カウンター

北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
監禁強制労働に斃れた土工夫(主に朝鮮人)の慰霊・顕彰碑等を巡る3‼

6・朝鮮人の強制連行と朝鮮人労働者の慰霊碑‼

日中戦争に始まり敗戦まで続く侵略戦争と監獄部屋は朝鮮人・中国人強制連行は密接に関係している。明治43(1910)年に大韓帝国を併合し朝鮮半島を領有し植民地政策がはじまるがそこで行われたのを簡単に言うと
①土地の取り上げ 取り上げた土地は約6千人という日本人の地主所有になり小作人から高い小作料を収奪。
②コメの取り上げ 日本で生産されるコメだけでは日本人の胃袋をみたす事はできなかったので朝鮮からの移入に頼っていた。多いときは朝鮮で生産されるコメの6割が日本に移入されたがコメは本来朝鮮で消費される分を横取りしたもの。
③文化と教育の取り上げ これはアイヌ民族への同化政策を手本に民族教育を禁止、朝鮮語の使用を禁止し日本語を強制、日本人と同じと云いながら、差別をするという両面政策。

このような状況で朝鮮人民の生活は圧迫され貧困にあえぎ日本に仕事を求めて来日する人も増えていきますが、行くか行かないかは本人の自由でした。在日朝鮮人労働者は強制連行が始まる前年には約80万人に達していたともいわれています。差別されるのがわかっていても働きに行かざるを得ない状況を作ったのは日本です。

昭和12年に日中全面戦争(支那事変)が始まると出征者が増えて国内の労働者不足が顕在化し、戦時労働力を確保するため募集事業は政府の独占事業になります。昭和13年に国家総動員法が制定され昭和14年になって国民徴用令が公布され、この中で朝鮮人も日本国の戦争に動員することが計画され、大戦末期には個人の意志を無視して連行が行われるようになりました。

徴用とは国語辞典をみると「国家が国民を強制的に呼び出し、一定の仕事に従事させること」事とあり、本人の意思に関係なく呼び出し強制するもの。徴用工とは第二次世界大戦末期に朝鮮(主に大観民国)日本に労務動員された労働者の事。法的な形式と実態が乖離(かいり)していることが問題を複雑にしている。

・朝鮮人の連行期

①第1期・昭和14年9月~昭和17年5月迄「募集形式=朝鮮総督府」(主に任意の渡航)

②第2期・昭和17年6月~昭和19年8月迄「官斡旋=朝鮮労務協会」(実態は強制が殆ど)

③第3期・昭和19年9月~敗戦迄「徴用令適用=強制」の3段階に分けることができます

暴力的な強制連行は第1期の終わり頃から始まったようです。北海道では「北海道土工殖民協会」は「北海道労働福利協会」となって「産業報国」機関に組み込まれます。強制連行は国内だけではなく「女子挺身隊」という名目で十数万とも云われる朝鮮人女性を中国、東南アジア、太平洋地域に慰安婦として連行、また旧満州や樺太、千島にも多くの朝鮮人が強制連行されている。強制連行の定義は難しいが、徴用も含め国家総動員法の下で連行に特高が同行し逃亡者は逮捕されるようなのは強制連行であったといえる。

朝鮮人はみな協和会手帳(朝鮮人の身分証明書)を渡され、この手帳は部屋が預かって信用人夫でも自由に外出させなかったが、戦争末期になると有無を言わせず軍属扱いとして千島に強制連行する事もあった。また協和会手帳を所持していない場合はタコ部屋に送られたともいう。もう一つのルートは日本人の労働者が徴兵され国内での労務者募集が困難になった周旋屋が、根拠地を朝鮮に移して労務者を集め監獄部屋に送るのも強制連行と云える。ILO条約勧告適用専門家委員会は1999年に 慰安婦・強制労働問題で「慰安婦」問題、強制労働問題はILO 29号(強制労働)条約違反であり、個人補償をすべきであると勧告。以降2年経ても一向に解決に踏み出さない日本政府に対し、2001年に再度、被害者が納得する解決を早急に行うよう勧告している。「慰安婦」問題では4回、強制連行問題では2回の勧告うけているが、日本政府に前向きな動きはない。

