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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
戦跡・主に海難慰霊碑・平和祈念の碑を巡る‼

宗谷海域戦没者慰霊碑稚内市

宗谷海域戦没者慰霊碑 宗谷周辺の海域を守り殉職した旧海軍々人の慰霊のために建てられた。敗戦直前の1945(昭和20)年7月、アメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けた稚泊(ちはく)航路の連絡船「宗谷丸」を守るため、身代わりとなって爆沈した宗谷防備隊所属の「第112号海防艦」乗組員152名の鎮魂のため、旧備隊々員よりよせられた寄付で建立された。 ◇建立年:昭和55年9月 ◇設置者:未確認 ◇所在地:北海道稚内市 宗谷岬平和公園  ◇Gmap:Gマップ

平和の碑稚内市

宗谷海域戦没者慰霊碑 太平洋戦争中の昭和18年10月、宗谷岬沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「ワフー号」の乗組員80名と、ワフー号によって日本海で沈められた日本商船5隻の犠牲者696名を慰霊するため、戦後50年の年にあたる平成7年9月に日米合同で建立されました。日米合同で慰霊碑を建立するのはわが国では初めてという。 「碑文 1943年10月11日、宗谷海峡において5時間に及ぶ日本海軍とアメリカ合衆国海軍との間で悲痛な戦いが繰り広げられた。この場所により、北東12マイルの宗谷海峡にアメリカ潜水艦ワフーSS238号乗組員80名のアメリカ人が眠っている。また、ワフー号の攻撃による多くの日本人の犠牲者が日本海に眠っている。この碑は、日本側の人々とワフー号に眠る乗員の家族とによって設立されたものである。かつての敵は、今日、兄弟として出会い、両国の平和が尽きることのないよう、また、我々が今あたためている友情が決して再び壊れることのないよう、献身したい ◇建立年:平成7年9月9日 ◇設置者:平和の碑建立委員会・稚内うしお会 ◇所在地:北海道稚内市 宗谷岬平和公園  ◇Gmap:Gマップ

中千島方面戦没者慰霊碑宗谷歴史公園

中千島方面戦没者慰霊碑 戦争末期になって千島列島の日本軍は北千島、中千島、南千島の3地区に分けて守備隊が置おかれていた。北千島(占守島と幌筵島)は第91歩兵師団を中心に約2万3千名が守備についており、このうち占守島には第73旅団と戦車第11連隊、第1砲兵隊を基幹とした海軍部隊を含む約1万3千名が配置されていた。碑にあるそれぞれの組織は中千島(松輪島・得撫島)の守備隊と思うが慰霊碑に具体的な説明はなく此処に千島の慰霊碑がある理由がよくわからない。近年までは遺族の方々も訪れていたというが・・・孫の代になって殆ど忘れられた慰霊碑となってしまったようだ。1945(昭和20)年8月14日にポツダム宣言受諾を表明し、米軍機による千島列島への攻撃は中止され、日本軍も武装解除を行ったという。ポツダム宣言受諾後の8月18日にペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が国境を越えて占守島に上陸、日本軍と交戦している。8月21日に停戦したがその後もソ連軍の南下は続き8月28日には択捉島9月1日には色丹島5日には水晶島が占領され停戦した。千島を防衛した日本軍と成人男子の民間人はその後シベリアへ強制連行され(現・マガダン)コルィマ鉱山での採掘や木材の伐採等に従事させられ、その殆どが再び祖国の地を踏む事は無かった。国内最期の地上戦は沖縄ではなく占守島をはじめとする千島列島、樺太が敗戦後のソ連侵攻で戦われた最後の地上戦になる。 ◇所在地:稚内市宗谷村宗谷 宗谷歴史公園  ◇Gmap:Gマップ

