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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道の漁業に関連する記念碑・海難碑・慰霊碑を巡る旅‼

根室女工節の碑根室市

# 地方の民謡として歌い継がれていたという 古くからこの根室や北方四島にある缶詰工場の隆盛を支える大きな力となった女工さん達が、遠く故郷を離れて出稼ぎし幾夜もいつ果てるともしれぬ過酷な作業に耐えながらお互いを励ましあい、生産のよろこびや つのる故郷への切々な思いを口ずさんだ歌詞であり、哀愁漂う調べは深く人々の胸を打つものがあります。女工さん達の筆舌に尽くせない労苦と功績を讃え、この唄を後世に伝承する思いを込めて歌碑を建立するものであります。言い換えるならこれは北の女工哀史、手動の押しボタンスイッチで根室女工節が流れます。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:根室市清隆町3丁目 ときわ台公園  ◇Gmap:Gマップ

海難慰霊碑枝幸町

# オホーツク海で犠牲になった人々の慰霊とその功績を後世に残すため水産関係者の努力で建立された。碑文より「明治開拓の往時より枝幸町の漁業開発のためオホーツクの荒波に身を託し幾多の辛酸を経て今日の漁業の発展のために努力されました。□□の中に不慮の難に遭い尊い犠牲となられた各位の霊に謹んでご冥福を申し上げます。私どもはかねてよりこれら先輩各位の偉大な功績とそのご苦労に対して心からなる畏敬の念おさしがたく永く後世に伝うべくこのたび慰霊碑を建立した次第であります。」慰霊碑は高さ2m、横3m、幅2mの稲田花崗岩で明治開拓以来の海難殉職者131柱が祀られ、毎年8月11日に慰霊祭が催されている。 ◇建立年:昭和48年8月16日 ◇設置者:枝幸町 ◇所在地:北海道枝幸町岬町 ウスタイベキャンプ場  ◇Gmap:Gマップ

港湾殉職者慰霊碑紋別市

# 市街中心部の高台にある紋別公園の入口正面にテトラポット台座にした例を見ない港湾殉職者慰霊碑。碑文正面・裏面とも「港湾殉職者慰霊碑」と刻まれ、裏面に「昭和四十四年六月 建立 紋別市長 宮尾貫市 殉職者氏名(注・氏名省略12名省略) 株式会社西村組 紋別事業所 従業員一同施行」※紋別発展を支えた港湾整備の陰に尊い犠牲がありました。大正11年に暴風雨による大きな犠牲をだした海難事故があり、その翌年から本格的な港湾建設が始まり昭和5年度に完成、その後も拡張工事が続けられ現在に至っている。西村組も港湾整備に携わった業者であり関係者が殉職されたのだと解釈した。港湾工事が始まった年代からして、強制労働による犠牲者もいたのではとこちらも気きなります。 ◇建立年:昭和44年6月 ◇建立者:紋別市 ◇建立地:紋別市花園町8丁目2  ◇Gmap:Gマップ

海難殉職者慰霊碑紋別市

# 碑文より「海難殉職者慰霊碑 町村金吾書」「紋別の開発は漁業に始まり漁業の発展と共に今日の輝かしい躍進を遂げてきた。併しながらこの漁業に身を挺し痛ましくも海難にあい職に殉じた犠牲者は開基以来二百余名にも及ぶ。遙かに幽明を隔て、諸士が不滅の遺功を偲ぶとき、追憶しきりに去来して詢に痛恨きわまない。仍って有志相計り霊魂長之に安かれと念じ諸士が縁り深きオホーツク海を瞰下に霽かす丘陵に慰霊の碑を建立する。昭和四十年七月 設計施工者は省略」※大正11年の暴風雨による大規模な漁船の海難事故をはじめ、色々な事故で亡くなられた方を慰霊する碑は紋別公園内にあります。近くに港湾殉職者慰霊碑があり、その先に1960年に設置された赤と白の紋別灯台が見える。展望台の開館時間は8時45分~17時30分迄。 ◇建立年:昭和40年7月 ◇建立者:紋別市 ◇建立地:紋別市花園町8丁目1  ◇Gmap:Gマップ