ふれあいの碑名寄市風連

# 名寄市風連町の共同墓地内の6地蔵横にふれあいの碑があり、ここに31体の朝鮮半島出身者の遺骨が納められていた。戦後に役場より依頼され寺院で安置してきたと云い、そのいきさつは不明だが平成14年にここに移され永久の眠りについた。調査で名前の判明した遺骨は1体だけのようで子供も含まれていたが、埋火葬認許証には本籍地が書かれていなかったようで、雨竜ダムや名雨線工事の関係者(犠牲者?)と思われるが詳細は不明という。雨竜ダム発電所の早期稼働のため風連側への導水路開削とダム建設、鉄道敷設建設工事は同時進行で進められ、工事は過酷を極め多くの犠牲者を出した。天塩弥生駅のある名寄市弥生地区にも2棟の「監獄部屋」が置かれ、粗食と劣悪な居住環境下で過酷な強制労働が行われていたと云う。拘禁強制労働下での労働者は、事故や病気で亡くなると無縁仏として地域の墓地の一角に埋葬されたと云い、名寄では犠牲者数人が弥生地区の共同墓地や地区内の別の場所にも埋められているとも云う。北海道開拓殉難者調査報告書によると風連側のダム工事では殉難受者が60名、名寄~朱鞠内間の鉄道工事での殉難受者は45名、そのなかでは名寄側でなくなっている人も多いでしょう。名寄市風連町の共同墓地に納められていた31体の遺骨を合わせるとその数は増えることになるが・・ ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:名寄市風連町緑町  ◇Gmap:Gマップ

太平洋戦争強制労犠牲者慰霊碑釧路市

# 釧路市の紫雲台墓地に戦争中に港湾工事や炭鉱労働に従事させられるなどして亡くなった朝鮮半島出身者を慰霊する碑があり、その横に大きな石板(説明板)がある。これは釧路市民会議が昭和48年8月9日に設置した説明板を一部修正・削除をし石碑に建て替えたもの。碑文より「二度とくり返さない ここに眠る約100名の(韓国 北朝鮮)人々の人柱は祖国に帰る自由と行動の自由を奪われ築港炭砿など強制労働の中で犠牲になった人々である。明治43(1910)年日本政府の「日韓併合」以来昭和14(1939)年「労務動員計画」によって日本に20万人余りの(韓国 北朝鮮)人々が強制連行された。北海道にも昭和15(1940)年には43,000を越え終戦時には70,000人もの数になったという。私たちは戦争の犠牲になって死んでいった人々に対し、国境を越え民族の連帯と協力を深めていくことを、ここに誓う。二度と戦争の悲劇をくり返さないために市民一人一人の願いを込めその証のためここに慰霊碑を建てる。市民のご協力をお願いいたします。1973年8月9日 釧路市民会議 会長 津田力三」とあり、裏面の碑文は「岡山青山倶楽部北海道旅行の際、たまたま立ち寄りしました釧路で、釧路市民会議建立の慰霊碑に参拝し、素晴らしい碑文に接し、一同深く感銘し、北東亜細亜の平和と関係諸国民族の友好繁栄の為、碑文を永久保存するよう石造りに替えることを申し合わせた次第です。私たちは釧路市民の皆さんに感謝申し上げ、釧路市の発展を申し上げます。(名9人・12人省略) 岡山青山倶楽部 会長 季成鎬 他会員一同 2006年7月4日建立」岡山青山倶楽部の一行が参拝し釧路市民会議の設置した誓文を読んで深く感銘し碑を、それに感動した、岡山青山倶楽部のメンバー約20人がポケットマネーを持ち寄って捻出し御影石で高さ約2m、横幅約3m、厚さ15cmの石碑を造り釧路市紫雲台墓地に寄贈された。朝鮮人が炭鉱や道路、港湾などで働かされていたが全容は不明というも、食糧難のなか働けなくなった韓国人労働者100人が「伝染病にかかった」として紫雲台墓地に生き埋めにされたと伝わっており、千島から怪我や病気で送り返された無くなった朝鮮人や石切山での飯場で発生した伝染病でなくなった朝鮮人が多数いたといわれ、戦争終結まで200人近い犠牲者が出たともいう。紫雲台墓地に100体余りが埋葬されたことだけが分かっている。これらの人たちを供養するために追悼式が毎年行われているようです。◇建立年:昭和48年8月9日(慰霊碑) ◇建立者:釧路市民会議 ◇再建年:平成18年7月4日(副碑・説明碑) ◇建立者:岡山青山倶楽部 ◇所在地:釧路市紫雲台2紫雲台墓地 ◇Gmap:Gマップ

