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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
民族・人権や平和に関連する記念碑や慰霊碑・開拓の史跡を巡る‼

時速四キロの人生の碑別海町

時速四キロの人生の碑 最初に碑文を紹介。表麺碑文「時速四キロの人生 矢臼別演習場の主 川瀬氾二」後面の碑文「別海の町のしるしの楢の木は演習場にも巨木として立つ そのまわりは演習鳩なりぬ今もがっちり大地に根を張る楢の木 楢の木は冬来たりなばと雪空に拳突きあげ四股踏む姿 北風が樹間を抜けてたじろげば馬はひやかす楢の木笑う」側面には石版を埋め込んであり川瀬氾二氏の略歴が記されている。「1962年 (大15) 岐阜県川島村で、農民の子として生まれる。1951年 (昭26) 渡道。翌年この地に入植。「拝み小屋」生活、手抜根で原始林を切り開く。1956年 (昭31) 普美子と結婚。共に開拓を進める。1962年 (昭37) 入植10年目に陸上自衛隊矢臼別演習場設置。農地買収を拒否した2戸が残る。1977年 (昭52) ただ1戸となる。以降、過酷な生活に耐えながら、移転強要、あと地取得、住宅建設妨害、遊牧地取り上げ工作など、行政と自衛隊による攻撃に屈せず、平和勢力と連携し土地を守り抜いた。2008年 (平20) 10月 くも膜下出血で入院2009年 (平21) 4月20日 療養先の病院で死亡。享年83才 演習場のど真ん中にある土地は、「平和公園」構想のもと平和運動の砦となり、訪れる人の癒やしともなった。「平和に生きる権利」を貫いた川瀬氾二は「反戦地主」「憲法の申し子」と称され「時速四キロの人生」提唱する人柄は、多くの人を呼び寄せ、慕われた。この地に川瀬氾二が生きた証として、またこの土地が「平和の砦」であり続ける事を願い、ここにこの碑を建立する。2010年 (平22) 5月吉日」※建立者名は刻まれていないが矢臼別平和委員会か?。矢臼別演習場は別海町など3町にまたがる日本最大の演習場でその中に川瀬牧場がある。国家権力には一歩もひかず、農地の売り渡しを拒否してたたかいつづけた川瀬氾二さんの生き方は、大地に根を下ろした農民の姿でもあった。同所には川瀬氾二さんと共に生きた妻・普美子さんの碑と道東別海町で平和運動に生涯をかけた芝田重郎太氏の碑があります。昭和40年より「平和盆踊り」が開催され、平成19年に「平和会館」ができ、平成31年には「矢臼別平和資料館」が完成している。 ◇建立年:平成24年5月  ◇建立者:詳細不詳  ◇所在地:別海町矢臼別  ◇Gmap:Gマップ

丹波節郎 顕彰碑釧路市

丹波節郎 顕彰碑 もと釧路公民館長で特にアイヌ文化の普及に熱心に取り組まれた。表面碑文「丹波節郎 顕彰碑」碑文裏面は「丹波節郎翁は、明治40(1907)年函館で出生、大正6年(1917) 10歳で来釧されました。戦前戦中を通じ東京にて優良教員として数々の表彰を受けましたが、戦後平和文化国家日本の礎となることを志して郷里に戻りました。昭和25(1950)年釧路市民公民館長に迎えられ、昭和42年その職を辞するまでの17年間の事績は多岐にわたり枚挙にいとまありません。翁は館長就任の年、釧路ユネスコ協会を設立しました。それ以来生涯を通じて、国際平和への寄与と世界人権確立のただ一筋に追求して参りました。翁が情熱を注いだ事業の代表的なものとして、まりも祭りの創設、白糠駒踊りの復活、阿寒湖ユーカラ座設立などのアイヌ文化の保存と普及、石川啄木の顕彰、くしろ蝦夷太鼓保存会の発会などがあげられます。このたび、翁の人間性に共感しその事績について深い理解を有する人々が集い、ここ釧路市公民館跡地に翁の業績を称えて顕彰碑を建立するものであります。平成6年(1994)4月 丹波節郎翁を顕彰する会 代表 片山睦三」※丹波節郎氏らが設立したユネスコ村は荒れ放題で山本多助翁の碑が寂しく立っている。 ◇建立年:平成6年4月  ◇建立者:丹波節郎翁を顕彰する会  ◇所在地:釧路市幣舞町4  ◇Gmap:Gマップ