殉難者慰霊塔湧別町

# 湧別ポント浜とサロマ湖東岸のワッカ海岸に流れ着いた機雷の処理を遠軽警察署が担当。戦意高揚の目的と警察の権威発揚もあってか機雷爆破処理作業を海軍記念日の前、昭和17年5月26日として一般公開としたが、専門家も無しに爆破方法を誤り、警防団員や警察官から遠巻きにいた一般見学者も巻き込んで106人が即死、その後重症者のうち6人が死亡、死亡者数112人という大惨事となった。爆心部は直径10m、深さ3mの大穴があき、近くにいた人は肉片になって四散、半径50m以内には原形を留めない遺体が散乱し、慄然たる惨状を呈していたという。事故現場で合同慰霊祭が執行され翌年の昭和18年に事故現場のポント浜に「殉難者慰霊碑」が建立されたが、波によるの浸食が激しく8年後の昭和26年に湧別神社境内に慰霊碑を移転、ポント浜の護岸工事が完了した50年後の1991(平成3)年に殉難者慰霊碑が再建された。かつてのポント浜一帯は町営牧場の牧草地となり、波打際は護岸で固められ機雷殉難の塔だけが当時を物語っている。 ◇再建年:平成3年5月26日 ◇再建者:湧別町 ◇建立地:紋別郡湧別町東 ポント浜  ◇Gmap:Gマップ

海難者慰霊碑旧常呂町

# 弁天の高台の眺望のよい場所に建立されている。昭和29(1954)年9月の青函連絡船の海難事故に遡ること4ヶ月半前、5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた爆弾低気圧は道内でも甚大な被害な被害を引き起こしたが、この低気圧はオホーツク海に抜け翌10日未明から急激に西の風が強まり瞬間風速31.7mを記録した。知床半島沖に出漁していた常呂漁業協同組合所属の小型漁船は、避難する間もなく多数沈没し、死者・行方不明21名という殉難者をだした。道東全体では太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われている。碑は昭和29(1954)年の爆弾低気圧による被災者の霊を慰めるため、38年11月に常呂漁業協同組合が建立した。 ◇建立年:昭和38年11月 ◇建立者:常呂漁業協同組合 ◇建立地:北見市常呂町常呂  ◇Gmap:Gマップ

海難者慰霊碑旧常呂町

# 弁天の高台の眺望のよい場所に建立されている。昭和29(1954)年9月の青函連絡船の海難事故に遡ること4ヶ月半前、5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた爆弾低気圧は道内でも甚大な被害な被害を引き起こしたが、この低気圧はオホーツク海に抜け翌10日未明から急激に西の風が強まり瞬間風速31.7mを記録した。知床半島沖に出漁していた常呂漁業協同組合所属の小型漁船は、避難する間もなく多数沈没し、死者・行方不明21名という殉難者をだした。道東全体では太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われている。碑は昭和29(1954)年の爆弾低気圧による被災者の霊を慰めるため、38年11月に常呂漁業協同組合が建立した。 ◇建立年:昭和38年11月 ◇建立者:常呂漁業協同組合 ◇建立地:北見市常呂町常呂  ◇Gmap:Gマップ

海難者追悼の碑網走市

# 碑文より「網走の漁業は遠く文化年間約百六拾有余年の往時に端を開き管内産業興隆の緒となり今日の画期的な漁業に躍進し当地他経済事業の最も重要な一翼を担っている。然し乍らこの目覚しい漁業発展の陰には海難により尊い犠牲となった幾多の先人が礎となっていることは実に痛恨の極みでその限りない功績は燦として永遠に不滅の光彩を放つものである。今茲に我ら漁民相集い個人の遺績に想いを致し在夫の精霊永に安らかならんことを記念して感謝の誠を捧げるものである。昭和四十一年九月建立 網走漁業協同組合 北海道知事 町村金吾書」※道東では昭和29(1954)年5月の爆弾低気圧により太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われる災害が有名だが、網走では動力化が早くからすすんでいた事もあり、それ以前の大正11年9月に起きたホタテ漁船300隻の遭難を出した海難事故が史上空前だったようです。その時の遭難水死者は76人とも云われているが調査不十分で実際はそれ以上の犠牲者があったという。 ◇建立年:昭和41年9月 ◇建立者:網走漁業協同組合 ◇所在地:網走市桂町2丁目1−1(網走神社境内) 

海難者追悼の碑網走市

# 碑文より「網走の漁業は遠く文化年間約百六拾有余年の往時に端を開き管内産業興隆の緒となり今日の画期的な漁業に躍進し当地他経済事業の最も重要な一翼を担っている。然し乍らこの目覚しい漁業発展の陰には海難により尊い犠牲となった幾多の先人が礎となっていることは実に痛恨の極みでその限りない功績は燦として永遠に不滅の光彩を放つものである。今茲に我ら漁民相集い個人の遺績に想いを致し在夫の精霊永に安らかならんことを記念して感謝の誠を捧げるものである。昭和四十一年九月建立 網走漁業協同組合 北海道知事 町村金吾書」※道東では昭和29(1954)年5月の爆弾低気圧により太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われる災害が有名だが、網走では動力化が早くからすすんでいた事もあり、それ以前の大正11年9月に起きたホタテ漁船300隻の遭難を出した海難事故が史上空前だったようです。その時の遭難水死者は76人とも云われているが調査不十分で実際はそれ以上の犠牲者があったという。 ◇建立年:昭和41年9月 ◇建立者:網走漁業協同組合 ◇所在地:網走市桂町2丁目1−1(網走神社境内) 

