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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道鉱山労働者の殉難・慰霊碑を巡る旅‼

北隆鉱山慰霊之碑雄武町

# 1921(大正10)年5月、雄武内陸部の山林で山火事が発生し広大な森林が焼き尽くされ、その後山に入った山師が焼け跡の山面に露出していた岩石から金を発見、その後の調査により有望な鉱床がある事が確実視され、本州大資本が採掘権を得て1928(昭和3)年頃から現地で採掘が始まり雄武村に「北隆鉱山」が誕生した。産金量は増え続けた昭和9年に軌道敷設、同10年に鉱石輸送から現地処理の製錬所建設など鉱業所設備は拡充され、機械化・自動化が進められるが、唯一のネックは「電力不足」でこれが幌内ダム建設の契機となっている。製錬処理の工程で使用される猛毒の「シアン化ナトリウム」が、処理後の残滓置場や不備な沈殿池から浸出して近くを流れる「音稲府川」へ入り河川や河口域沿岸の魚介類をも死滅させる災害を引き起こしている。鉱山で急増する従業員に向けたインフラ整備で山腹のあちらこちらが開削され、住宅や小学校(分校)、病院などの施設が短期間に整えられていった。坑内の労務災害は優秀で事故で亡くなった方は少なく、最大の犠牲者を出したのは網走管内が未曽有の大雪に見舞われた1939(昭和14)年の2月7日午前11時30分頃に鉱夫住宅裏手で大規模な雪崩が発生し、8世帯集合の長屋住宅1棟が巻き込まれ、未成年者9名を含む14名が犠牲になったこと。鉱山の慰霊碑いえば坑内事故の犠牲者を連想するが、ここでは思いもよらぬ気象災害によってもたらされた災害でした。隆盛を誇った北隆鉱山も昭和14年をピークに産金量が減少傾向になり、戦時体制の元で昭和18年に7金山を残して他の金山とともに休止(金山整備令)され、使える施設や機械類は戦争での必需品だった水銀採掘に使用する為、美深の御車水銀鉱山に運ばれたという。ここで気になるのは放置されたままの不備な沈殿池で記録的な集中豪雨などに襲われれば再び公害が起こるかもしれないということです。慰霊碑の傍に説明板も設置してあったようですが今は見られません。 ◇事故年:昭和14年2月7日  ◇建立年:平成6年10月吉日  ◇建立者:北隆鉱山の碑保存会  ◇建立地:北海道雄武町上雄武  ◇Gmap:Gマップ

北の王鉱山跡史跡説明板 遠軽町

# 北の王鉱山は大正5年に八重の牧場で農夫が開墾中に金塊を発見した事からはじまる。大正7年に「北ノ王鉱山株式会社」が設立され、昭和12年になって帝国産金(川崎財閥)に買収されると索道、水道、製錬所建設、事務所、会館、住宅、学校などの建設ラッシュとなるが、工事には信用人夫の他に多くの通称タコ人夫が使役された。精錬所は一日40屯処理の青化精錬所と別に一挙に500屯処理の精錬所を建築。この540屯の処理能力は鴻之舞鉱山・静狩鉱山につぐ道内第3位の規模という。昭和11年に産金量道内第4位を記録したが、昭和13年をピークに減少し、第2次世界大戦の戦局悪化と政策の転換で昭和18年に閉山。いまは精錬所や分析所建物の基礎部分を残るのみという。北海道開拓殉難者調査報告書には殉難受者13名とあるが、確認された数で有り13名以上とすべきかもしれないが、慰霊碑などはないようです。設置者・設置年は記されていない史跡説明板が設置されているが白滝ジオパークか? ◇所在地:紋別郡遠軽町生田原611  ◇Gmap:Gマップ

鴻之舞鉱山跡碑紋別市

# 正面に「鴻之舞鉱山跡」左側上に「紋別観光十景」左側下は縦二行で「紋別ロータリークラブ二十周記念」「紋別市観光協会」と書かれていたようだが、鴻之舞鉱山以外は読みに自信が無い。住友鴻之舞鉱山の経営は第一次世界大戦の始まってまもなくの大正6年から昭和48年迄で休止期を除くと50年でした。昭和15年には産金量国内第1位になりますが、昭和18年金山整備令によって休山、戦後になって再開され昭和30(1955)年には史上最高の産金量を記録しています。東洋一と云われた金鉱山も資源の枯渇にはどうしようもなく昭和48年に閉山。 鉱山閉山でかつては1万人以上が暮らした町は消え、夏草に蔽われコンクリート製の建造物が一部残るだけの風景に変わっている。※閉山までの総生産量は金が64.7屯、銀が965屯で単独の鉱山としては日本最大です。 ◇建立年:不明  ◇建立者:紋別ロータリークラブ&紋別市観光協会 ◇所在地:紋別市鴻之舞元町  ◇Gmap:Gマップ