樺太三船慰霊之碑(苫前)三船殉難事件の概略

苫前 樺太三船慰霊之碑 碑文上段「樺太三船慰霊之碑 苫前町長 名畑隆雄 書」碑文下段「慰霊之詞 戦争の終わった夏 昭和二十年八月二十二日 夢にまで見た祖国本土を目の前にした朝 突然国籍不明の潜水艦に攻撃され海底深く消えさった私達の同胞の御魂安らかなるを祈り血涙を絞りてこの碑を建立し慰霊の誠を捧げんとするものである 合掌  昭和五十年十月二十二日 寄贈者 高田利吉 関係者一同」※太平洋戦争末期の昭和20年8月8日になって旧ソビエト連邦が「日ソ中立条約」を破棄し連合国側に参加して日本に宣戦布告、直後に千島列島・南樺太への侵攻を開始した。一般的に8月14日にポツダム宣言を受諾、無条件降伏をした1945(昭和20)年8月15日が終戦日として認識されているが、樺太でその後も散発的に激しい戦闘が続いたという。樺太では旧ソビエト軍の上陸が予想された事から民用・軍用を問わず脱出用の船舶が緊急召集されて居留民避難が8月13日から始まっているが、大泊港に入った避難用の船舶数は少なく大小合わせて十隻余りで女性・子供・老人を優先して乗船させていた。守備隊降伏後の「島外移動禁止令」が出される8月23日までの間にピストン輸送になどにより島民8万人弱が樺太から脱出しています。終戦後で混乱する8月22日、避難民が到着する稚内から陸路での移動は鉄道(宗谷本線)はあるも便数は少なく、数万人に及ぶ人々の迅速な移動は困難であり一部の引揚船は稚内から小樽へ変更し航行中の留萌沖の日本海にて樺太からの避難・引揚者で満載の三船が潜水艦の攻撃で大破・沈没して夥しい犠牲者をだした。 ◇逓信省所有の小笠原丸(1,404トン)は8月20日に女性・子供を中心とした1,500名ほどの避難民を乗せ大泊港を出港、翌日稚内で約900名を下船させた後に小樽港に向けて出港し増毛沖合約10kmを航行中の8月22日午前4時20分頃、潜水艦の放った魚雷を被弾して数分で沈没、乗船者の殆どは船と運命を共にするが、漂流物につかまっていた数少ない生存者も、浮上してきた潜水艦の機銃掃射で船長を含む乗員57名・避難民約580名が犠牲になり生存者はわずか62名でした。 ◇第二新興丸(2,577トン)は4回目の引き揚げ支援で8月21日に約3,500名の引揚者を乗せ大泊港を小樽港に向けて出港、留萌沖にさしかかった8月22日午前5時頃に、潜水艦の発射した魚雷を右舷側面の船倉付近に被弾、浮上した2隻の敵潜水艦の砲撃・銃撃にあう。第二新興丸は「特設砲艦兼敷設艦」であったので必死の反撃で最悪の事態を免れ、最寄りの留萌港にたどり着いた。ここで犠牲になったのは行方不明者と合わせて約400名とも言われています。 ◇泰東丸(887トン)は民間所有の貨物船で引揚支援に招集され8月21日に引き揚げ者を乗せて大泊港を出航し翌8月22日午前9時50分ころ鬼鹿村(現・小平町鬼鹿)沖を航行中に右舷前方に潜水艦が浮上した潜水艦より砲撃を受け戦時国際法に則り「白旗」を掲げるも、砲撃は続き船体が折れるように沈没したと云い死亡者667名を出す。生存者は113名で付近を航行中していた海軍海防艦に発見・救助されている。共通しているのは犠牲になったのは殆どが女性と子供達でした。云えることはどんな理由があっても戦争になれば人権や規則などは無視され、その犠牲になるのは女性や子供などの弱者だということです。苫前町の樺太三船慰霊之碑は道の駅近くで苫前港を見下ろす海岸の高台に建立されているが、補修や再建が必要な程に痛んで風化が進んでいる。苫前沖での三船遭難はないが泰東丸の遺品は苫前海岸にも漂着したようで、苫前町と小平町に保存されているが一部は小平町鬼鹿の道の駅に公開展示されている。 ◇建立年:昭和50年10月22日  ◇建立者:高田利吉 関係者一同  ◇所在地:苫前郡苫前町苫前119  ◇Gmap:Gマップ

三船遭難慰霊之碑小平町

三船遭難慰霊之碑 碑は「泰東丸」が沈没した地点に近い小平町鬼鹿海岸、道の駅のパーキングエリア際にある。碑文より「昭和20年8月22日太平洋戦争終わる。終戦後7日、昭和20年8月22日、早暁の海は波穏やかにして微風甲板を渡る。この日、泰東丸、第二新興丸、小笠原丸の三船は戦乱の樺太(サハリン)より緊急引揚の老幼婦女子乗組員5.702を乗せ、鬼鹿沖にかかりしが突如旧ソ連軍の潜水艦による雷砲撃に遭い、瞬時にして沈没或は大破し1.708名の尊き生命を奪わる。留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍にあう悲惨の極みなり。星霜ここに30年我等同胞慟哭の海に向かい霊鎮まらんことを願いこの碑を建つ」観光客目にも触れる事も多いと思うが此の碑文で説明にかえます。裏側には「小平町・全国樺太連盟・三船遭難慰霊碑建設鬼鹿委員」と刻まれていた。近くに今村武氏作詞の樺太引揚三船犠牲者鎮魂の歌碑が建立されている。◇事故年:昭和20年8月22日 ◇建立年:昭和50年8月22日 ◇建立者:樺太引揚三船遭難慰霊碑建立合同委員会 ◇所在地:留萌郡小平町字鬼鹿広富 ◇Gmap:Gマップ