海難慰霊碑羅臼町

# 昭和29年5月10日の暴風雪災害、その5年後、昭和34年4月6日の突風災害はそれぞれ5・10災害、4・6突風と呼ばれ、当時の状況を知る人たちには、自然の力のおそろしさと、その悲惨な状況を思い起こさせるものであります。また、この災害を契機として、羅臼漁業協同組合で、4・6突風の翌年、昭和35年10月に、北方領土、国後島が一望できる共栄町の小高い丘に海難者慰霊碑を建立し、毎年、海難者の供養が行われておりますが、本年も、去る6月9日に、先人たちへの感謝と、海難の犠牲になられ、尊い生命を奪われました方々の御霊をお慰めするため、海難者慰霊祭がとり行われているところであります。 ◇建立年:###  ◇建立者:羅臼町 ◇所在地:目梨郡羅臼町共栄町 しおかぜ公園  ◇Gmap:Gマップ

海上遭難者之碑根室市

# 昭和29(1954)年9月の洞爺丸台風で起きた青函連絡船の海難事故は世界の海難史上でも有名ですが、道東では4ヶ月半前の5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた爆弾低気圧で道東地域を中心に壊滅的な被害を引き起こした。この低気圧による最終的な被害は海難事故として太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われているが根室地方では191名の犠牲者という。被害を大きくした要員は、排水量10トン級の小型船舶で各々独自に遠くは200マイルまで出漁し、かつ無線やラジオなどを装備していない旧式船が約6割を占めていた事で天候の急変が伝わらなかった事などがありそうです。この災害で漁船の近代化が図られていくことになります。※合同葬儀が花咲小学校で行われた。 ◇海難年:昭和29年 5月10日 ◇建立年:昭和30年 5月10日  ◇建立者:###  ◇所在地:根室市琴平町1 金刀比羅神社境内 ◇Gmap:Gマップ

海難物故者供養塔釧路町

# 西暦2006年=平成18(2006)年の大時化で漁船転覆や漁業被害が記録されているが大規模な海難記録はみあたらなかった。大きな岬なので潮流変化や風向きが急に変わるなど海の難所であることに変わりはない。古くは岬の厚岸側に多くの漁期番屋がありニシン漁で賑わっていたというので、記録に出てこない海難事故はあったから「海難物故者供養塔」がここに建立されているのだと解した。日高地方から逃げて来た義経一行が吹雪に遭いこ、こで座礁、遭難して義経は崖を登り石になり座礁した船が帆掛岩になったという伝説も、義経の石像が十勝沖地震で崩れ帆掛岩だけが残り、鳥居は昭和53(1978)年に再建されたもの。ここでは義経を拒絶したのだろう。車止めの近くに馬頭観世音があるが、漁場の荷物運びか炭砿で使役されたものか・・そこから約20分ほど岬に向かって歩くと台地先端部に海難物故者供養塔があり、さらに進むと帆掛岩が見える。天気が良ければ厚岸湾口に浮かぶ大黒島などがよく見える。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:釧路郡釧路町仙鳳趾村 尻羽岬 ◇Gmap:Gマップ

魚霊碑大樹町

# ◇建立年:昭和61年建立 ◇建立者:大樹漁協 ◊所在地:広尾郡大樹町3条通り  ◇Gmap:Gマップ

海難碑・海難慰霊碑広尾町

# ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:広尾郡広尾町フンベ  ◇Gmap:Gマップ

遭難漁者供養塔釧路市

# 釧路遭難漁者供養塔は大正2年に起きた海難事故の慰霊碑。釧路地方の大きな海難事故をみると大正2年の暴風雨による釧路沖でマグロ漁船18隻破船、沈没で63名が溺死。大正5年4月29日の暴風雨で通船が港内入口で沈没、16名は救助されたが行方不明、溺死者11名。昭和19年は特殊な例ではあるが釧路沖で日連丸が米潜水艦に撃沈され約2,800人が死亡。昭和29年の暴風では釧路の鮭鱒流網漁船3隻が沈没し33人が死亡等がある。戦争による海難を別にすると急変する天候に対応出来ずに起きた海難事故です。当時のマグロ流し網漁は手漕ぎと帆で走る川崎船という小型船で、嵐を避けて帰港中に沈没し63名の犠牲者を出したが、台座に氏名が刻まれているのは55名で不明の8名は秋田からの来漁者で、釧路に上陸しなかったので氏名がわからなかった、と伝えられているが確かなことは不明のまま。碑文は風化で殆ど判読できない。参考文献・釧路碑文手帳 Ⅰ ◇建立年:大正4年12月  ◇建立者:###  ◇所在地:釧路市紫雲台 紫雲台墓地 東区  ◇Gmap:Gマップ

