がある。碑文より「日農北海道連合会創立の陣頭にたった先覚者、およびその旗をかかげ歴史を切り開いた人々」「荒岡庄太郎/重 井 敏 郎/五十嵐久弥/松岡二十世/荒  運 治/新 谷 商 夫」の6名が顕彰され「米飯支部創立の中核となり北海道に初めて日農の旗を打ち立てた人々」「竹 治 金 八/平 野 □ 八/渡 辺 和 助」の3名を刻む「一九八四年 九月 四日建立 全日農道再建二十周年記念事業実行委員会 題字 菅原 朝喜 書 倉田 康司」碑裏面に「全日本農民組合北海道連合会は 第三十八回定期大会の決定にもとづき 同連合会役員 書記局員等で実行委員会を構成 全日農道連再建二十周年記念事業の一環として此の碑を建立する」実行委員会名簿には72名の氏名と地域が刻まれている。北海道農民組合運動発祥地の碑が建立された11年後に建立されたことになります。 ◇建立年:昭和59(1984)年9月4日 ◇建立者:全日本農民組合北海道連合会 ◇所在地:旭川市東旭川町豊田  ◇Gmap:Gマップ

豊田 開拓碑旭川市

豊田 開拓碑 碑裏の碑文より「開拓碑 北海道知事 町村金五書」「沿革 豊田地区(元佐坂農場)は徳島懸の佐坂竹太郎が明治29年同志と図り北海道庁より払下を受け、翌30年春鈴江金等七名と共に入地したが、当時昼猫暗い大原始林のため開墾は困難をにも拘らず入植者が続き畑を主として開拓された。明治33年坂本末吉が初めて水稲二畝歩の試作に成功して以来佐坂竹太郎は将来の水田発展を予想し、明治40年に水利権の設定溝路の開削等積極的に農場の開発を進めた結果、大正8年にはほぼ現在の水田面積に達した。昭和の初期に入り農民運動の勃興に伴い、昭和3年には第一次の農地解放がなされ、年を追って第2次第三次と全農家に希望に満ちた自作農へと脱皮を遂げ40余年に亘る農場経営も昭和17年に終止符を打つに到った。思へばこれこそ大戦後実地された農地改革を逸早く好条件で農民にあたえ決行されたものであって、後継農場主等の高い識見と優れた業績には深い感銘を覚える。かくして理想郷実現への歩みは進められたが、当時の水田は湿田小区画田等問題多く住民相図り暗渠事業区画整備の推進、揚水施設の完備等大きく土地改良事業が続けられ現在の美田が実現、第三第四頭首工並びに付帯工事を昭和40年度をもって完了したので、農場開基70周年と併せてこれを記念し碑を建て、もって後世に伝える」※開拓功労者に佐坂竹太郎氏と中島源三氏の二名と後継農場主2名及び初代入植者6名、開拓碑建設委員17名、水田開發者の坂本米吉氏、土地改良功労者3名、歴代水利組合長4名、歴代水利組合役員20名の名前が刻まれている。農場主の佐坂は農休日を設定したのを始め、昭和3年に「第一次農地解放」以来、先見の明をもって第二次、第三次農地解放を行い自作農を育てた。富良野布礼別の農地解放が昭和6年なのでそれより3年早く始まったことに驚くが、農民運動が早期の農地解放へとつながったなのかもしれない。 ◇建立年:昭和40年9月 ◇建立者:開拓碑建設委員会 ◇所在地:旭川市東旭川町豊田  ◇Gmap:Gマップ