九人の乙女の碑稚内公園

九人の乙女の碑 北海道稚内市の稚内公園内にある九人の乙女の碑は、1945年8月20日の樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し真岡郵便局で連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうち、青酸カリなどを用い自決した9人の電話交換手の慰霊碑。碑は、高さ1.8m、幅2.4m、登別石で三つ折りの屏風風に造られ、右側に本郷新が制作した交換手姿の乙女の像銅版レリーフをはめ込み、中央に当時の北海道知事町村金五の筆で乙女達の別れの言葉、左側に9人の名前と碑文が刻まれている。戦後になって地元の樺太関係者と遺族の手によって氷雪の門と九人の乙女の碑が建立され、ともに1963年8月20日に除幕された。碑文には「慰霊碑の中央には「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と刻まれている。猿払村の猿払電話中継所跡にも九人の乙女の碑と同じ「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と書かれた碑があるが、樺太泊居郵便局の局長は『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』だったと碑文とは異なる証言を残している。碑文では生存者については触れられていないが、「九人の乙女」に関する資料は開基百年記念塔内の北方記念館に展示されています。日本テレビ開局55年スペシャルドラマ『霧の火ー樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』は史実を基にしたフィクションで創作された部分も多いようだ。樺太のシーンは稚内市の夕来付近、郵便局は豊富町の兜沼旧郵便局などでロケが行われた。DVDが発売されているのでまだ手に入るかもしれない。◇建立年:昭和38年8月20日 ◇設置者:慰霊碑建立期成会 ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ ◇Gmap:Gマップ

氷雪の門樺太島民慰霊碑

氷雪の門 昭和38年2月稚内樺太引揚者連盟会長米倉八郎太を会長とする慰霊碑建立期成会を結成し、全国樺太連盟会長柳川久雄、同副会長下出繁雄、同北海道支部連合会長渡辺彦太郎らの協賛を得て、全国の樺太引揚者に呼びかけ建設運動を展開し、隣接する乙女の碑とともに樺太島民慰霊碑として昭和38年に地元の樺太関係者の手で樺太の島影を水平線上に望む稚内公園に建立された。碑文「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。戦後はその門もかたく鎖された。それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなったおおくの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊治郎氏、笠井安一氏の熱意と、全国樺太引揚連盟の賛同並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る。氷と雪の中できびしく生き抜いた人々の象徴する女人像、望郷の門、霊石を3位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった。この記念碑を氷雪の門と命名した。」※碑の構造は、黒大理石の霊石を配した高さ8mの望郷の門を背に、きびしい風土に耐えて築いてきた郷土を、肉身を、財産を失い、絶望の中にひらすら祈りを捧げる女の姿をあらわす2.4mのブロンズ女人像が立つ。かつては日本領土だった樺太で亡くなった全ての日本人のための慰霊碑で、第二次世界大戦終戦後のソ連軍の侵攻による樺太内での戦争で亡くなった日本人だけを対象としているわけではない。当時を知る人は今では数少なくなってしまった。◇建立年:昭和38年8月20日 ◇設置者:慰霊碑建立期成会 ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ ◇Gmap:Gマップ

樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑札幌市中央区

殉職看護婦慰霊碑 碑は札幌にあるが樺太関係をまとめた。碑文「太平洋戦争末期の昭和二十年八月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。恵須取町大平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難した。炭鉱病院看護婦二十三人も夕刻になって避難を始めたが、途中の武道沢でソ連軍に退路を断たれ、最悪の事態を予測した高橋婦長らは、十七日未明に集団自決を図り六人が絶命した。あまりにも悲しい事件であった。以来、四十七年。殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、ゆかりの人たちや王子製紙・十條製紙・本州製紙神埼製紙の旧王子製紙系四社、その他関係団体の協力でこの碑を建立した。ここに六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念する。平成四年七月十一日 樺太大平炭鉱病院 殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会」裏面に「昭和二十年八月十七日 樺太恵須取町字武道沢に於自決 大平炭鉱病院看護婦殉職者 高橋フミ 三十二才 石川ひさ 二十四才 真田和代 二十才 久住キヨ 十九才 佐藤春江 十八才 瀬川百合子 十七才」と刻む。ソ連軍の侵攻で住民は避難したが、製紙工場用や市販用の石炭を採掘していた樺太大平炭鉱の経営する「樺太大平炭鉱病院」で、看護婦は医師不在の中で傷病兵達の救護にあたり、避難が遅れて敵に包囲され自らの命を絶つ選択しかなかった。戦争の悲惨さと狂気を語り継ぐ人が少なくなった今、この碑の存在は重みを増している。 ◇建立年:平成4年7月11日  ◇建立者:殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会  ◇所在地:札幌市中央区南15条西5丁目1-1 札幌護国神社境内  ◇Gmap:Gマップ

国府・歌内の渡船遭難慰霊碑中川町

国府・歌内の渡船遭難慰霊碑 1906(明治39)年に中川村の誕生し宇戸内(現歌内)には簡易教育所が設置、翌年認可され宇戸内簡易教育所が開校、歌内小中学校の前身だが統合により1973年(昭和48年)12月をもって閉校。この学校の歴史で特筆されるのは1940(昭和15)年にウトナイ渡船場(現歌内橋付近)にて渡船が転覆し、通学児童17名と保護者2名が溺死した事だろう。以下は「遭難之碑碑文」より「思えば歌内橋架設の濫觴は本村開拓の途上にありし大正初期らいての端を発するが、偊々昭和15年3月6日通学途次の児童並びに19名を初めとし、今日まで実に32名の尊き人名が一瞬にして水魔に没する惨状がその因となり、四季の装いにも觸れることなく散りし犠牲者の霊に想いをよせ、未来幾星霜地元民一致の協力は遂に関係官庁をして架設決定の英断となり清流なる天塩川に、現代の英知と意□による技術の勇姿をここに映じせしめたるは洵に感激に外ならない。鬱蒼たる太古のままの一大秘境をこの一望の沃土と化さしめ、更にこの遺業を遂さしめた先人並びに元村長 斉藤吉平(初の公選村長) 本橋架設促進期成会長 野崎秀三 及び本村村会議員関係部落民の偉勲をして、今を想い往時を偲び転々有情の感慨を禁じ得ず、ここに本碑を建立しその道徳を讃えるものである。 昭和35年7月11日 歌内国府部落民一同建之」※天塩川での大きな川船遭難事故は明治44年に天塩川最大の難所とされたスーポロ川船遭難で15人の死者を出しているが、ここでは毎年のように遭難事故が繰り返されていたという。大正七年頃には日向農場私設渡船場で中多寄小学校へ通う児童が渡船転覆で多数の死者を出したが、小さな事故は埋もれて天塩川の渡船や川船遭難でどれほどの人が亡くなっているのかはわからない。 ◇事故年:昭和15年3月6日 ◇建立年:昭和35年7月11日 ◇建立者:中川町国府・歌内住民一同 ◇所在地:中川郡中川町国府(慰霊碑)  ◇Gmap:Gマップ

