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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
監禁強制労働に斃れた土工夫(主に朝鮮人)の慰霊・顕彰碑等を巡る3‼

6・朝鮮人の強制連行と朝鮮人労働者の慰霊碑‼

監獄部屋と日中戦争に始まり敗戦まで続く侵略戦争は朝鮮人・中国人強制連行は密接に関係している。明治43(1910)年に大韓帝国を併合し朝鮮半島を領有し植民地政策がはじまるがそこで行われた事を簡単に言うと
①土地の取り上げ 取り上げた土地は約6千人という日本人の地主所有になり小作人から高い小作料を収奪。
②コメの取り上げ 日本で生産されるコメだけで日本人の胃袋をみたす事はできなかったので朝鮮からの移入に頼っていた。多い時は朝鮮で生産されるコメの6割が日本に移入されたが、コメは本来朝鮮で消費される分を横取りしたもの。
③文化と教育の取り上げ これはアイヌ民族への同化政策を手本に民族教育を禁止、朝鮮語の使用を禁止し日本語を強制、日本人と同じと云いながら、差別をするという両面政策。

このような状況で朝鮮人民の生活は圧迫され貧困にあえぎ日本に仕事を求めて来日する人も増えていきますが、行くか行かないかは本人の自由でした。在日朝鮮人労働者は強制連行が始まる前年には約80万人に達していたともいわれています。差別されるのがわかっていても働きに行かざるを得ない状況を作ったのは日本です。

昭和12年に日中全面戦争(支那事変)が始まると出征者が増えて国内の労働者不足が顕在化し、戦時労働力を確保するため募集事業は政府の独占事業になります。昭和13年に国家総動員法が制定され昭和14年には国民徴用令の公布、この中で朝鮮人も日本国の戦争に動員することが計画され、大戦末期には個人の意志を無視して連行が行われるようになりました。

徴用とは国語辞典をみると「国家が国民を強制的に呼び出し、一定の仕事に従事させること」事とあり、本人の意思に関係なく呼び出し強制するもの。徴用工とは第二次世界大戦末期に朝鮮(主に大観民国)から日本に労務動員された労働者の事。法的な形式と実態が乖離(かいり)していることが問題を複雑にしている。

・朝鮮人の連行期

①第1期・昭和14年9月~昭和17年5月迄「募集形式=朝鮮総督府」(主に任意の渡航)

②第2期・昭和17年6月~昭和19年8月迄「官斡旋=朝鮮労務協会」(実態は強制が殆ど)

③第3期・昭和19年9月~敗戦迄「徴用令適用=強制」の3段階に分けることができます

暴力的な強制連行は第1期の終わり頃から始まったようです。北海道では「北海道土工殖民協会」が「北海道労働福利協会」となって「産業報国」機関に組み込まれます。強制連行は国内だけではなく「女子挺身隊」という名目で十数万とも云われる朝鮮人女性を中国、東南アジア、太平洋地域に慰安婦として連行、また旧満州や樺太、千島にも多くの朝鮮人が強制連行されている。強制連行の定義は難しいが、徴用も含め国家総動員法の下で連行に特高が同行し逃亡者は逮捕されるようなのは強制連行であったといえる。

朝鮮人はみな協和会手帳(朝鮮人の身分証明書)を渡され、この手帳は部屋が預かって信用人夫でも自由に外出させなかったが、戦争末期になると有無を言わせず軍属扱いとして千島に強制連行する事もあった。また協和会手帳を所持していない場合はタコ部屋に送られたともいう。もう一つのルートは日本人の労働者が徴兵され国内での労務者募集が困難になった周旋屋が、根拠地を朝鮮に移して労務者を集め監獄部屋に送るのも強制連行であったと云える。ILO条約勧告適用専門家委員会は1999年に 慰安婦・強制労働問題で「慰安婦」問題、強制労働問題はILO 29号(強制労働)条約違反であり、個人補償をすべきであると勧告。以降2年経ても一向に解決に踏み出さない日本政府に対し、2001年に再度、被害者が納得する解決を早急に行うよう勧告している。「慰安婦」問題では4回、強制連行問題では2回の勧告うけているが、日本政府に前向きな動きはない。鹿部町の無縁仏供養塔と松前町 国鉄松前線敷設工事殉難者慰霊碑は鉄道工事殉難者にいれました。