三箇農場開放記念碑旭川市

三箇農場開放記念碑  明治36年以来の元河路農場を大正元年(碑文では明治45年)に旭川の三箇元次郎氏が譲り受け、その後に隣接地等を開墾し約207haの農場経営にあたった。大正15年に農場内に日本農民党支部が結成され、昭和9年に小作料減免と小作地取り上げ反対を要求して争議に入り、日本農民組合が結成され、争議は翌年まで続いた。さらに昭和15年にも適正小作料を要求し争議になり、村全体の適正小作料を促すことになる。農場は大平洋戦争敗北で農地改革による農地解放をする事になるが、不在地主の所有農地として小作人に売り渡された。この農地解放を記念して碑が建立された。  碑文は上段の題額は端に小さく「参議院議員 掘 英治 書」とあり、中央に「念記放開」と今とは左右が逆ちなっている。中段は「三箇農場開放事歴 北海道上川郡東鷹栖村所在三箇農場ハ明治45年、当時鬱蒼ノ原始林未開地ヲ三箇元次郎氏カ附興ヲ受ケテ開拓経営スルニ肇ル。越エテ大正2年此地ヲ水田ト化スヘク土功組合ノ設立ヲ企圖シ、大正6年潅漑工事ニ着手シ同年竣工千項ノ美田ヲ形成シ、更ニ大正12年有畜農業ヲ討畫三箇氏ノ出資奨尊ニ依リ酪農組合ヲ組織シテ乳牛20餘頭ヲ飼養シ成果大イニ挙ル。爾来春風秋雨20餘歳此地ニ入ツテ孜々農事ニ専心スルモノ相踵キ漸ク三箇農場ノ隆昌發展ヲ見其ノ一致團結ノ美風ト共存共栄ノ成果ハ穀倉上川ノ心部2位シテ其ノ名ヲ辱メス鼓腹擊ノ農郷ヲ建設シテ今日ニ到ル。偶々昭和20年8月終戦ヲ一大轉機トスル社會情勢ノ変革ハ農地調整法ノ改正トナリ各自カ其ノ耕作地ヲ得テ自作農トナルヘク即チ三箇農場ノ開放ニ及ビ昭和24年5月ヲ以テ諸般ノ手續ヲ完了農業立國ノ本旨ニ基ク新タナル發展段階ニ入ラントシ轉今昔ノ感ニ堪エサルモノアリ。  農場主三箇元次郎氏ハ由来富山懸ノ人明治19年始メテ渡道シ同20年旭川ニ入リテ雑貨卸業並ニ食品工業ヲ営ミ側ノ土地ヲ愛スルノ念強ク採算営利ヲ無視シテ営々刻苦農場ヲ経営スルコト實ニ30有5年不幸昭和22年5月不歸ノ客トナレルモ農場ハ引續キ嫡孫三箇道雄氏ニ継承セラレ又其事業ハ三箇工業株式會社ノ發展トナリ同氏次男三箇清治氏五社ノ社長トシテ今日ニ及フ。三箇農場経営ノ初ヨリ三箇氏ノ命ヲ承ケタ専ラ農場管理ノ任ニ衝ノ其経営ヲシテ誤ラシメサルモノ先ニ近藤安次郎氏昭和19年更迭シテ湯沢廣氏共ニ其功蹟ハ稱揚シテ餘リアリ。 茲ニ三箇農場ノ開放ニ際リ農場買有志相謀リ農場主故三箇元次郎氏ノ高風道徳ヲ偲ヒ三箇農場ノ名ヲ永世後昆ニ傳エ農場員渾然一体ノ美風ヲ更ニ得續スヘク茲ニ小碑ヲ建立シテ記念トスル所以 昭和24年清秋」とあるが読みには確信はもてません。下段には開放委員委員長、副委員長、経理?委員、世話人として56名の氏名が刻まれている。 ◇建立年:昭和24年秋 ◇建立者:有志一同 ◇所在地:旭川市東鷹栖10線 22号  ◇Gmap:Gマップ