慟哭の海に誓う樺太引揚三船犠牲者の鎮魂歌碑

慟哭の海に誓う 一 戦い終わりし七日目に 故郷の夜明けさいま見て/喜び胸に秘めた時 激滔と共に我船は/海のもくずと沈み行く ああこれが無謀な戦争か
二 母よ娘よ妹よ 叫べど返る声聞けず/焦れば焦る波間には 今見し我子見え隠れ/板子一枚命綱 沈みし船に巻かれずと/必死に泳げど覚束ず 戦いの無残さ今ぞ知る
三 あの日数えて五十年 悲惨の感が今もなお/二度と返る事なかれ 穏やか海に祈るのは/安らかに眠れと思うのみ 戦い興し無き誓い/この碑に向い今叫ぶ 無駄にぞしない君の死を/平和の世代の糧にする
平成7年8月15日 作 作詞 今村 武 平成16年8月吉日建之 樺太引揚三船遭難遺遺族会」

「碑文 昭和20年8月22日9時55分 樺太からの引揚船泰東丸は、旧ソ連潜水艦L一九号の攻撃を受け、鬼鹿沖で沈没しました。懐かしの故郷の山河を目前に瞬時にして奪われた六百余名はいずれも老幼婦女子ばかりであります。この非道な行為とその無念を晴らすためこの町の有志は、泰東丸遭難者の遺骨収集を行いましたが残念ながら一片の遺骨も収集できませんでした。今年で樺太引揚三船遭難60回忌、泰東丸発見から20周年を迎えます。この節目の年に、関係有志から樺太引揚三船犠牲者の鎮魂のため歌詞の贈呈があり、私たち樺太引揚三船遭難遺族会は歌碑を建立し、泰東丸、小笠原丸、第二振興丸の犠牲者1.708名の鎮魂を謹んでご祈念し、この歌碑を建立するものであります。平成16年8月吉日建之 樺太引揚三船遭難遺族会」◇事故年:昭和20年8月22日 ◇建立年:平成16年8月 ◇建立者:樺太引揚三船遭難遺遺族会 ◇所在地:留萌郡小平町字鬼鹿広富

樺太引揚三船殉難平和の碑留萌市

樺太引揚三船殉難平和の碑 太平洋戦争末期のになって樺太では旧ソビエト軍の上陸が予想された事から民用・軍用を問わず脱出用の船舶が緊急召集されて居留民避難が8月13日から始まっているが、大泊港に入った避難用の船舶数は少なく大小合わせて十隻余りで女性・子供・老人を優先して乗船させていた。守備隊降伏後の「島外移動禁止令」が出される8月23日までの間にピストン輸送になどにより島民8万人弱が樺太から脱出しています。終戦後で混乱する8月22日、避難民が続々と到着する稚内から陸路での移動は鉄道(宗谷本線)はあるも便数は少なく、数万人に及ぶ人々の迅速な移動は現実的には困難であり一部の引揚船は稚内から小樽へ変更し樺太からの避難・引揚者で満載の三船が北海道近海の日本海を航行中に潜水艦の攻撃で大破・沈没して夥しい犠牲者をだした。留萌沖では約3,500名の引揚者を乗せ小樽港に向けて航行中の第二新興丸が8月22日午前5時頃にソ連の潜水艦の発射した魚雷に被弾。浮上した2隻の敵潜水艦の砲撃・銃撃にあがうも第二新興丸は武装が施された「特設砲艦兼敷設艦」で、必死の反撃で最悪の事態を免れ、自力航行が可能だった新興丸は最寄りの留萌港にたどり着いたが、行方不明者と合わせて約400名が犠牲になったとも言われています。昭和37年に日本海と留萌市内が一望出来る「千望台」に「樺太引揚三船殉難者慰霊之碑」が建立されたが、経年劣化による損傷もあって平成7年に「樺太引揚三船殉難平和の碑」として再建された。その後に高齢となった関係者が供養に赴くには不便ということで、平成22年には現在の場所、留萌市海のふるさと館横の高台に移設、再建されている。 ◇事故年:昭和20年8月21日 ◇建立年:平成7年11月15日(移転再建) ◇建立者:樺太引揚三船殉難平和祈念碑建設期成会 ◇所在地:留萌市大町2 ◇Gmap:Gマップ