やすらぎの碑名寄市風連

やすらぎの碑 名寄市風連町の共同墓地内の6地蔵横にやすらぎの碑があり、ここに31体の朝鮮半島出身者の遺骨が納められていた。いきさつは不明だが戦後に役場より依頼され寺院で安置されていたが、平成14年にここに移され永久の眠りについた。調査で名前の判明した遺骨は1体だけのようで子供も含まれていたが、埋火葬認許証には本籍地が書かれていなかったようで、雨竜ダムや名雨線工事の関係者(犠牲者?)の可能性が濃厚だが詳細は不明。雨竜ダム発電所の早期稼働のため風連側への導水路開削とダム建設、鉄道敷設建設工事は同時進行で進められ、工事は過酷を極め多くの犠牲者を出した。天塩弥生駅のある名寄市弥生地区にも2棟の「監獄部屋」が置かれ、粗食と劣悪な居住環境下で過酷な強制労働が行われていたと云う。拘禁強制労働下での労働者は、事故や病気で亡くなると無縁仏として地域の墓地の一角に埋葬されたと云い、名寄では犠牲者数人が弥生地区の共同墓地や地区内の別の場所にも埋められているとも云う。北海道開拓殉難者調査報告書によると風連側のダム工事では殉難受者が60名、名寄~朱鞠内間の鉄道工事での殉難受者は45名、合わせると100人を超えるが、名寄市風連町の共同墓地に納められていた31体の遺骨を合わせるとその数は増えることになるが・・ ◇建立年:平成14年  ◇建立者:名寄市?  ◇所在地:名寄市風連町緑町  ◇Gmap:Gマップ

旧海軍第二美幌航空基地跡 掩体壕大空町(旧女満別地区)

第二美幌航空基地跡 掩体壕 近代日本が繰り返してきた侵略戦争とその準備の結果残された負の遺産が戦跡であり、人権や平和を願う人々を民主主義や人権・平和を否定し弾圧を繰り返してきた歴史の証言者です。北海道で云えばその象徴的なものに大戦末期に作られた旧陸軍や海軍の飛行場跡となりますが、これらの飛行場建設は本土決戦に備えて徴用と監獄部屋、強制連行で労働者を確保し軍の指揮のもと昼夜問わない突貫工事であり、暴力と過酷な労働などで多くの人々が傷つき亡くなられています。その飛行場も今は殆どが農地などに姿へていますが、根室の牧ノ内などは遺構が残っているほうでしょう。当時の女満別村よりの誘致で建設され女満別空港の前身となった海軍美幌第二航空隊基地の掩体壕が二基あり一基は道道64号から見えるが、それに加えて滑走路に敷き詰めた石材の採石現場、網走ポンモイの石切場も(ポンモイの柱状節理)も戦跡としてみることにします。「網走百話」の中にある「ポンモイ石切場の殉難」という項で徴用で動員された石切工員の目撃談「いきているままか、死んでからかわはっきりしないが、押し寄せた流氷の海に何人も投げ込まれるのを目撃した」と証言している。また朝鮮人と中国人もいたと証言しているが、中国人に関しては入国ルートが確認できず不明。旧海軍第二美幌航空基地の滑走路は戦後に進駐軍により破壊されるが後に米軍が利用するため修復、返還後は(旧)女満別空港となるも隣接地に移転し現在の女満別空港となっている。北海道開拓殉難者調査報告書の第二美幌と第一美幌を合わせた犠牲者数は63名、それにポンモイの石切場を加えると104名、身元判明者は98名となる。(平成3年版)、平成27年版の戦時朝鮮人強制労働調査資料では第二と第一を合わせた犠牲者数が24名、ポンモイの石切場4名で合わせると28名となり、犠牲者の78名は日本人と中国人となるがこの数字は不自然だ。当時は日本人が戦争で出征し他の飛行場工事ではその半分は強制連行の朝鮮人だった。国内徴用で集められた日本人素人土工夫にも犠牲者は出ているとは思うが、流氷の海に投げ込まれる等の闇に葬られた犠牲者が多かった事を物語っている。 ◇所在地:大空町女満別中央  ◇Gmap:Gマップ