聖臺開發記念と聖水豊土の碑東神楽町

聖臺開發記念と聖水豊土の碑 行政区画では東神楽町に入る大雪霊園入り口に、聖台土地改良区が昭和56年に土功組合創立50周年を記念して建立した聖水豊土の碑と並んで建っているが聖台地区の開発記念碑です。碑文の書き写しは当てにならないかも・・・・「正三位勲一等男爵佐藤昌介題額/大民之於事也雖力行成之而蒙福楽生紛紜之議無於閭里一是莫不因聖明之徳澤□蓋歴/観神楽村開拓之跡愈深其感也凡此明治二十一年為帝室御料地而後編入世傳御料地同二十/六年以移民招致之㫖為所貸與焉顧在富時林木蔚然羆熊出没開墾之狀雖辛苦甚爾来民能努之/既除既治有私財漸購土地使小作農丁耕作故大正十年之頃墾田三千町歩四郊闢農民給如/野無曠土然先住之移民比歳享其利而小作之農丁是小族也雖躬從耕作而知有陷溺出患則抱不/平於方寸之間遂争議無起頻生苦其煩碎於是神楽村村長等大憂之日夜究絶其弊根與旭川警察/所長協力以欲使小作人請貸與高臺未開地四千七百町歩於官然而以農丁為二派内争再起故終/為請官詢一旦攘渡該地於神楽村以分譲之小作人而得其許可雖然當事尚慮将来欲委官畫之/經營官再容之遣吏蹈登實地遂區劃排水溝潅漑溝等之測量更風防林地公共用地公園豫定/地道路堤防寺社學校等之敷地以分譲地於農千代宇絶其弊根是以民始蘇行欣欣得服農楽生□/□非有官府之斡旋以見此平安哉然則是固 聖皇雨露之仁所以潤生民無以私心瀆聖代/皇恩而己矣是故舉村感拜恩光泣恵澤茲建高碑永欲記念之請予文因略叙所銘日/(※丹心答は割愛する)昭和十年十一月十三日/唐牛 樟本 成美 撰/梧堂 石川 繼述 所」大正13年にはじまる小作地又貸反対や御料地払い下げを求める小作争議は、雨竜の蜂須賀農場の争議と並び全国的に有名になったが、皇室御料地を開放するという措置で一挙に解決をした。その感激を記念して村民、旧神楽村が昭和11年3月に建立したというが、碑文では昭和10年11月3日となっている。台座を含めると高さが6m近い碑で、全文難解な漢文で管理人には手挙げ、説明板の設置など考えてほしいものだ。「題額 佐藤昌介(元北大総長) 碑文 樟本成美(元北大教授) 書 札幌師範学校習字科 石川継述」、裏面に聖臺開發記念碑建築委員として、当時の村長・安達利三郎氏を始め25名の名前が刻んである。開発記念碑の隣にある聖水豊土碑は通例では聖台ダムに設置されるのが普通なのだが、ダム建設地となった地元美瑛町宇莫別の猛烈な反対運動を強制収用という強権を発動し、監獄部屋による強制労働や囚人を動員して強引に建設した歴史故か離れた東神楽にある。聖台ダムには「疎水百選」と「土木学会選奨土木遺産」を認定した記念碑以外の碑はなく、慰霊碑や聖水神社は人目に入らないような所にある。 ◇建立年:昭和11年3月 ◇建立者:東神楽村村民 ◇所在地:東神楽町東1線12号  ◇Gmap:Gマップ

農魂之碑富良野市

農魂之碑 プロレタリア作家小林多喜二の小説「不在地主」のモデルとなった磯野農場小作争議の60周年と磯野農場町有地解放45周年を記念して建立される。長い碑文だがそのまま転載「郷土の先覚者不況不屈の開拓者魂を揮起して70年、ここに先達者の汗と涙の幾星霜を回顧せんとす。繙けば明治33年、193余町歩貸下げ同42年付与、斉藤農場創設さる。極度の湿地と泥炭、酷寒と豪雪、天を塞ぐ葭、ハン、タモなどの巨木と埋木、負けじと開拓に挑むも初心貫けず幾多先人この地を去る。農場も大野農場亦、同年44年磯野農場へと移る。日本農政史に残る磯野農場小作争議は労農提携相俟って特筆すべき苦闘の歴史を秘む、作家小林多喜二の名作「不在地主」を生んだ争議なり。大正11年小作料畑年貢から物納(米)へ加えて、15年の大凶作により生活は惨烈を極め小作料を巡り遂に大争議に発展、伴利八を代表とし菅原清六、奥野善造の諸氏ら17名の代表団、農場主磯野進氏と交渉の為小樽へ、労働組合事務所を自炊転寝の宿所とし、同志の厚い支援と婦人代表も小樽に向かうなど長く苦しい40日間を闘い抜く。昭和2年4月両者円満合意調停成立す。同時期町有地(防風林)の小作料も酷しく交渉委員会設置対応す。調停後円満に推移するも自作農創設の気運昂まり促進期成会設立、連動して町有地開放交渉委員会発足、高松竹次氏ら努力され、昭和16年難交渉の末悲願の農地解放実現一同感泣す。茫然たる原野も河川改修と開拓以来心血を注ぐ土地改良と弛まぬ開拓者魂が結晶し、北の大地に豊丈な郷土を築く、過ぎにし70年の歳月を偲び『壮年会』創立20年を記念し本事業を推進、先達者を顕彰、幾末永く郷土の糧となるを願い茲に農魂の碑を建立す。磯野農場争議60周年 磯野農場町有地開放45周年 昭和60年9月3日 記念協賛会」※磯野農場は小樽の米穀海産問屋を経営していた地主の所有で、30戸余りの小作に寄生した典型的な不在地主でした。富良野の小作人たちは争議団を結成し、地主のいる小樽まで乗り込み、小樽合同労働組合の援護を受けて勝利しました。 ◇建立年:昭和60年9月 ◇建立者:記念協賛会 ◇所在地:富良野市北大沼 北大沼公民館横  ◇Gmap:Gマップ