スーポロ 川船安全祈願碑智東 名寄市

スーポロ 川船安全祈願碑 河川改修でかつて「智東の滝」ともいわれた面影は薄いが、松浦武四郎の「天塩日誌・丸山道子現代語訳」では「過ぎてシュボロ小さな滝を思わせる急流なので、船に綱をつけてひいて川を上がる」と有り丸木船に慣れているアイヌもイナウを捧げてから通る天塩川最大の難所でした。スーポロ 川船安全祈願碑説明板を参考にすると『東の九度山と西の智恵文丘陵の間を天塩川が峡谷をなして流れ、ここより下流側は川幅がより狭く屈曲し川底は岩で早瀬となっておりアイヌ語で「スーポロ(激湍の所)」とも「カムイコタン」とも呼ばれ、丸木船の操作に慣れたアイヌにも恐れられた所でした。和人の開拓後も鉄道が音威子府へ開通するまで度々川船の遭難があり「天塩川・智東の滝」とも呼ばれていました。特に明治43年には鉄道の建設資材を積んだ川舟が激流にのまれ30名以上の人が死亡する大遭難事故があり、明治43年7月に川舟の通行安全を祈願するため川船関係者により「金比羅大権現」の石碑が建立されたが、翌年の明治44年5月22日に鉄道建設資材を積んだ川船が転覆し15名の遭難者を出す大きな事故がおきている。この碑は人の近付けない左岸にあったので事故の記憶も薄れ碑も所在不明となっていたが昭和51年の河川改良の測量時に偶然発見され昭和61年に現在地に再建された。』と言うことのようです。旭川開発建設部名寄河川事務所、工事関係者、光明寺の協力で再建できたとある。 ◇建立年:明治43年7月 ◇建立者:川船関係者 ◇再建年:昭和61年7月10日 ◇設置者:名寄市教育委員会 ◇所在地:名寄市智東 天塩川左岸  ◇Gmap:Gマップ

辛巳遭難慰霊碑雄武町

辛巳遭難慰霊碑 北海道電力の配電が雄武、枝幸に及んでいなかった1938(昭和13)年に地元電力会社(幌内送電株式会社)が豊富な水量を誇る「幌内川」に大規模な「ダム式発電設備」を新設して北隆鉱山や雄武地域、北に隣接する「枝幸村」の需要をも視野に新規発送電事業を起ち上げ、幌内川河口から4~5km遡る山間の峡谷に長さ約160m・高さ約13mの重力式コンクリートダム、幌内ダムが1939(昭和14)年に起工された。ダム建設工事は昭和14年1月~昭和15年12月という異例の早さで完工。発送電許可の現地検査実施の手配がされるもトラブル続きであらためて昭和16年5月末に検査願いが北海道庁へ提出される。検査前の1941(昭和16)年6月6日の夜半より続いた豪雨で北見・網走地方で河川の氾濫が相次ぎ、幌内川も上流からダムに流れこんだ多量の原木や流木が放水路を塞ぎ放水機能が喪失、堤体が水の圧力に耐えきれなくなりダム堰堤の中央部から決壊。奔流は一説に「高さ5メートル以上」に達したとも言われ、流出した原木で破壊力を増した濁流は下流域一帯の集落を飲み込み住宅36戸が流失、倒壊2戸、220人が罹災し60名が犠牲となる(北海道開拓殉難者調査報告書では64人となっているがダム関係者をふくむものか?)未曾有の大惨事になった。決壊後に放置された幌内ダムは戦後になって、崩壊部分を埋めるようにダム堰堤の外側に新たな堰堤を造り完成した1954(昭和29)年に完成。発電所の名前は雄武発電所で最大出力は960KW、枝幸、雄武での利用戸数は1600戸という。のち枝幸は北電より電力供給がされ、雄武も1969年には北電より供給されるようになる。発電所は1972年に廃止されている。ダム崩壊の原因について道庁の調査によれば、基礎掘削をせずに河床砂礫のうえに水中コンクリートを打ちこみダム基礎としたようですが正確な検証資料に関しては不詳。完成に16年、60人の犠牲を出し、発電所として利用されたのは18年間でした。その後にタム堤体外側の堤が取り除かれ高さは低くなり巨大な砂防ダムとして余生を送っていたが、2008年より魚道設置と堤体本体の補修工事に着工し既に魚道は完成している。 ◇事故年:昭和16年6月7日 ◇建立年:昭和16年10月 ◇建立地:北海道紋別郡雄武町幌内 幌内史跡公園  ◇Gmap:Gマップ