産業戦士英霊顕彰碑釧路市

# 碑の正面は「産業戦士英霊顕彰碑」裏面は「昭和拾壹年以降為北方緊急工事殉職者建立者也 昭和拾七年十一月 菅原正一」と刻んである。更に顕彰碑の右手前に慰霊碑が在り裏面に昭和18年から昭和20年にかけて亡くなった菅原組職員戦没者12名の名前が刻まれている。顕彰碑左手前に碑誌があり「此の碑は故菅原正一社長の手により昭和11年以降軍命を受け北方基地建設に当たりたる菅原組建設要員として挺身中不幸にして斃れたる方々の顕彰の碑であり其の后戦況が激化拡大し終戦までの間職員12名他千数百名の戦没者を数えるに至れり 此の度線につながる有志相集い永遠の冥福を祈念し新たに一碑を建立せしものなり。昭和51年9月以下省略」※ここでいう名もなき他千数百名の戦没者は誰を意味するのかだ。タコ労働の元締めと云われた菅原組は軍工事の請負いで急成長したと云い、中千島の松輪島と北千島の幌筵島でも軍工事を請負った。千島では要塞化工事が強行され、強制労働は過酷を極め多くの労働者が犠牲となったと云い、運良く生き延びても船舶で移動中に魚雷攻撃に逢い多くの人達が亡くなった。また千島で斃れた朝鮮人の遺体が紫雲台墓地に運ばれ200体くらい埋められたとも云い、その跡に顕彰碑が建てられたともいう。◇建立年:昭和17年11月 ◇建立者:菅原組 菅原正一 ◇所在地:釧路市紫雲台2 紫雲台墓地 ◇Gmap:Gマップ

芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔芦別市

# 碑文「秀岳寺は西芦別(三井芦別炭鉱)にて、創立一世小島良善師が昭和16年三井鉱業所協力のもとに創立した寺院である。曹洞宗寺院として只一ケ寺、他宗の活動も未だない地域で布教教化を広めこの間、壇信徒は勿論、炭鉱内外職員、従業員並びに韓国、朝鮮、中国等の強制労働者およびタコ部屋労働者、受難者、炭鉱に係わる有縁無縁の霊を供養し又、遺骨を預かり懇ろに慰霊していたものである。第二世小島良秀に至り 昭和52年 第二次大戦(太平洋戦争)終戦より33回忌を迎えて、預かっていた多数の遺骨を東頼城町にて合祀埋葬したが、その後昭和62年寺の移転と共に、この地に石塔と全部の遺骨を移動したものである。戦争と人権蹂躙の災禍を2度と繰り返さぬよう祈念し供養するものである。願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に佛道を成ぜんことを 合掌」※移転後に新たに再建された慰霊塔です。◇建立年:昭和52年7月吉日 ◇移転年:昭和62年 ◇再建年:昭和63年3月吉日 ◇建立者:秀岳寺 ◇所在地:芦別市本町1151 陽林寺>

芦別炭鉱内外殉難者慰霊碑「和」芦別市

# 秀岳寺は昭和16年に東頼城で三井鉱業所の協力を得て創立された寺院で、昭和62年に現在地に移転、平成27年4月に名称が陽林寺と変更されている。陽林寺(旧・秀岳寺)境内に芦別炭鉱内外殉職者物故者慰霊塔と平成25年に建立された芦別炭鉱内外殉難者慰霊碑「和」がある。三井芦別炭鉱で犠牲となられた朝鮮人の墓碑、慰霊碑という。碑正面の碑文より上段に大きく「和」と記され下段に「生きとし生けるものの上に幸いあれ、平和あれ また、一切世間の上にかぎりなき悲しみをそそげ、上にも、下にも、また四方にもうらみなく、敵意なく、ただ慈心をそそげ」と刻み裏面に「平成25年7月吉日建之 秀岳寺二世小島良秀代」とある。同所に芦別川河畔での遺骨発掘調査が行われ、その歴史と経過を刻んだ碑が建立されている。◇建立年:平成25年7月 ◇建立者:秀岳寺 ◇所在地:芦別市本町1151 陽林寺 