布礼別開発記念碑富良野市

布礼別開発記念碑 記念碑は自作農創設と農場開発30周年を記念して建立されたというが、碑文は達筆のうえ風化も進んで読み取れない部分が多い。碑文によると布礼別地区の開拓は浜益村の人、本間豊七氏が明治34年4月に農場を創設した事で始まるようです。本間牧場は農場創設して30年後の昭和6年より小作人に農地を解放し多くの自作農を創設させた。磯野農場より12年も早い農地解放で、磯野農場での自作農創設の気運昂まりに影響を与えただろうと思える。碑は農場開放に感激した小作人達が昭和9年の建立したとあるが、碑文は昭和12年?のようにも見える。 ◇建立年:昭和12年10月5日?(昭和9年10月) ◇建立者:旧小作人 ◇所在地:富良野市布礼別 布礼別神社(男山八幡神社)  ◇Gmap:Gマップ

新内バッタ塚新得町

新内バッタ塚 バッタ塚は北海道の北部では見た記憶はないが、石狩、空知にもあるかもしれないが、十勝では新内に数カ所のバッタ塚が残されています。「明治12年から同18年にかけて十勝で発生したトノサマバッタは、北海道内いたるところに飛来し、農作物を食い荒らして、開拓期の人々を震撼させた。開拓者たちは、当初、たき火や撲殺で農作物を守ったが、この重大さに気づいた開拓使や国の農商務省は、明治13年から本格的な駆除に乗り出した。駆除によって集められたバッタの成虫や、地中から掘り出した卵は積み上げられ、土をかけて固めて塚状にされた。こうした塚はバッタ塚と呼ばれ、十勝官内いたるところで見られたが、開拓が進むにつれて少なくなり、今日では新得町新内地区でしか見られなくなった。新内地区には、昭和41年の調査で約5㏊の土地に、高さ1m、直径4~5mの塚が70~80ヶ所確認されており、新得町では平成24年12月、町の文化財に指定している。明治期には、バッタの発生調査や駆除のため、開拓使や農商務省、札幌県の職員などが十勝を訪れており、このことで十勝が開拓適地として知られるようになったと云われている。新得町教育委員会」※入口に養魚場の看板がある。 ◇所在地:上川郡新得町新内西2線付近  ◇Gmap:Gマップバッタ塚入口