三船殉難之墓留萌市

三船殉難之墓 三船の中でも留萌市に縁のある第二新興丸犠牲者の慰霊碑で、千望台へ向かう途中にある市営墓地内に建立され、毎年8月22日に慰霊祭が執り行われていると云う。第二新興丸は約3,500名の引揚者を乗せ小樽港に向けて航行中の8月22日午前5時頃、留萌沖でソ連の潜水艦の発射した魚雷を右舷側面の船倉付近に被弾、浮上した2隻の敵潜水艦の砲撃・銃撃にあう。第二新興丸は元々民間の貨物船だったが、海軍に徴発され単装砲や爆雷などで武装が施された「特設砲艦兼敷設艦」であったので、必死に反撃して最悪の事態を免れ、自力航行が可能だった新興丸は最寄りの留萌港にたどり着いたが、行方不明者と合わせて約400名が犠牲になったとも言われています。 ◇事故年:昭和20年8月22日 ◇建立年:昭和49年8月18日 ◇所在地:留萌市沖見町6 市営墓地 

小笠原丸遭難者殉難之碑増毛町

小笠原丸遭難者殉難之碑 小笠原丸(1,404トン)は逓信省所有の電纜敷設船だったが8月20日には女性・子供を中心とした1,500名ほどの避難民を乗せ大泊港を出港し翌日稚内で約900名を下船させた後に小樽港に向けて出港し増毛沖合約10kmに航行中の8月22日午前4時20分頃ソ連軍潜水艦の放った魚雷を被弾し沈没、被弾してから沈没まで数分の時間だったと云い乗船者の殆どは船と運命を共にするが、漂流物につかまっていた数少ない生存者も浮上してきた敵艦の機銃掃射で命をおとしたと云い、船長を含む乗員57名・避難民約580名が犠牲になり生存者はわずか62名でした。また小笠原丸の受難で犠牲になった方の多くの方は不明のままですが、増毛海岸に漂着した亡骸のほとんどが女性や子供で、ここには収容されながらも身元不明となっている20柱の遺骨が納められています。遭難者殉難之碑は増毛市街地から少し山側にある町営墓地に建立された、碑の裏には北海道庁や増毛町の他、建立年に設立された「日本電信電話公社」の名前もある。 ◇事故年:昭和20年8月22日 ◇建立年:昭和25年11月22日  ◇所在地:増毛郡増毛町暑寒沢104 暑寒沢墓地

◇Gmap:Gマップ

小笠原丸殉難之碑増毛町

小笠原丸殉難之碑 8月22日の小笠原丸受難で船長を含む乗員57名・避難民約580名が犠牲になり生存者はわずか62名でした。小笠原丸殉難之碑は小笠原丸遭難者殉難之碑の隣にあり「小笠原丸」の乗員を慰霊した碑で小笠原丸と同じ海底ケーブル敷設作業に従事する電纜敷設艦だった「釣島丸」と「千代田丸」乗員によって昭和25年に建立されました。 ◇事故年:昭和20年8月22日 ◇建立年:昭和25年11月22日  ◇建立者:釣島丸 千代田丸乗員  ◇所在地:増毛郡増毛町暑寒沢104 暑寒沢墓地

日連丸 白雲 遭難平和記念碑厚岸町

日連丸 白雲 遭難平和記念碑 碑正面より「岬に訪れる人よ 我が故郷に告げよ 我らは眠る この海の彼方に 祖国の平和と 残せし人を想いつヽ 我らは眠る 永久にと」碑裏文より「陸軍輸送船日連丸 護衛駆逐艦白雲 遭難平和記念碑」「太平洋戦争最中の昭和19年3月16日午後8時過ぎ、北辺の護りとして千島防衛のため第42師団(仙台編成)を主力とする部隊の船団が厚岸沖を航行中、米国潜水艦の雷撃を受け陸軍輸送船日連丸 護衛駆逐艦 白雲が撃沈せらる。三千余名の将兵軍属、尊き幾多の春秋を残し、家郷を思いつつ極寒流氷の波間にその生涯を喪う。当時、軍機厳しく沈没の地点はもとよりその事実すら秘匿され戦後40年にして漸くこれを知る。厚岸町のご厚意により、遺族、戦友、及び地元有志相集い相計り永遠の平和を願い亡き人々の語りかけんとする想いを込めこれを建つ。昭和六十三年七月二十四日 日連丸・白雲遭難 平和記の碑 建立委員会」※米太平洋艦隊の潜水艦トートグよる雷撃で「日連丸」「白雲」は沈没したが、遭難が確実視されたのは船団が航行を断念し釧路港に引き返してからで、翌朝に現場海域に戻った時に救助された生存者は48名(救出後に2名死)でした。気温2℃・水温4℃の海から生還した人達は軍監視下で「軟禁状態」に置かれ、あらためて得撫行きを命ぜられ再度乗船した輸送船がまた魚雷攻撃で沈没、運良く生き残った人達は敗戦でシベリア送りとなる地獄の連鎖に翻弄された。生存者が希で軍事機密の壁もあり長い間事件の真相は不明であった。哀感岬にも史実説明碑が建立されている。 ◇建立年:昭和63年7月24日 ◇建立者:建立委員会 ◇所在地:厚岸町アイカップ六番地 森林公園  ◇Gmap:Gマップ