旧海軍標津第二(川北)飛行場跡標津町

旧海軍標津第二(川北)飛行場跡 中標津町の現・中標津空港となっている旧海軍標津第一飛行場は、進駐軍によって誘導灯と滑走路を残して破壊され、当時の遺構は少ないが無蓋掩体壕などが民有地林野に残っているという。標津第二(川北)海軍航空基地跡は史跡として標津町指定文化財となり、一部が保存され飛行場跡地の案内板と説明板が設置されている。保存されているのは無蓋の掩体壕が有った地域ですが林野と化して道路からその全容を窺うことはできないが、早春であれば見るのは可能かも。案内板から転載「 標津町指定文化財(史跡) 標津第二(川北)海軍航空基地 掩体壕跡 平成14年8月26日指定 第二次世界大戦の末期に 日本海軍は、北海道東部から千島の防衛のために川北と中標津に航空基地を建設しました。川北の航空基地は昭和18年から測量、そして建設 が行われ、長さ1200mの滑走路、弾庫8、燃料庫10、掩体壕12、兵舎2、司令室、通信室、主計室、戦闘指揮所、地下通信場などの施設が建設されまし た。そして兵員28~35名と弾薬が配備されましたが、終戦まで軍用機が使用することはありませんでした。基地の敷地は、川北 北6線東1号を中心に約5km四方で、138戸の開拓農家が移転を余儀なくさせられました。また、基地の建設は、強制連行した朝鮮の人々などを監視のもと に厳しい労働をしいて行われ、犠牲者が出ました。軍用機を格納する掩体壕4基が集中するこの地点を文化財に指定しました。標津町教育委員会 」※掩体壕のある小区画以外は殆どが農地で痕跡は殆どなく、飛行場跡は太陽光発電のパネルが並んでいる。川北では八歳の少年土工夫が亡くなっていたと云うことで大きなニュウスになった事がありました。このことは「一枚の火葬認可証から」に詳しく書かれていますが、戸籍年齢と実年齢が違っていた事が原因だったようです。標津第二と第1を合わせた数は北海道開拓殉難者調査報告書では6名(平成3年版)、平成27年版の戦時朝鮮人強制労働調査資料では朝鮮人犠牲者は8名となっているが、実態はもう少し多そうです。 ◇指定年:平成14年年8月  ◇指定者:‎標津町  ◇所在地:‎標津町‎川北‎  ◇Gmap:Gマップ

旧陸軍計根別第一飛行場跡 掩体壕別海町

計根別第一飛行場跡 掩体壕 終戦直前にソ連軍の上陸に備え、日本陸海軍は千島方面の防衛を強化、本土決戦に備え計根別第1~第4飛行場、標津第1~第2飛行場、根室第1~第2の飛行場が昭和17年から人海戦術による突貫工事で建設され、計根別第1飛行場は北海道最大の飛行場だったようです。計根別を第1飛行場とし1200mのコンクリート舗装の滑走路と格納庫、他に兵舎を建設する。第1飛行場を主力とし西峻別に予備の第4飛行場が建設されている。太成と広野に建設された二つの飛行場は板張りの滑走路で偽装飛行場という工事は昭和17年1月からで全国から集められた勤労報国隊、女子挺身隊、勤労動員学徒と強制連行されてきた大勢の朝鮮人労働者による突貫工事で行われた。朝鮮人の多い時には3000人を超えていたともいうが、中には信用人夫として工事に加わっていた下請け朝鮮人労働者(組)もあり軍では特工隊と呼んでいたという。強制的に連行されてきた朝鮮人の多くは監獄部屋(タコ部屋)という生き地獄に放り込まれたのだった。また不衛生な環境でシラミが多く発疹チフスが発生し大勢の朝鮮人が亡くなったようです。暴力と過酷な労働に耐えられずで脱走するものもいて、農民達に逃亡を助けられた人もいるが、多くは捉えられ見せしめ死のリンチが待っていた。旧陸軍計根別飛行場で判明している犠牲者数は北海道開拓殉難者調査報告書では57名でそのうち2名は氏名不詳、戦時朝鮮人強制労働調査資料では朝鮮人犠牲者25名、連行された中国人9名であり結果とて日本人は21名、国籍不明2名となる。戦後に第1~第3飛行場は払い下げられ飛行場跡は殆どが農地に変わったが、本別の牧草地に掩体壕二カ所と格納庫?一カ所が見られる。 ◇所在地:別海町本別34  ◇Gmap:Gマップ