雨竜町史跡公園雨竜町

雨竜町史跡公園 公園内にある説明板より「道央地帯における米作りの始祖を蜂須賀茂韶(もちあき)といっても過言ではない。明治21(1889)年茂韶が、侯爵三条実美を盟主とする、戸田等6人の華族とともに、組合農場を組織し政府から雨竜原野一億五千万坪(約5万ha)にわたる広大な未開地を借りうけ、専ら米国式大農法による牧畜主経営を志し、開拓に着手した。明治24年三条公の死去により組合農場は解散したが、茂韶は初志をかえず、再度独力をもって同じ雨竜原野に農耕適地950万坪(約3,160ha)、山林900万坪(3,000ha)の貸付許可を得て蜂須賀農場を創設し、この場所に事務所を開いた。当時の開墾は畑主体で進めていたが、明治26年けい眠な彼は、この地方が水田可能地であることに着目し、水稲栽培に着手した。明治27年、8年の日新戦役により労働者は極度に不足し、大農法経営に支障をきたとたのでこれを小作方式の開墾に改め、明治30年、彼の旧領有地徳島県より130余戸の集団移民を入れその後富山県から年々多数の入植者を受け入れて開墾を進めた。水稲試作により可能性を認めた茂韶は、明治32年私費15万円を投じて、尾白利加川を水源とするかんがい工事に着手し、5年の歳月を経て、1,565haに及ぶ水田の潅漑施設を完成し、本町最初の造田化が進められた。以来、小作農家も一千戸を越え、新興米作地として世人の注目を浴び、明治40年には、小作米2万5千俵を数え、地方にはご農場と呼ばせ、茂韶、正韶、正氏との3代にわたり、本町行政まで支配する大農場であった。水稲耕作は年と共に隆盛におもむき、水田雨竜の名を高らしめた。しかし、大正9(1,920)年から10余年間も続いた小作料問題の争議や、これに伴う農民運動は世に知られるところであり、その本拠もこの場所である。かくて、昭和22(1,947)年農地制度の改革により、農地のすべてが小作人に開放され、本町開拓の拠点として威容を誇った蜂須賀農場は創設以来60年の歴史をここに閉じたのである。雨竜町教育委員会」※全国に知られた蜂須賀農場の小作争議を抜きに説明板は書けなかったようだが、蜂須賀農場の小作争議は大正9年から昭和7にかけて争われた。当時、蜂須賀農場は一町五村にまたがる日本有数の小作制大農場で、最初の争議は一方的な小作料値上げにより始まり、大半の小作人が増額小作料の据置きを要求したが敗北に終わった。昭和1年の第2回目争議は日本農民組合雨竜支部の指導で「小作料全免」「耕作権の確立」「土地を農民へ」の要求を掲げ組織的に闘われたが、官憲の力を借りた農場側の弾圧はすさまじく、農民側も多様な戦術をとったが、昭和7年3月に争議団の主要メンバーが大量に検束され、長期間にわたる争議は敗北、蜂須賀農60年の歴史は、小作人達の戦いの歴史でもあったが申し訳程度に触れているのみ。◇設置者:雨竜町教育委員会 ◇所在地:雨竜郡雨竜町満寿  ◇Gmap:Gマップ

農民碑長沼町

農民碑 馬追運河の近くで民家の隣に土盛りがありその上に立っている。碑文より「1926年 農民運動この地に芽生える 風雪に耐えこれを育みきたれるもの よりてまたは のこれるもの この像をもとに 光を絶やすまじ永遠に 1960年秋 長沼農民碑建設同志会 題字 野溝 勝 設計彫刻 本田 明二 石工 氏名省略」※昭和元(1926)年には全道的な不作で各地に小作争議がこ起きているが、長沼でも農民運動が起きたのかもしれない。その運動が引き継がれ「農民碑」建立となったと理解した。 ◇建立年:昭和35年秋 ◇建立者:長沼農民碑建設同志会 ◇所在地:夕張郡長沼町錦町南2丁目5-2  ◇Gmap:Gマップ

中山久蔵翁頌徳記念碑北広島市

中山久蔵翁頌徳記念碑 碑裏面の碑文は漢文で記載されていたようですが殆ど読めないので説明板より転載「中山久蔵(1829~1919)は今の大阪府南河内郡太子町春日に生まれた。26才の時仙台藩士に仕えた後本道永住を決意し島松に入地した。農業篤志家としての名声のほか、駅逓の経営にも尽力するなどその功績は大きい」とある。台座部分に発起人8名、賛助員114名とあるが、賛助員には団体も含まれるので、実に多くの人達に支持されで建立された碑だったようです。 ◇建立年:大正4年10月4日 ◇建立者:中山久蔵翁記念碑設立協賛会 ◇所在地:北広島市島松1−1  ◇Gmap:Gマップ