遺骨発掘調査報告の説明碑芦別市

# 碑文「アジア太平洋戦争中、日本は朝鮮半島から70万人もの朝鮮人を日本国内に強制的に連行し、炭鉱や土木工事などに従事させた。三井芦別炭鉱に連行された朝鮮人は2千人に上る。彼らは重労働を強いられ、芦別川河畔に建てられた八棟の協和寮で窮乏生活をおくった。多くの犠牲者があったが、丁寧に葬られることもなく、河川敷に密かに埋葬された犠牲者もあった。慚愧の念に絶えない。2012年8月24日、芦別川河畔に、日本、韓国などから160人の老若男女が集い、犠牲者を求めて発掘調査をおこなった。4日間の発掘で、遺骨は発掘できず、埋葬跡とみられる穴のみを発見した。度重なる氾濫で、おそらく遺体はながされたのだろう。遺骨には巡りあえなかったが、参加者は犠牲者に思いを寄せると共に、国境や民族を越えて友情を深め合うことができた。再び過ちを繰り返さないことを誓い、ここに犠牲者追悼の碑を建立する。2013年8月21日 芦別川河畔強制連行犠牲者遺骨発掘調査実行委員会 東アジアの平和のための共動ワークショップ一同」※この三基の碑文で凡その歴史はわかるが、同寺院には平成24年10月建立の木碑「中国人朝鮮人強制労働殉難者供養塔」も建立されている。◇建立年:平成25年8月21日 ◇所在地:芦別市本町1151 陽林寺 ◇Gmap:Gマップ

為住友上歌砿韓国出身殉職者碑歌志内市

# 安楽寺の墓地奥に南無阿弥陀仏とあり下段に為住友上歌砿韓国出身殉職者碑と刻まれた墓碑がある。1980年に上歌志内鉱の元労務担当者が住友上歌志内坑で1939年から45年の間に亡くなった朝鮮人22名分の名を刻んだ追悼碑ですが、その経過を記した碑文はなく、そのような碑も見ていない。歌志内では遺骨の何人分かは朝鮮へと戻されたが、遺骨の多くはこの殉職者碑の下に合祀されたという。この碑では連行朝鮮人死亡者を追悼する形で死亡者名を記しているが、歌志内坑の史料にある「鉱山殉職者二関スル件」でみると安楽寺の碑には2名の名が欠落しているという。少なくとも上歌志内では22人を超える死亡者があった事になります。※住友上歌志内の松島組は新栄町・西町の長屋を改造して朝鮮人を収容、北炭神威へ連行された人々は鳩が丘の3棟の寮に収容された。住友歌志内では北区に親友寮、南区栄町に家族持ちを収容。住友歌志内の寮長は1949年に上歌志内の労務とともに連行者を迎えにいったが、数人が逃亡、函館で警察が逃亡した5人を引き渡した。連行された人々はわらじのようなものの底に鉄板をつけたものをはき、帰りは滑って坂道が登れなかった。それを監督が後ろから棒でたたいていた。同じ人間なのに何もそこまでしなくてもと思ったと、当時の様子が記されている(『古老が語る歌志内』)より。◇建立者:昭和55年10月吉日 ◇建立年:宮城県 岡俊夫 ◇所在地:歌志内市字本町124 安楽寺 ◇Gmap:Gマップ