旧海軍根室第二飛行場跡 掩体壕根室市

根室第二飛行場跡 掩体壕 根室市牧の内に建設された旧海軍飛行場で根室牧ノ内飛行場と呼ばれることもある。規模は1200m×80mのコンクリート滑走路および1200m×80mの西側半分が未完成の転圧滑走路面を持ち、格納庫を6棟、大型無蓋掩体18基、小型無蓋掩体6基及び小型有蓋掩体12基を備えていたというが、現存するのは掩体壕3、格納庫壁2、誘導路という。グーグルマップの衛星画像でみると大型無蓋掩体跡と思われる所が数カ所あり滑走路跡はよくわかるが、滑走路跡は現地漁業関係者の網置き場として利用されている。不思議なのは大戦末期に建設された軍用飛行場でここだけが未完成のままで、しかも工事終了年月が不明な事、海霧で空港には不向きな場所に建設された事から用途が変更された(不時着用とか偽装飛行場等)のかもしれないが、根室市史にも室第二飛行場の記載はなく謎が多い。ここで使役された人々についても不明なことが多いようだが計根別や標津飛行場の例から考えると勤労報国隊、女子挺身隊、勤労動員学徒と強制連行による朝鮮人2.000前後だったと思われる。タコ部屋の無法を取り締まる法律は大正年代に成立し何度が改善策がとられ一定の効果はあったようだが、日中戦争突入後は有名無実になりナチスばりの人種差別と暴力がまかり通る無法地帯と化していた。この非人間的なタコ部屋システムがあって成り立つ強制連行、強制労働だった。旧海軍根室第二飛行場建設工事で判明している犠牲者数は北海道開拓殉難者調査報告書では87名、戦時朝鮮人強制労働調査資料では朝鮮人犠牲者58名、これからすると29名は日本人ということになるが、これは確認された人数であり実数はもっと多いとおもわれる。過酷な労働で建設された多くの飛行場もその殆どがまともに利用される事はなかった。理由は長期の消耗戦と特攻作戦で北方ほ守備する飛行機は残っていなかったからだろう。 ◇所在地:根室市牧之内

太平洋戦争強制労犠牲者慰霊碑釧路市

太平洋戦争強制労犠牲者慰霊碑 釧路市の紫雲台墓地に戦争中に港湾工事や炭鉱労働に従事させられるなどして亡くなった朝鮮半島出身者を慰霊する碑があり、その横に大きな石板(説明板)がある。これは釧路市民会議が昭和48年8月9日に設置した説明板を一部修正・削除をし石碑に建て替えたもの。碑文より「二度とくり返さない ここに眠る約100名の(韓国 北朝鮮)人々の人柱は祖国に帰る自由と行動の自由を奪われ築港炭砿など強制労働の中で犠牲になった人々である。明治43(1910)年日本政府の「日韓併合」以来昭和14(1939)年「労務動員計画」によって日本に20万人余りの(韓国 北朝鮮)人々が強制連行された。北海道にも昭和15(1940)年には43,000を越え終戦時には70,000人もの数になったという。私たちは戦争の犠牲になって死んでいった人々に対し、国境を越え民族の連帯と協力を深めていくことを、ここに誓う。二度と戦争の悲劇をくり返さないために市民一人一人の願いを込めその証のためここに慰霊碑を建てる。市民のご協力をお願いいたします。1973年8月9日 釧路市民会議 会長 津田力三」とあり、裏面の碑文は「岡山青山倶楽部北海道旅行の際、たまたま立ち寄りしました釧路で、釧路市民会議建立の慰霊碑に参拝し、素晴らしい碑文に接し、一同深く感銘し、北東亜細亜の平和と関係諸国民族の友好繁栄の為、碑文を永久保存するよう石造りに替えることを申し合わせた次第です。私たちは釧路市民の皆さんに感謝申し上げ、釧路市の発展を申し上げます。(名9人・12人省略) 岡山青山倶楽部 会長 季成鎬 他会員一同 2006年7月4日建立」岡山青山倶楽部の一行が参拝し釧路市民会議の設置した誓文を読んで深く感銘し碑を、それに感動した、岡山青山倶楽部のメンバー約20人がポケットマネーを持ち寄って捻出し御影石で高さ約2m、横幅約3m、厚さ15cmの石碑を造り釧路市紫雲台墓地に寄贈された。朝鮮人が炭鉱や道路、港湾などで働かされていたが全容は不明というも、食糧難のなか働けなくなった韓国人労働者100人が「伝染病にかかった」として紫雲台墓地に生き埋めにされたと伝わっており、千島から怪我や病気で送り返された無くなった朝鮮人や石切山での飯場で発生した伝染病でなくなった朝鮮人が多数いたといわれ、戦争終結まで200人近い犠牲者が出たともいう。紫雲台墓地に100体余りが埋葬されたことだけが分かっている。これらの人たちを供養するために追悼式が毎年行われているようです。◇建立年:昭和48年8月9日(慰霊碑) ◇建立者:釧路市民会議 ◇再建年:平成18年7月4日(副碑・説明碑) ◇建立者:岡山青山倶楽部 ◇所在地:釧路市紫雲台2紫雲台墓地 ◇Gmap:Gマップ