コムケ地蔵尊紋別市

準備中 コムケ原生花園の碑に向かう途中、コムケ湖の北側沼尻近くに佇んでいる。台座正面の碑文「コムケ地蔵尊」横には大正14年から昭和29年までの間にコムケ湖でなくなった子供3名の氏名と没年(注・名前は省略)、施主 山田一太郎と刻まれています。この地蔵尊の背後は崖になって、下のコムケ湖は急に深くなり、藻が生えているため、子供達は足をとられ亡くなったという。そのため再び事故の起こらないようにと地蔵尊が建立されたと云う。かつて沼尻と海の間には距離が有り原生花園になり番屋もあったが、今は海蝕の進行で砂浜は後退し原生花園も海岸も狭くなって番屋もない。 ◇建立年:昭和37年8月 ◇建立者:山田一太郎 ◇所在地:紋別市小向  ◇Gmap:Gマップ

茶内慰霊塔浜中町

茶内慰霊塔 碑文より「昭和二十六年五月十九日教育映画觀覧中突如フイルムより發火 逃げ惑いたる可憐なる幼童など四十二名劫火の犠牲となりて此處に斃る 噫々惨めたり 恨みとこしえに盡きず 今は唯涙と共に冥福を祈るのみ」※上映中のフィルム引火から劇場全焼、映画鑑賞中の幼児11名、小学生26名、その他5名が折り重なるように焼死した大惨事事故で、慰霊のため各地より寄せられた寄進や募金を元に、遺族や地域住民の努力と奉仕によって翌年に慰霊塔と地蔵堂が建立された。地蔵堂横の由来説明板に「映写機の不完全 劇場の不設備 急速猛烈な火焰 恐怖混乱 避難誘導の失敗 その他種々の悪条件が出火や犠牲の多い原因でした」とあり。昭和18年に倶知の安劇場・布袋座で起こった火災の教訓が生かされていない。 ◇建立年:昭和27年5月19日 ◇建立者:茶内慰霊塔建立期成会 ◇所在地:浜中町茶内  ◇Gmap:Gマップ

殉難碑省営バス火災事故殉難者慰霊碑 様似町

殉難者慰霊碑 昭和20(1945)年当時の様似村(現・様似町)と幌泉村(現・えりも町)間は省営バス定期便が唯一の公共交通機関でした。事故は同年の3月21日で、折り返し運行する予定の幌泉発上り便の到着が遅れていたため、定員29名のバスを臨時便とし乗員乗客合わせて48名が乗り、さらに新聞・書籍など軽量な荷物の他映画フィルム18巻をバスに積み込み幌泉に向けて出発したが、午後0時50分頃、平宇の集落を過ぎた付近で運転席脇のバッテリーの上に置かれていた映画フィルム入りブリキ缶が爆発炎上、驚いた運転士はハンドル操作を誤り、対向車線と路肩を突き抜けて約1m下の浜辺に転落・横転、駆け付けた近隣住民による救出活動が行われるも、最終的には運転士を含む17名が死亡、13名が重軽傷を負うという惨禍となった。本来なら旅客自動車を運転するために必要な訓練・試験を受けないと運転できないバスも、戦時の人員不足対策で誰でも運転出来た事と無関係ではないので、単純な交通事故というよりは戦時災害に近い性格を併せ持った事故といえそうです。事故が発生した国道336号線沿いの山側に昭和34年に慰霊碑を建立されました。(省営バス事故慰霊碑) ◇建立年:昭和34年12月 ◇建立者:国鉄様似自動車営業所 ◇所在地:様似郡様似町平宇  ◇Gmap:Gマップ