神霊之墓夕張市

# 夕張地域には北海道炭礦汽船の夕張炭鉱と平和炭鉱があり、平和炭鉱は平和坑のほかに登川坑、真谷地坑、角田坑の支坑をもっていた。また三菱の大夕張炭鉱もあった。戦時下に夕張地域へ連行された朝鮮人の数は北炭夕張に約1万4千人、北炭平和に約5千人、三菱大夕張に約4千人とみられ、夕張地域には2万人を超える朝鮮人が連行されてきたと考えられている。末広墓地に夕張砿寄宿舎朝鮮人有志一同によって1930年9月建立の神霊之墓があり、発起人に朝鮮人と思われる金一鳳、金鎬聲、金正伊、崔鉉佶、黄萬源、金憲郷、崔昌漢、朴京龍の8名、日本人寮長と思われる5名の氏名が刻まれているが、犠牲者の名前はない。夕張では大正1(1912)年末の石狩炭鉱で朝鮮人の労災死の記事があり、大正5(1916)年には北炭夕張炭鉱に35人の在籍が確認でき、はやくから夕張で朝鮮人が働き、多いときには夕張鉱だけで700人がいたともいう。夕張地域で連行期前の朝鮮人追悼碑は末広墓地の神霊之墓だけで、連行朝鮮人の死者をも追悼する碑の役割を果たしている。◇建立年:昭和5年9月 ◇建立者:夕張砿寄宿舎朝鮮人有志一同 ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地 ◇Gmap:Gマップ

鮮人共同墓之碑岩見沢市

# 万字坑での朝鮮人の歴史を示す「鮮人共同墓之碑」が栗沢町の万字墓地にある。北海道開拓記念館に北炭の万字炭鉱の史料が所蔵され朝鮮人の鑛夫名票で強制連行期分では約1,500人分、1,920年代の2,000人分ほどが残されいるという。美流渡坑は万字炭鉱の支坑で、万字炭鉱の鑛夫名票には美流渡坑分も含まれる。万字炭鉱では1,500人を超える朝鮮人が連行され、万字・美流渡両坑での朝鮮人死者数は61人という事が名簿からわかっているという。美流渡坑では1944年8月21日午前零時頃に坑内火災事故があり36人が死亡、そのうち朝鮮人26人の名前が名簿にあるという。万字での朝鮮人使用は大正5年からと早く万字墓地にある「鮮人共同墓之碑」は連行期前の万字第一寄宿舎により大正15(1926)年に建立されたが、万字坑の殉職者名簿から碑ができた前年の1925年迄に35人の朝鮮人名が確認でき、1930年迄には更に27人の死者があったという。「アイヌモシリ北海道の民衆史」によると萬念寺の万字炭坑過去帳から朝鮮人の入山後から大正15年までの死亡者・計42人を確認している。墓碑ですがそのに亡くなった方は慰霊した碑でした。◇建立年:大正15年9月1日 ◇建立者:萬字第壹寄宿舎 ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地◇Gmap:Gマップ

殉職死歿者之慰霊碑と無縁塔岩見沢市

# 昭和21年に建立された慰霊碑は鮮人共同墓之碑にある42名とそれ以降に亡くなられた朝鮮人労働者を慰霊する碑であり強制連行期に亡くなられた方もその対象になる。鮮人共同墓之碑建立以降の殉職者を「アイヌモシリ北海道の民衆史」では計41名(または42名)としているが、萬念寺の万字炭坑過去帳には昭和5年~昭和14迄の10年間の記載が無いという。大きな災害がなかっただけで死亡者が無かったとは思えないが、少なくとも入山以来80名を越える殉職者あった事はわかる。「戦時朝鮮人強制労働調査資料集」では12名の氏名が公表されているので、この中には12名以上の犠牲者も含まれている事になります。炭砿で亡くなって祖国の土を再び踏む事のなかった朝鮮人、その実数がどれ程になるのか・・・。◇建立年:昭和21年8月 ◇建立者:萬字鉱北斗寮 ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地 ◇Gmap:Gマップ

無縁塔岩見沢市

# 鐵道敷設工事などで犠牲となられた方は多いが、万字線敷設工事も例外ではなかった。とくに万字付近は難工事の連続で過酷な労働で斃れた人は多かったと云い、工事関係者が慰霊碑を建立するほどでした。この無縁塔は最初の建立年からみて万字炭山協の手で万字炭山駅付近に建立され、後に万字墓地に移設されたと思われるが確証はない。碑の風化が進み万字仏教会が呼びかけ平成5年に再建、その時に墓地内で草に埋もれていた殉職死歿者之慰霊碑と鮮人共同墓之碑を一箇所にまとめ毎年法要を行っているという。鉄道工事で斃れた多くの土工夫、炭砿で亡くなって祖国の土を再び踏む事のなかった朝鮮人、その数がどれ程になるのかは今となっては知る方法もない。◇建立年:昭和21年8月 ◇建立者:萬字鉱北斗寮 ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地 ◇Gmap:Gマップ