産業戦士英霊顕彰碑釧路市

産業戦士英霊顕彰碑 碑の正面は「産業戦士英霊顕彰碑」裏面は「昭和拾壹年以降為北方緊急工事殉職者建立者也 昭和拾七年十一月 菅原正一」と刻んである。更に顕彰碑の右手前に慰霊碑が在り裏面に昭和18年から昭和20年にかけて亡くなった菅原組職員戦没者12名の名前が刻まれている。顕彰碑左手前に碑誌があり「此の碑は故菅原正一社長の手により昭和11年以降軍命を受け北方基地建設に当たりたる菅原組建設要員として挺身中不幸にして斃れたる方々の顕彰の碑であり其の后戦況が激化拡大し終戦までの間職員12名他千数百名の戦没者を数えるに至れり 此の度線につながる有志相集い永遠の冥福を祈念し新たに一碑を建立せしものなり。昭和51年9月以下省略」※ここでいう名もなき他千数百名の戦没者は誰を意味するのかだが、その多くは朝鮮人とタコ労働者であったのだろう。タコ労働の元締めと云われた菅原組は軍工事の請負いで急成長したと云い、中千島の松輪島と北千島の幌筵島でも軍工事を請負った。千島では要塞化工事が強行され、過酷を極めた強制労働で多くの労働者が犠牲となったと云い、運良く生き延びても船舶で移動中に魚雷攻撃に逢い多くの人達が亡くなった。また千島で斃れた朝鮮人の遺体が紫雲台墓地に運ばれ200体くらい埋められたとも云い、その跡に顕彰碑が建てられたともいう。魚雷攻撃で多くの船舶を失い、大型船での物資や人員の輸送が困難になると小型の漁船などで輸送する事が多くなり千島への輸送基地が根室に比重が移るが、それが根室空襲を大きなものにしたものと思われる。 ◇建立年:昭和17年11月 ◇建立者:菅原組 菅原正一 ◇所在地:釧路市紫雲台2 紫雲台墓地 ◇Gmap:Gマップ

芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔芦別市

芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔 碑文「秀岳寺は西芦別(三井芦別炭鉱)にて、創立一世小島良善師が昭和16年三井鉱業所協力のもとに創立した寺院である。曹洞宗寺院として只一ケ寺、他宗の活動も未だない地域で布教教化を広めこの間、壇信徒は勿論、炭鉱内外職員、従業員並びに韓国、朝鮮、中国等の強制労働者およびタコ部屋労働者、受難者、炭鉱に係わる有縁無縁の霊を供養し又、遺骨を預かり懇ろに慰霊していたものである。第二世小島良秀に至り 昭和52年 第二次大戦(太平洋戦争)終戦より33回忌を迎えて、預かっていた多数の遺骨を東頼城町にて合祀埋葬したが、その後昭和62年寺の移転と共に、この地に石塔と全部の遺骨を移動したものである。戦争と人権蹂躙の災禍を2度と繰り返さぬよう祈念し供養するものである。願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に佛道を成ぜんことを 合掌」※移転後に新たに再建された慰霊塔です。◇建立年:昭和52年7月吉日 ◇移転年:昭和62年 ◇再建年:昭和63年3月吉日 ◇建立者:秀岳寺 ◇所在地:芦別市本町1151 陽林寺>

芦別炭鉱内外殉難者慰霊碑「和」芦別市

芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔 秀岳寺は昭和16年に東頼城で三井鉱業所の協力を得て創立された寺院で、昭和62年に現在地に移転、平成27年4月に名称が陽林寺と変更されている。陽林寺(旧・秀岳寺)境内に芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔と平成25年に建立された芦別炭鉱内外殉難者慰霊碑「和」がある。三井芦別炭鉱で犠牲となられた朝鮮人の墓碑、慰霊碑という。碑正面の碑文より上段に大きく「和」と記され下段に「生きとし生けるものの上に幸いあれ、平和あれ また、一切世間の上にかぎりなき悲しみをそそげ、上にも、下にも、また四方にもうらみなく、敵意なく、ただ慈心をそそげ」と刻み裏面に「平成25年7月吉日建之 秀岳寺二世小島良秀代」とある。同所に芦別川河畔での遺骨発掘調査が行われ、その歴史と経過を刻んだ碑が建立されている。◇建立年:平成25年7月 ◇建立者:秀岳寺 ◇所在地:芦別市本町1151 陽林寺 