殉公之碑道路工事殉難者慰霊碑 新十津川町

道路工事殉難者慰霊碑 幌加小学校より4kmほど進むと廃止された上水道施設跡があり、周囲に人家跡はない。ここは北幌加小学校の跡地ともいうが、その斜め向かいに「殉公之碑」の碑がある。裏面の碑文より「昭和四年四月十日當部落道路用砂利採取作業中突如雪盤崩壊左ノ五氏ハ不虞ノ壓死ヲ遂ゲラル其ノ公益事業ノ殉ゼラレタルハ洵ニ敬仰追惜措カサル處ナリ茲ニ區民相圖リ其ノ靈ヲ慰ムルト共ニ功績ヲ後昆ニ傳フ」「山﨑新吉 三十七才 中川めつい 二十六才 中山正司 十八才 大井トクシ 二十五才 吉原ケイ 三十五才 昭和十五年 第十五區民一同」※集落の道路に敷設する砂利採取中に雪崩に襲われて20~30代の村民5名が不幸にして亡くなられたのを慰霊した碑。同じ幌加に土工岩と呼ばれる土工夫の慰霊碑があるが今は林道(g(旧浜益道路)が通行止めになり行くことができない。 ◇事故年:昭和4年4月10日 ◇建立年:昭和15年 ◇建立者:第十五區民一同 ◇所在地:北海道樺戸郡新十津川町幌加  ◇Gmap:Gマップ

延命地蔵尊札幌市南区

延命地蔵尊 下砥山の砥山橋から200mほど北側の小祠内にある地蔵。旧簾舞発電所水路で水難した8人の慰霊のため、上砥山の土地の所有者であった上村家が昭和39(1964)年に建立した。2体のお地蔵尊があり、向かって左側の大きな地蔵尊が延命地蔵で台座に「延命地藏」と刻まれています。この地蔵尊は八剣山の反対側である東側の麓に建てられていたようですが、市道が国道のバイパスとして整備された時に現在地に移されたようです。 ◇建立年:昭和39年  ◇建立者:上村家  ◇所在地:札幌市南区砥山  ◇Gmap:Gマップ

布袋座遭難者慰霊碑倶知安町

布袋座遭難者慰霊碑 碑文より「昭和十八年三月六日春宵、倶知安産業組合慰安映画会が布袋座で催され 楽しく映画が始まった一瞬、フイルムに引火した業火と 丈余の残雪に入場者は出口をふさがれ、さかまく火焔に逃げ場を失ない あたら尊い生命を終られました。ここに昭和四十年 二十三回忌を期して二百八名の霊を追悼し これを建立する」※昭和18年3月6日、劇場・布袋座で起こった火災により、200人を超える死者を出した。これと同じような火災事故が浜中町でもあった。 ◇建立年:昭和41年8月 ◇建立者:遺族会 倶知安町農業協同組合 倶知安町仏教会◇所在地:北海道虻田郡倶知安町旭 共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