鴻之舞鉱山慰霊碑紋別市

# 紋別市街地から南に約30km離れた山あいに「鴻之舞鉱山跡」と「慰霊碑」の碑がある。「碑文 鴻之舞鉱山は大正六年二月以来、住友によって営々と稼業され、長年にわたり東洋一の大金山と謳われて住友の諸事業を力強く支え、国家と地域社会に大きく貢献して来た。鉱量の枯渇という鉱山の宿命には抗し難く、昭和四十八年十月をもって五十六年に及ぶ輝かしい歴史を閉じた。この間、幾多の人々がこの鉱山の維持の維持発展に捧げられたその苦心と努力は決して忘れられてはならない。この度、鴻之舞鉱山において不慮の災害に遭い職に殉じられた方々、ならびにこの鉱山に関係し物故された人達の霊を慰めるためにこの碑を建立する。平成元年七月 住友金属鉱山株式会社 社長 篠崎昭彦」※昭和初期の1930年代は鉱山の拡張が続き、安上がりの労働力として多くのタコ人夫も使役された。政府の金政策は更なる増産の強要で昭和15年には産金量国内第1位になるが、同時に労働災害も急増している。戦争拡大で日本人労働者が徴兵され労働者不足は次第に深刻化、昭和14年年から昭和17年にかけて朝鮮人2727名が連行され、鴻之舞で朝鮮人労働者の比率が最大になった時は坑内約60%、坑外約12%、全体で約40%という。ILOは日本政府に対し強制連行はILO条約違反であり被害者に損害賠償するよう勧告している。政府の金政策が変わり昭和18年の金山整備令により、休山するまでの労災事故死者、病死者等を含む殉難者数は263名で、氏名判明しているのは204名、戦時朝鮮人強制労働調査資料集には鴻之舞で46名の死亡者名がある。氏名不明の殉難者は監禁強制労働で犠牲になった日本人土工夫や連行されてきた朝鮮人も含まれていると思われるも慰霊碑は何も語らず。休山後に資材は軍用に拠出されたり水銀鉱山に転用され、鉱員は軍関係の鉱山などに際配置、朝鮮人は花岡や足尾、別子、八十士鉱山などに送られた。 ◇建立年:平成元年7月  ◇建立者:住友金属鉱山株式会社  ◇所在地:紋別市鴻之舞元町  ◇Gmap:Gマップ

北海道鑛業所 倶知安鑛山記念碑京極町

# 日本で珍しい酸化鉄の大鉱床は明治31年に京極農場の小作人藤村徳治によって発見され、そのご鉱山師朝倉夕満が試掘権を獲得、さらに橋本組を経て、大正5年に三井鉱山の所有となり、本格的な試掘作業が開始されている。この後も間、北海道製鉄、大正8年に日本製鋼所室倶知安鉱務所開設。大正9年に鉱石運搬専用軌道として国鉄胆振線布設された。所有権その後も輪西製鉄所、輪西鉱山と代わり昭和14年に日鉄鉱業へと引き継がれた。第2次大戦中の軍需増大で昭和17(1942)年から3年間は24時間フル操業の体制で、掘削量は年間57万トンから59万トンに達した。 当時の鉱山主婦の会の会長の回想によると「戦時中は増産のため朝鮮から募集して来た労務者と、中国人の捕虜とを3交替で日夜通しの作業でした。朝鮮人寮は社宅区域内に十数ヵ所あり、中国人は社宅外の左沢の奥に大きな収容所があり、規則正しい生活と作業のようでした」とあった。「京極村史」に日本が敗戦になった1945年8月15日現在で13の寮に1,004人の朝鮮人がいたとあり、町史に「町内の寺院に預けられた遺骨を集め共同の慰霊碑を建て丁寧に葬った」とも記され、町営川西墓地に昭和35年8月15日建立の朝鮮人物故者一同ノ墓があるが、犠牲者の名前はなく、死亡者数もはっきりしない。これだけの朝鮮人労働者を動員しても深刻な労働力不足は否めず、次に求めたのが中国人強制連行者だった。  川口組と日鉄北海道鉱業所に連行された中国人は鉱山社宅の外の左沢につくられた中華寮に収容されたが、寒風と一緒に雪が吹き込むような粗末な建物で寝具は毛布1枚という過酷な環境だった。露天掘なので中国人達は主に露天掘現場で鉄鉱石を掘ったり、鉱石を積んだトロッコを押したりする単純作業であったようですが、切羽の崩壊やハッパなどによる事故が多発したという。川口組脇方出張所は青島収容所から連行した297人中26人(船中で1人死亡)の死亡、日鉄北海道鉱業所は塘沽収容所から連行した300人中11人の死亡であわせて37人の死亡者をだした。倶知安鉱山の全中国人死亡者の死亡診断書が病死となっているが、危険と隣り合わせの現場で日本人や朝鮮人の事故死はあるのに、中国人だけに事故死が出なかったのは不可解で診断書が偽装されているとしか思えない。食料に関しては他の連行事業所と比べると若干良さそうではあるが、診断書にある病死の半分は餓死だったのではと疑いたくなる内容であった。死亡者は火葬のあと遺骨は村内の瑞法寺と西寺に保管され、生存者が帰国時に持ち帰ったという。鉱山は昭和44年に閉山となりかつては4000人もの人々が暮らした脇方は僅かに採掘跡や鉄道跡が残るだけで、一般廃棄物の最終処分場だけの無人地帯と化している。学校跡には門柱と碑が残り駅跡は整地され「北海道鑛業所 倶知安鑛山記念碑」がある。 ◇建立年:昭和35年8月15日  ◇建立者:朝鮮人物故者墓石建立期成会  ◇所在地:北海道京極町川西  ◇Gmap:Gマップ