遺骨発掘調査報告の説明碑芦別市

芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔 碑文「アジア太平洋戦争中、日本は朝鮮半島から70万人もの朝鮮人を日本国内に強制的に連行し、炭鉱や土木工事などに従事させた。三井芦別炭鉱に連行された朝鮮人は2千人に上る。彼らは重労働を強いられ、芦別川河畔に建てられた八棟の協和寮で窮乏生活をおくった。多くの犠牲者があったが、丁寧に葬られることもなく、河川敷に密かに埋葬された犠牲者もあった。慚愧の念に絶えない。2012年8月24日、芦別川河畔に、日本、韓国などから160人の老若男女が集い、犠牲者を求めて発掘調査をおこなった。4日間の発掘で、遺骨は発掘できず、埋葬跡とみられる穴のみを発見した。度重なる氾濫で、おそらく遺体はながされたのだろう。遺骨には巡りあえなかったが、参加者は犠牲者に思いを寄せると共に、国境や民族を越えて友情を深め合うことができた。再び過ちを繰り返さないことを誓い、ここに犠牲者追悼の碑を建立する。2013年8月21日 芦別川河畔強制連行犠牲者遺骨発掘調査実行委員会 東アジアの平和のための共動ワークショップ一同」※この三基の碑文で凡その歴史はわかるが、同寺院には平成24年10月建立の木碑「中国人朝鮮人強制労働殉難者供養塔」も建立されている。◇建立年:平成25年8月21日 ◇所在地:芦別市本町1151 陽林寺 ◇Gmap:Gマップ

為住友上歌砿韓国出身殉職者碑歌志内市

為住友上歌砿韓国出身殉職者碑 安楽寺の墓地奥に南無阿弥陀仏とあり下段に為住友上歌砿韓国出身殉職者碑と刻まれた墓碑がある。1980年に上歌志内鉱の元労務担当者が住友上歌志内坑で1939年から45年の間に亡くなった朝鮮人22名分の名を刻んだ追悼碑ですが、その経過を記した碑文はなく、そのような碑も見ていない。歌志内では遺骨の何人分かは朝鮮へと戻されたが、遺骨の多くはこの殉職者碑の下に合祀されたという。この碑では連行朝鮮人死亡者を追悼する形で死亡者名を記しているが、歌志内坑の史料にある「鉱山殉職者二関スル件」でみると安楽寺の碑には2名の名が欠落しているという。少なくとも上歌志内では22人を超える死亡者があった事になります。※住友上歌志内の松島組は新栄町・西町の長屋を改造して朝鮮人を収容、北炭神威へ連行された人々は鳩が丘の3棟の寮に収容された。住友歌志内では北区に親友寮、南区栄町に家族持ちを収容。住友歌志内の寮長は1949年に上歌志内の労務とともに連行者を迎えにいったが、数人が逃亡、函館で警察が逃亡した5人を引き渡した。連行された人々はわらじのようなものの底に鉄板をつけたものをはき、帰りは滑って坂道が登れなかった。それを監督が後ろから棒でたたいていた。同じ人間なのに何もそこまでしなくてもと思ったと、当時の様子が記されている(『古老が語る歌志内』)より。◇建立者:昭和55年10月吉日 ◇建立年:宮城県 岡俊夫 ◇所在地:歌志内市字本町124 安楽寺 ◇Gmap:Gマップ