相泊の地蔵堂せたな町

相泊の地蔵堂 かつてあった大成町の観光資源サークルが設置した説明板より「旅の無事と海難事故で亡くなった人々の霊の供養のため安置されたといわれる。安政4年、江差の商人鈴鹿甚右衛門、土木請負者長坂庄兵衛は関内~太櫓間約12里の道路工事に着手。それ以前に太田山権現拝殿の前後約一里は山僧宗検の手によって開削された。道程の中間地点に通行者の無事を念じ、地蔵尊一体が安置されたのが、事の始まり。その後、霊場の参拝や商用で太田を訪れる人たちが、通行の安全を祈願し山道に次々と地蔵尊を安置した。明治26年相泊一体の鰊網元久保田利吉が海難事故で亡くなった人の供養の為、地蔵尊6体を安置した記録もある。このような経過で安置された地蔵の数は、大正3年には33体におよんだという。昭和15年から太田奥地の開墾が始まり、この地に通ずる道路沿いにこの地蔵尊のうち何体かが移された。昭和38年現在の海岸道路の一部完成時に若本惣之助さん(富磯)等の努力により、現在地付近に地蔵堂を設け17体が集められ安置された。しかし、その後、数度にわたる暴風波浪があり、海中に流されることもしばしばあった。その都度富磯地区の人々のてによって拾い上げられたが、海中に没し行方の分からないものもあり、現在は12体の地蔵様のみとなった。」安政4年に江差の商人鈴鹿甚右衛門によって関内~太櫓間の道が開削され、その前に山僧宗検が太田山権現拝殿の前後約一里を開削している。その中間地点に通行者の無事を念じ1体の地蔵尊が安置、その後も通行の安全祈願や海難者供養のため地蔵尊が安置され、大正3年には33体という。昭和38年に現在地付近に地蔵堂を設け集められた17体を安置。その後、数度の暴風波浪で海中に没したのもあり現在は12体の地蔵尊が安置されている。 ◇建立年:安政4年以降  ◇建立者:詳細不詳  ◇所在地:せたな町大成区富磯  ◇Gmap:Gマップ

漂民小市慰霊碑根室市

漂民小市慰霊碑 1792年10月20日(寛政4年9月5日)ロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行が、日本人漂流民大黒屋光太夫、小市、磯吉の3人を伴って根室に来航。ラクスマンの来港で交渉にあたったのは松前藩根室詰の熊谷富太郎で、松前に使者を出し指示を仰いだが、ラクスマンも幕府宛文書を提出し、その回答を待つために海岸に宿舎を建設した。宿舎が完成したのが11月28日で、エカテリーナ号には交替要員を残し、光太夫らも含め全員がロシア人宿舎に入り越冬、幕府役員・田辺安蔵らも根室に到着し本格的な交渉がはじまった。宿舎は運上所から西に約120mの所で現在の北洋銀行付近という。小市は光太夫らとともにロシアに漂流し、十年の苦難の歳月を費やして辿りついた根室で、旧暦寛政5(1793)年4月2日に病死、ロシア人水兵セミン・マロチンもここで亡くなっている。小市は日本風に埋葬されたというがその位置は不詳。市街地西方の故郷に帰る事を願いながら果てた小市の眠る地に小市を偲び、併せて鈴木熊蔵、セミン・マロチン慰霊のためラクスマンの来航・小市帰還後200年にあたる平成4(1992)年に小市の慰霊碑が建立されている。 ◇建立年:平成4年10月20日  ◇建立者:小市慰霊碑建立有志の会  ◇所在地:根室市西浜町3丁目 西浜墓地  ◇Gmap:Gマップ

近藤重蔵道路開削記模碑広尾町

近藤重蔵道路開削記模碑 この碑が建立された時に説明板も設置されたが、今は碑があるだけで碑文の判読は難しい。碑はルベシベツ山道の北口近く、旧道の重蔵隧道の側にあり東蝦新道記の原文が刻まれ文化財に指定されています。その概要は近藤重蔵がエトロフ・クナシリよりの帰路、様似をへて広尾に至るが、ここで風雨の為に滞留を余儀なくされる。トモツクシ・ピンナイは嶮間に死する者も有りと云い、近藤重蔵は私財を投じ、従者の下野源助にルベシベツからピタタヌンケまで山間部を通る新道の開削を命じアイヌ民族68人の協力を得てルベシベツ山道を切り開いたと、近藤重蔵を称えた碑で「大日本寛政10年戊午11月朔庚申 江戸輶軒使 近藤重蔵 従者 下野源助録 金平 通辞 豊吉 孫七 夷族 68人」と当時の同行者も刻まれている。碑裏面に「この碑文の道路はここより分岐したるものにして、本道道路開發鑿の嚆矢とす 昭和9年9月 北海道廳」※とあり北海道廳が建立したもの。この碑を紹介するのは「北方人物誌 蝦夷から北海道へ」に「十月十日・・・アイヌ土人達の使役が過酷に過ぎたため、恨みを買って危うく重蔵が殺されかけようしたこともあったのを、謙次(注・下野源助の事)が叱咤し慰論して事なきをえたと伝えられる・・・」とあったからで、過酷な山道開削に使役された68人のアイヌ達はどこから集められたのかと。◇建立年:昭和9年9月 ◇建立者:北海道廳 ◇所在地:広尾郡広尾町モエケシ(ルベシベツ) ◇Gmap:Gマップ