大成丸慰霊之碑日高町

大成丸慰霊之碑 大成丸(1948トン)は千島列島最北端占守島で北辺の警備に当っていた。昭和20年4月19日午前0時15分頃、北千島のパラムシル島から沖縄に転戦する旧陸軍の海上機動隊第三旅団の工兵、戦車隊など約1500人を乗せて航行中、厚賀沖約8kmの海上で米潜水艦の魚雷2発を受けて、約4時間後に母国を目前にしながら沈没。その後、救助に当った人やけが人を看護した人たちの意志で、厚賀一致会が中心となり慰霊祭をおこなった。 ◇建立年:昭和60年4月19日  ◇建立者:遺族 関係者  ◇所在地:日高町門別町厚賀 ◇Gmap:Gマップ

東海丸戦没者慰霊之碑寿都町

東海丸戦没者慰霊之碑 碑文より「大東亜戦争の終戦も間近にひかえた昭和20年(1940年)7月15日午前6時35分寿都港外ににおいて、大図汽船株式会社所属の海軍指定船「東海丸」がアメリカ空軍の銃撃を受け軍属船員7名、軍人9名が□烈な戦死を遂げられました。ここに英霊の50回忌を迎えるにあたり謹んでご冥福を祈ります。以下省略」※寿都湾にいた輸送船東海丸がアメリカ海軍のグラマン機に二波の攻撃を受け軍人・軍属船員ら16人が戦死、東海丸は大破し寿都湾に沈められ、犠牲者は一次岡田家煉瓦蔵に収容されたともいう。33回忌に当たる昭和52(1977)年7月7日、遺族や元船長・元船員らを寿都町に招き慰霊祭が執り行われている。火葬場所の跡には「東海丸戦没者慰霊之塔」と書かれた木碑が建立され、火葬場所から掘り出された遺品や遺骨が遺族に手渡された。その後は寿都ライオンズクラブが慰霊祭を挙行していたが、現地の慰霊之塔が老朽化したため平成7年に町内の龍洞院境内に黒御影石の慰霊碑として再建された。慰霊碑には氏名の判明した軍属船員7名、海軍軍人一名の氏名が刻まれているが軍関係の8人は不詳となっており今も身元がわかっていないという。 ◇建立年:平成7年7月 ◇建立者:寿都社会福祉協議会 ◇所在地:寿都郡寿都町新栄町147 龍洞院禅寺  ◇Gmap:Gマップ

駆逐艦応戦展望の地・平和記念塔福島町

駆逐艦応戦展望の地 福島町にある青函(館崎)トンネルメモリアルパークの一角に「駆逐艦 柳 応戦展望の地」と「駆逐艦柳平和記念塔」の石碑がある。詳しいことは不承知なので,駆逐艦柳平和記念塔裏面の碑文を転載。「昭和20年7月14日早朝、月崎沖合約500Mから慕舞(白符3)沖合約800Mの海上で、アメリカの艦載機10数機と日本の駆逐艦柳とのあいだで空も破れるような激しい交戦がありました。そのときアメリカの艦載機が3機落とされました。しかし、柳も艦尾を爆弾でやられ60名の負傷者と21名もの戦死者を出しました。当時の町民は攻撃がまだ続くと予想される恐怖と不安のなかで、負傷者の救援に務め戦死者をだいじに弔いました。また漁船4そうを出して柳の曳航作業にも手助けをしました。そして、その交戦の様子を見聞きしていた人や、日夜救護にあたった人、戦死者を弔いました人、監視所で役務についていた人、柳の曳航に力をかした人など、64名の同志が会を設立し、国を守り町民を守るために勇猛果敢に戦った戦死者の霊を慰め、後世にこの事実を正しく伝え、永遠の平和を願って記念塔を建立することになりました。平成三年四月 建立委員会」※侵略戦争の結果、起こったでき事でしたがそのことについては触れられていない。 ◇建立年:平成三年四月  ◇建立者:建立委員会  ◇所在地:###  ◇Gmap:Gマップ

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