神霊之墓夕張市

神霊之墓 当時の夕張には北海道炭礦汽船の夕張炭鉱と平和炭鉱があり、平和炭鉱は平和坑のほかに登川坑、真谷地坑、角田坑の支坑をもっていた。また三菱の大夕張炭鉱もあった。戦時下に夕張地域へ連行された朝鮮人の数は北炭夕張に約1万4千人、北炭平和に約5千人、三菱大夕張に約4千人とみられ、夕張地域には2万人を超える朝鮮人が連行されていたと考えられている。末広墓地に夕張砿寄宿舎朝鮮人有志一同が1930年9月に建立した神霊之墓があり、発起人に朝鮮人と思われる金一鳳、金鎬聲、金正伊、崔鉉佶、黄萬源、金憲郷、崔昌漢、朴京龍の8名、日本人寮長と思われる5名の氏名が刻まれているが、犠牲者の名前はない。夕張では大正1(1912)年末の石狩炭鉱で朝鮮人の労災死の記事があり、大正5(1916)年には北炭夕張炭鉱に35人の在籍が確認でき、はやくから夕張で朝鮮人が働き、多いときには夕張鉱だけで700人がいたともいう。夕張地域で連行期前の朝鮮人追悼碑は末広墓地の神霊之墓だけで、連行朝鮮人の死者をも追悼する碑の役割を果たしている。◇建立年:昭和5年9月 ◇建立者:夕張砿寄宿舎朝鮮人有志一同 ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地 ◇Gmap:Gマップ

鮮人共同墓之碑岩見沢市

鮮人共同墓之碑 万字炭砿への朝鮮人入山は大正5年からと北海道内でも早く、万字坑での朝鮮人の歴史を示す「鮮人共同墓之碑」が連行期前の大正15(1926)年に栗沢町の万字墓地に万字第一寄宿舎により建立されている。万字坑の殉職者名簿から碑ができた前年の正15(1925)年迄に35人の朝鮮人名が確認でき、1930年迄には更に27人の死者があったというが、「アイヌモシリ・北海道の民衆史」によると萬念寺の万字炭坑過去帳から朝鮮人の入山後からから昭和5年までの間に亡くなられたのは84名が確認され、碑の建立された大正15年までの死亡者は43人という。この碑は万字炭砿に朝鮮人が入山してから大正15年までの間に亡くなられた43名を慰霊した墓碑になるようです。◇建立年:大正15年9月1日 ◇建立者:萬字第壹寄宿舎 ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地◇Gmap:Gマップ

殉職死歿者之慰霊碑岩見沢市

殉職死歿者之慰霊碑 戦時朝鮮人強制労働調査資料集(改訂版)には昭和15年から昭和20年迄の間に万字での死亡者亡77名の氏名が公開されているが、万字坑は12名、支鉱の美流渡坑は53名、所属不明が12名です。北海道開拓記念館に北炭の万字炭鉱(支坑の美流渡坑分を含む)の史料が所蔵され朝鮮人の鑛夫名票で強制連行期分では約1.500人分、1.920年代の2.000人分ほどが残されいるという。万字炭鉱では1.500人を超える朝鮮人が連行され、万字・美流渡両坑での朝鮮人死者数は61人という事が名簿から判明しているともいう。また美流渡坑では昭和19年8月21日午前零時頃に坑内火災事故があり36人が死亡、そのうち朝鮮人26人の名前が名簿にあるという。昭和21年に建立された殉職死歿者之慰霊碑は鮮人共同墓之碑にある43名とそれ以降に亡くなられた朝鮮人労働者を慰霊する碑であり、強制連行期に亡くなられた方もその対象になるが、萬念寺の万字炭坑過去帳には昭和5年~昭和14迄の10年間の記載が無いという。生きて祖国の土を踏むことができなかった人達がどれほどの実数になるのかは未だ霧の中です。 ◇建立年:昭和21年8月 ◇建立者:萬字鉱北斗寮 ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地

韓國人殉難者之慰霊碑札幌市西区

韓國人殉難者之慰霊碑 碑面に「韓國人殉難者之慰靈碑」と大きく刻まれ左に小さく「大韓民国居留民団北海道本部 団長 南 元 撰書」と添えられ、ている。碑背面にハングル語を混えた「慰霊碑建立趣旨文」が刻まれているが浅学の管理人にはただ眺めるのみ。聞くところによると第二次世界大戦末期に強制連行され道内の土木工事や炭鉱(主として手稲鉱山受難者)での強制労働で亡くなった韓国人、軍需工事、土木事業、炭砿や鉱山での労働、不慮の事故や病気などで斃れ、北海道内の山野に葬られ戦中が戦後の現在に至るまで供養もされず放置されている無縁の霊を慰霊する為に1960年に建立されたという。建立地が二転三転して決まらずに仏教団体の会長を務めていた韓国人聯盟団長の南氏が、豊平の経王寺住職に相談した結果、最終的に同寺の別院である大平和寺の修行道場が近くにあるこの地に建立が決まったという。平和の滝の駐車場の一角で一際目立つ石碑です。◇建立年:昭和35年 ◇建立者:在日本大韓民国居留民団北海道地方本部 ◇所在地:札幌市西区平和 平和の滝公園 ◇Gmap:Gマップ