寒地稲作 この地に 始まる北広島市

寒地稲作 この地に 始まる 碑正面右側に「寒地稲作 この地に 始まる 北海道知事 町村金五書」左がには中山久蔵翁のレリーフがはめ込まれている。碑裏面の碑文より「ここは明治6年 大阪府出身 中山久蔵が最初に米作を試みたところとして永く記憶さるべき地である。当時道南地方を除いては北海道の稲作は危険視され、万全の開拓方策をたてることができなかったが、明治4年 単身卒先してこの地に入地し開墾に従事した久蔵は、あえてまずここに水田一反歩を開き、種子を亀田郡大野村から求めてこれを試み成功し、その安全性を証明したばかりだけでなく、その種子を道内各地の希望者に無償配布して成功せしめた。ために付近の水田耕作熱はとみに高まり空知、上川の穀倉を拓く基を拓きついに北海道を全国一の米産地に育てる因を作ったのである。昭和39年9月9日 北海道大学教授農学博士 高倉新一郎撰文 鈴木凌雲書」※石狩水田の祖と謳われ篤農家と尊敬された中山久蔵氏が、明治6年の稲作に成功した赤毛種は現在も「北広島市水稲赤毛種保存会」により毎年栽培されているとのこと、また「ゆめぴりか」は赤毛種の子孫にあたるという。 ◇建立年:昭和39年9月  ◇建立者:中山久蔵翁記念碑設立協賛会 広島村  ◇所在地:北広島市島松1−1  ◇Gmap:Gマップ

北海道水田発祥之地北斗市

北海道水田発祥之地 説明板を転載する。「北海道水田発祥の地碑 蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661~72)貞享二年(1685)、元禄五年(1692)の記録がある。 水田発祥の地碑は、元禄五年の「松前誌」の記録と村民の伝承によって昭和二十四年(1949)に建てられた。碑文には「押上(文月村)のこの地に元禄五年農民作右衛門なる者野田村から移って、人々の定着は米にあるとしてこの地を拓し、四百五十坪(約十五アール)を開田し、道産米十俵(現在の二俵程度)を収穫した」と記されている。現在の道産米の基礎はこうして発祥した。その後も稲作は失敗と成功を繰り返し、文化二年(1805)には函館奉行が大規模な水田開発を行ったが、長くは続かなった。嘉永三年(1850)、大野村の高田松五郎・万次郎親子が苦心の末、米の収穫に成功すると、近隣にも広がり、安政元年(1854)以降、米作りはようやく安定した。明治六年(1873)になって、島松(現北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し、米作りは全道各地に広がったのである。 平成十八年三月吉日 北斗市教育委員会」※北海道における米作りの概略がよくわかります。北海道水田発祥之地は平成20年3月26日に北斗市指定文化財となっていますが、建立者は?所有者が北斗市になっているので旧大野町が建立したものか・・ ◇建立年:昭和24年8月  ◇建立者:不詳  ◇所在地:北斗市村内  ◇Gmap:Gマップ

御手作場の碑共和町

御手作場の碑 碑前面碑文「御手作場の碑 共和町開基百五十年記念」とあり、碑裏面には「時の徳川幕府が蝦夷地開拓に着手するや安政四年(一八五七年)幌似と発足に御手作場を設置。私達の郷土に開拓の鍬が打ち下ろされた。荒漠たる未開の地を切り開き今日の発展の基礎を築いた先人の苦闘と努力の跡を忍び経緯と感謝の念を深くしたい。ここに先人の偉業を尊び、共和町開基百五十年を記念して碑を建立する。 平成十八年十月 共和町長 山本英二 謹書」※大きな碑ですが書かれている内容はシンプル。言葉を換えるとここが共和町水稲栽培発祥の地ということになります。以前に共和町役場と国道を挟んで設置されていた「史跡案内」の高札にあった説明文を追加して補足にかえます。「史跡案内 徳川幕府水稲試験地」 安政四年に徳川幕府が菅費を以って本朝の幌似に御手作場を設け、松川弁之助 後に常見栄太郎両氏に管理させ開拓に当たらせた。その当時幌似御手作場に入地した高橋兼松氏は開拓のかたわら国富の笹小屋、同じく南部茶屋と共に岩内ー余市間の旅人の宿泊休憩所として重要な役割を果たしていた。宿場はここから三〇〇メートル 左先にある5代目 現在の高橋作造氏宅である。昭和五七年十月 共和町 共和観光協会」※現在この説明板はなく南部茶屋跡の碑は確認できなかった。 ◇建立年:平成十八年十月  ◇建立者:共和町?  ◇所在地:共和町南幌似 38−2  ◇Gmap:Gマップ