韓國人殉難者之慰霊碑札幌市西区

# 碑面に「韓國人殉難者之慰靈碑」と大きく刻まれ左に小さく「大韓民国居留民団北海道本部 団長 南 元 撰書」と添えられ、ている。碑背面にハングル語を混えた「慰霊碑建立趣旨文」が刻まれているが浅学の管理人にはただ眺めるのみ。聞くところによると第二次世界大戦末期に強制連行され道内の土木工事や炭鉱(主として手稲鉱山受難者)での強制労働で亡くなった韓国人、軍需工事、土木事業、炭砿や鉱山での労働、不慮の事故や病気などで斃れ、北海道内の山野に葬られ戦中が戦後の現在に至るまで供養もされず放置されている無縁の霊を慰霊する為に1960年に建立されたという。建立地が二転三転して決まらずに仏教団体の会長を務めていた韓国人聯盟団長の南氏が、豊平の経王寺住職に相談した結果、最終的に同寺の別院である大平和寺の修行道場が近くにあるこの地に建立が決まったという。平和の滝の駐車場の一角で一際目立つ石碑です。◇建立年:昭和35年 ◇建立者:在日本大韓民国居留民団北海道地方本部 ◇所在地:札幌市西区平和 平和の滝公園 ◇Gmap:Gマップ

韓日友好の広場の碑札幌市西区

# 碑文「此の地は、第2次世界大戦中、犠牲になった韓国人の霊を慰めんと1960年6月25日、在日本大韓民国居留民団北海道地方本部が、慰霊碑を建立し土地650坪を経王寺に寄託し、供養を依頼したのであります。今般、在韓国日本婦人里帰りを契機に韓日友好の広場と命名し、ここに桜の木を記念植樹する。この記念碑は経王寺の同意に依り建立する。尚、本事業推進に当り札幌直轄部有志一同の協力の下に完工したことを記す。1986年5月25日 在日本大韓民国居留民団北海道地方本部 団長 金重輝」碑は「韓國人殉難者之慰霊碑」の左側にあります。◇建立年:昭和35年 ◇建立者:在日本大韓民国居留民団北海道地方本部 ◇所在地:札幌市西区平和 平和の滝公園 ◇Gmap:Gマップ

茅沼の無縁塔

無縁塔 この地域では安政3(1856)年に石炭が発見され北海道では白糠に次いで二番目に開坑した茅沼炭坑がありました。官営の炭坑として明治2(1869)年に炭鉱と茅沼港(積み出し港)を結ぶ茅沼炭鉱木製軌道が開通、明治17(1884)年になって民間に払い下げられた。その後を泊村の2代目武井忠兵衛が中心となって発足した「茅沼炭山採炭組合」が引き継いだが、鰊漁の不振に見舞われた大正期の泊村経済を茅沼炭鉱が支えたと思われる。大正5年に茅沼炭鉱鉱業所になっているが、神恵内のニシン場親方だった澤口庄助氏を社長とする沢口汽船鉱業株式会社が引き継いだが、昭和5(1930)年に道外資本の茅沼炭礦株式会社に事業を継承。茅沼炭礦株式会社になってからの変遷は割愛し、この炭坑で働いた人達のことについてみる。茅沼炭礦株式会社は昭和12(1937)年より監獄部屋(タコ部屋)を導入し、タコ部屋が禁止された後の昭和25年頃まで存在していたという。また一説によると茅沼炭砿のズリ山には200人が埋められていると伝えられているとも、北海道開拓殉難者調査報告書によると官営の時代から茅沼炭鉱までの期間で殉難死は268名で氏名の判明しているのは234名となっている。法輪寺裏山の茅沼墓地に行路行き倒れで亡くなった人達や強制労働に斃れた坑夫達、再び祖国の土を踏む事のなかった人達を慰霊する無縁塔がある。◇所在地:北海道古宇郡泊村 ◇Gmap:S87号袋澗Map ◇Gmap:茅沼墓地Map

ミニギャラリー

☆更新情報など☆

 新規のコンテンツ開設です。

横走り pagetop  戻る  先へ

モバイル掲示板

掲示板談話室

相互リンク

rss10 rss20

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1