釧路港遭難溺死者供養塔釧路市

# 釧路地方の大きな海難事故を拾ってみると大正2年の暴風雨で釧路沖でマグロ漁船18隻が沈没し63名が溺死。大正5年4月29日の暴風雨で枕木積み取り作業を終えて帰港中の通船が港内入口で沈没、16名は救助されたが行方不明、溺死者11名をだした。大正2年と同様で帆を下ろすまもなく転覆に至ったようです。昭和19年は特殊な例ではあるが釧路沖で日連丸が米潜水艦に撃沈され約2,800人が死亡。昭和29年の暴風では釧路の鮭鱒流網漁船3隻が沈没し33人が死亡等がある。戦争による海難を別にすると被災者は漁業や港湾従事者であり急変する天候に対応出来ずに起きた海難事故です。供養塔の建立は大正5年秋のようで、供養塔で台座に犠牲者の氏名が刻まれているが、風化で読めない部分が多い。参考文献・釧路碑文手帳 Ⅰ ◇建立年:大正5年秋頃  ◇建立者:###  ◇所在地:釧路市紫雲台 紫雲台墓地東区  ◇Gmap:Gマップ

港湾殉職者慰霊碑紋別市

# 市街中心部の高台にある紋別公園の入口正面にテトラポット台座にした例を見ない港湾殉職者慰霊碑。碑文正面・裏面とも「港湾殉職者慰霊碑」と刻まれ、裏面に「昭和四十四年六月 建立 紋別市長 宮尾貫市 殉職者氏名(注・氏名省略12名省略) 株式会社西村組 紋別事業所 従業員一同施行」※紋別発展を支えた港湾整備の陰に尊い犠牲がありました。大正11年に暴風雨による大きな犠牲をだした海難事故があり、その翌年から本格的な港湾建設が始まり昭和5年度に完成、その後も拡張工事が続けられ現在に至っている。西村組も港湾整備に携わった業者であり関係者が殉職されたのだと解釈した。港湾工事が始まった年代からして、強制労働による犠牲者もいたのではとこちらも気きなります。 ◇建立年:昭和44年6月 ◇建立者:紋別市 ◇建立地:紋別市花園町8丁目2  ◇Gmap:Gマップ

海難殉職者慰霊碑紋別市

# 碑文より「海難殉職者慰霊碑 町村金吾書」「紋別の開発は漁業に始まり漁業の発展と共に今日の輝かしい躍進を遂げてきた。併しながらこの漁業に身を挺し痛ましくも海難にあい職に殉じた犠牲者は開基以来二百余名にも及ぶ。遙かに幽明を隔て、諸士が不滅の遺功を偲ぶとき、追憶しきりに去来して詢に痛恨きわまない。仍って有志相計り霊魂長之に安かれと念じ諸士が縁り深きオホーツク海を瞰下に霽かす丘陵に慰霊の碑を建立する。昭和四十年七月 設計施工者は省略」※大正11年の暴風雨による大規模な漁船の海難事故をはじめ、色々な事故で亡くなられた方を慰霊する碑は紋別公園内にあります。近くに港湾殉職者慰霊碑があり、その先に1960年に設置された赤と白の紋別灯台が見える。展望台の開館時間は8時45分~17時30分迄。 ◇建立年:昭和40年7月 ◇建立者:紋別市 ◇建立地:紋別市花園町8丁目1  ◇Gmap:Gマップ

海難者慰霊の碑浜中町

# 浜中町近海で遭難し、亡くなった方々の慰霊のために建立された。毎年8月に仏教会が主催し、関係者が集まり慰霊祭が執り行われているようですが、併せて魚族供養法もされているという。碑には「海難者慰霊の碑 浜中町長 喜島賢吾」とある。 ◇建立年:###  ◇建立者:浜中町  ◇所在地:厚岸郡浜中町 湯沸墓地  ◇Gmap:Gマップ

築港殉職碑室蘭市

# 大正7年(1918)着工の南・北防波堤工事(昭和2年に終了)では殉職者13人、昭和33年(1958)着工の外防波堤工事(昭和39年に終了)では殉職者12人と、25人もの尊い犠牲者を出しています。室蘭の発展とともにあった港を築く際に殉職した方々の慰霊のため、昭和42(1967)年、室蘭港湾建設事務所が同所の裏に犠牲者25人の名を記した「殉職碑」を建立しました。ただ大正7年から昭和2年までの防波堤工事で殉職者13人というのは信じがたい。理由は小樽の港湾工事、ここでは大勢のタコ労働者が動員されていたが、室蘭も同じではなかったのかと? ◇建立年:昭和42年 ◇建立者:室蘭港湾建設事務所? ◇所在地:室蘭市祝津町1丁目1 室蘭港湾事務所横  ◇Gmap:Gマップ

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