韓日友好の広場の碑札幌市西区

韓日友好の広場の碑 碑文「此の地は、第2次世界大戦中、犠牲になった韓国人の霊を慰めんと1960年6月25日、在日本大韓民国居留民団北海道地方本部が、慰霊碑を建立し土地650坪を経王寺に寄託し、供養を依頼したのであります。今般、在韓国日本婦人里帰りを契機に韓日友好の広場と命名し、ここに桜の木を記念植樹する。この記念碑は経王寺の同意に依り建立する。尚、本事業推進に当り札幌直轄部有志一同の協力の下に完工したことを記す。1986年5月25日 在日本大韓民国居留民団北海道地方本部 団長 金重輝」碑は「韓國人殉難者之慰霊碑」の左側にあります。◇建立年:昭和35年 ◇建立者:在日本大韓民国居留民団北海道地方本部 ◇所在地:札幌市西区平和 平和の滝公園 ◇Gmap:Gマップ

朝鮮人物故者一同之墓京極町

朝鮮人物故者一同之墓 京極村史に日本が敗戦になった1945年8月15日現在で日鉄鉱業倶知安鉱山の13の寮に1,004人の朝鮮人がいたとあり、鉱山労働者が日本人より連行者の方が多かった時で死亡者の半分以上が日本人というのも不自然で、身元が判明していない犠牲者が朝鮮人である可能性は高そうだ。また危険と隣り合わせの現場で日本人や朝鮮人の事故死はあるのに、中国人が全て病死になっているのも不可解。北海道開拓殉難者報告書によると日鉄鉱業での死亡者は91名、氏名の判明しているのは85名とあった。戦時朝鮮人強制労働調査書では死亡者2名の氏名があり、一名の犠牲者は川口組の所属となっている。日鉄鉱業になったのは昭和19年からなので実質2年に満たない期間の死亡者であり過酷な労働であったことが窺われる。京極村史には町内の寺院に預けられた遺骨を集め共同の慰霊碑を建て丁寧に葬ったとも記されいるが、町営川西墓地の朝鮮人物故者一同ノ墓には何も刻まれず、死亡者数もはっきりしないが2名よりははるかに多かっただろう。 ◇建立年:昭和35年8月15日  ◇建立者:朝鮮物故者墓石建立期成会  ◇所在地:北海道京極町川西 川西墓地  ◇Gmap:Gマップ

茅沼の無縁塔

無縁塔 この地域では安政3(1856)年に石炭が発見され北海道では白糠に次いで二番目に開坑した茅沼炭坑がありました。官営の炭坑として明治2(1869)年に炭鉱と茅沼港(積み出し港)を結ぶ茅沼炭鉱木製軌道が開通、明治17(1884)年になって民間に払い下げられた。その後を泊村の2代目武井忠兵衛が中心となって発足した「茅沼炭山採炭組合」が引き継いだが、鰊漁の不振に見舞われた大正期の泊村経済を茅沼炭鉱が支えたと思われる。大正5年に茅沼炭鉱鉱業所になっているが、神恵内のニシン場親方だった澤口庄助氏を社長とする沢口汽船鉱業株式会社が引き継いだが、昭和5(1930)年に道外資本の茅沼炭礦株式会社に事業を継承。茅沼炭礦株式会社になってからの変遷は割愛し、この炭坑で働いた人達のことに概観してみる。茅沼炭礦株式会社は昭和12(1937)年より監獄部屋(タコ部屋)を導入し、タコ部屋が禁止された後の昭和25年頃まで存在していたという。また一説によると茅沼炭砿のズリ山には200人が埋められていると伝えられているとも、北海道開拓殉難者調査報告書によると官営の時代から茅沼炭鉱までの期間で殉難死は268名で氏名の判明しているのは234名となっている。法輪寺裏山の茅沼墓地に行路行き倒れで亡くなった人達や強制労働に斃れた坑夫達、再び祖国の土を踏む事のなかった人達を慰霊する無縁塔がある。◇所在地:北海道古宇郡泊村 ◇Gmap:S87号袋澗Map ◇Gmap:茅沼墓地Map

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