道路全通記念碑広尾町

道路全通記念碑 昭和2年5月8日に着手した地方費道帯広浦河線広尾庶野間(現・国道336号線)改良工事で、えりも側は庶野を起点に国境までを室蘭土木事務所が担当し谷万吉の請負、広尾側は帯広土木事務所が担当し広尾側は6工区に分けられ、起点の広尾橋から音調津(第一~第4工区)間の竣工は昭和5年10月で、この時に開通記念碑が音調津に建立されている。難所であった第二工区は直営工事で他の工区は鶴間組の請負でした。第五工区の音調津~モイケシ間は藤原仁一郎が請負、第六工区のモイケシ~国境間のうち1.198mは桜谷清五郎の請負で残りの5.612kmは直轄工事でした。総延長33.1529km、道路延長32.497m、橋梁延長573m22箇所、隧道延長459m17箇所、防波壁延長6.346m25箇所という難工事を7年半をかけ昭和9年10月17日に竣工、同31日に全通、開通式と慰霊祭は昭和9年11月3日午前10時、猿留橋の橋上で挙行され記念碑が建立されたが、碑文では11月竣工となっている。総工費945,503圓、現在の貨幣価値にすると約60億円で道路全長からいうと黄金道路というほど篦棒な金額ではない。戦後も改良工事を重ね、昭和42年から本格的な改良工事に着手、昭和56年に一次改良工事が完了した。道路全通で漁場を失ったり、昆布着床の不良など漁民の被害は少なくないと思われる。改良工事後に設置された記念碑が広尾市街地近くの「朝日坂記念公園」に、えりも側は庶野の国道脇小公園にある。◇建立年:昭和9年11月3日 ◇建立者:不詳 ◇所在地:広尾郡広尾町ピケタヌンケ ◇Gmap:Gマップ

殉職記念碑広尾町

殉職記念碑 殉職記念碑は雪崩事故で殉職した方々の慰霊碑でタニイソの海岸にあったのをピケタヌンケにある駐車帯傍に移設したもの。道路開削の歴史は江戸時代にはじまり明治を経て大正末から昭和年代になると大規模な改修工事が始まる。本館的な工事開始は昭和2(1927)年、えりも側と比べると難所が多く特に「広尾側第6工区」は全工区17箇所のトンネル中9箇所が集中、難所中の難所で3年以上を費やし昭和9(1934)年10月に竣工した。開通を目前にした昭和9年3月13日から14日にかけての記録的な豪雪で現場は埋もれ、第八号トンネルと第久号トンネルのの中間にあった3棟の工事詰所や土功部屋に帯広土木事務所職員の他、作業員とその家族が待避して天候の回復を待っていたが、3棟のうち2棟の土工部屋が大規模な雪崩に直撃され倒壊。直撃を免れた土工部屋に居た人々によって救助活動が行われ、救出作業を終えて部屋に戻っていた時に第2波の雪崩が襲い最終的には15名(広尾町史)の犠牲者を出したという。殉職記念碑裏面に事故の経過と三名の殉職者名、他13名と刻まれ16名の殉職者があったことになり、広尾町史の15名とは異なる。町史には「請負業者の幹部一人も亡くなっている」とあり土工部屋はタコ部屋の事で他13人はタコ部屋労働者となるのかもしれない。◇建立年:昭和9年8月◇建立者:詳細不詳 北海道廳?◇所在地:広尾郡広尾町ピケタヌンケ◇Gmap:Gマップ

殉職記念碑広尾町

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