満州清和開拓団殉難者供養之碑下川町

清和開拓団殉難者供養之碑 碑文「満州清和開拓団 殉難者供養之碑 下川町長 川原 充書」※昭和20年8月27日、ソ連参戦により入植地を追われた日本人開拓団は逃避行の途中、ソ連軍に遭遇。ソ連軍の偵察機を打ち落としたため(ドラマ『大地の子』の有名なシーン)報復があり、もはや助からぬと観念した開拓団員はソ連軍の戦車隊へ突撃し「玉砕」、女たちは子供をつれて自決した。佐渡開拓団最後の第7次清和開拓団がソ連国境近くの東安省虎林県清和地区に入植を開始したのは1938年、1941年には189戸883名が入植完了というが、ソ連参戦により645名が戦闘・襲撃・自決で死亡したが、中国大陸侵略で土地を奪われた現地農民の怒りが敗走する日本軍や開拓団に向けられ開拓団壊滅という惨状となった。生き残った人々の多くも難民収容所で死亡し翌年日本の土を踏んだのは50名という悲劇の開拓団ですがそのうちの20名も僅かの期間で病死し実質的な生存者は30名たらずということになります。役人や関東軍関係者トップ達はいち早く安全な後方に移動、軍への召集者を除いた清和開拓団総員658名は棄民とされ、帰国してもそれは変わらなかった。1977年11月よりに清和開拓団の中で生き残った13戸22名が下川町渓和地区に入植、現在は7戸となっている。清和開拓団殉難者供養之碑は8月27日を佐渡開拓団事件の日を命日とし、7戸の名前を刻んでいた。 ◇建立年:昭和52年8月27日  ◇建立者:7戸氏名省略  ◇所在地:下川町渓和  ◇Gmap:Gマップ

南靠山開拓団殉難者之碑砂川市

南靠山開拓団殉難者之碑 碑には上段に横書きで南靠山開拓団、縦書きで殉難者之碑、下段に南靠山開拓団殉難者267名と刻まれている。碑裏面の碑文より「昭和十三年満州國三江省依蘭懸ニ南靠山開拓團トシテ許可サレ逐次移住入植シタルモ昭和二十年八月ソ聯軍ノ越境進駐ニ現地ハ大混乱ヲ来タシ避難中ニ砲弾又ハ病ニ斃レタル犠牲者慰霊ノタメニ之ヲ建立ス 昭和三十五年八月七日 建立委員会」この碑を建立した23年後に「元 南靠山開拓団物故者 合同墓碑」が建立され碑裏面の墓誌に「戦後奇しくも生還し全國各地に於いて第二の人生を歩んで来たが不幸にして逝去された同志である 死後も共に肩を寄せ合い慰霊碑の傍らに永遠に眠るべく茲に合同墓碑を建立した。昭和五十八年八月 南靠山開拓団 慰霊碑建立委員会」※昭和13年に北海道北見地区と樺太出身者で構成された200世帯800人の開拓団が旧満州三江省依蘭県南靠山地区に入植するが、昭和20年8月ソ連軍の参戦で土地を捨て逃避行を開始、その途中で死亡者276名、その他多くの行方不明者を出すという悲惨な結末を迎えた。中国大陸侵略で農民から土地を奪い開拓團が送り込まれ、敗戦でその怒りは敗走する日本軍や開拓団に向けられ開拓団壊滅という惨状となった。 ◇建立年:昭和35年8月7日 ◇建立者:建立委員会 ◇所在地:砂川市空知太444-1 泉岳寺  ◇Gmap:Gマップ

ミニギャラリー

☆更新情報など☆

 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

横走り pagetop  戻る  先へ

モバイル掲示板

掲示板談話室

相互リンク

rss10 rss20

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1