朝鮮人物故者の墓京極町

# 京極村史に日本が敗戦になった1945年8月15日現在で日鉄鉱業倶知安鉱山の13の寮に1,004人の朝鮮人がいたとあり、また町内の寺院に預けられた遺骨を集め共同の慰霊碑を建て丁寧に葬ったとも記され、町営川西墓地に昭和35年8月15日建立の朝鮮人物故者一同ノ墓(墓碑)がある。犠牲者の名前はなく、死亡者数もはっきりしない。朝鮮人だけでも足りずに中国人を連行し37人の死亡者をだしている。危険と隣り合わせの現場で日本人や朝鮮人の事故死はあるのに、中国人は全て病死になっているのは不可解。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:北海道京極町川西###  ◇Gmap:Gマップ

野村鉱業置戸鉱山跡の碑置戸町

# 置戸鉱山はイトムカ鉱山の支山として野村鉱業により開発された鉱山で、北海道金属非金属鉱床総覧より「昭和16年発見、昭和17年野村鉱業が出鉱をはじめ、昭和19年には自山精錬を行なつた。昭和23年一時休山、昭和32年再開、昭和37年再び休山、昭和40年再開予定。生産実績に昭和17~21年 粗鉱量2,653t 品位Hg 1.81% 含有量47,970kg、昭和22~37年 粗鉱量10,713t 品位Hg 0.38% 含有量40,569kg(※旧山期間を含むので22年は32年の誤植か)。現権者:野村鉱業株式会社」置戸町史によると「選鉱所は完成したが26年に使うことなく取り壊した」とあり昭和40年の再開はなかった。昭和25年に選鉱所が無くなったことから昭和32年の再開時よりイトムカに送鉱していたと思われるが確たる根拠はありません。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:### 

野村興産イトムカ鉱業所選鉱場産業史跡 旧留辺蘂町

# 説明板より「選鉱場の概要 完成 昭和19年10月 操業期間 昭和20年8月~昭和45年7月 構造 木造トタン葺 屋根の長さ135.40m 建屋面積 13階 3960㎡(1.200坪)昭和14年4月に本鉱山の開発が着手され、翌15年に社名が野村鉱業(株)となり爾来、イトムカ鉱業所は戦中戦後期の国内水銀生産の殆どを占め、かつては処理能力、生産量に於いて、東洋一の規模を誇ったのである。ここ大町地区は、当時、社宅、寮等が立ち並び、診療所のほか、学校、郵便局、公民館など公共施設が整備され、一大集落が形成されて繁栄を極めたのであるが、時代の変革と共に昭和48年閉山によってその灯が消えるに至ったのである。ここに本町並びに、わが国の産業振興発展に寄与した業績を讃えると共に、現存する巨大木造建築物の「選鉱場」を産業史跡として保存し、後世に伝えるものである。昭和56年9月 留辺蘂町長坂本悟朗」※昭和48年に12月イトムカ興産株式会社が設立され翌年に野村鉱業株式会社よりイトムカ鉱業所の一切が買収され、水銀含有廃棄物の処理を中心に廃棄物処理事業を開始、昭和50年2月に野村興産株式会社と者名がかわっている。選鉱場は野村興産(株)の敷地内に有り見学は許可が必要です。 ◇所在地:北見市留辺蘂町富士見  ◇Gmap:Gマップ

イトムカ鉱山発祥之地碑旧留辺蘂町

# 碑文「昭和11年北海道を襲った大暴風雨は、大雪山系の原生林に多大の損害をもたらしたが偶然にもこの時、風倒木の搬出作業者によって美くしい真紅の重い石が発見された。この石が水銀であった。関西の実業家、野村徳七の創業になる野村鉱業株式会社が発見された地名イトムカ伝説によればアイヌ語の「光り輝く水」の意に因んでイトムカ鉱山と名付け開発に着手したのは昭和13年春のことである。爾来30有余年イトムカ鉱山は東洋一の水銀鉱山として世界にも知られ、わが国産業の発展に多大の貢献をなした。当時この地には、350余戸の社宅群を中心に小中学校、病院、各官公署等がおかれ、その名も「大町」と呼ばれて栄えた。しかしながら内外の経済事情から、ついに昭和48年鉱山はその使命を終えて閉山した。この碑はかつてはこの地に生活を共にした鉱山従業員と関係者一同の芳志によって深い懐旧の思いを永遠に留めんことを願って建立されたものである。」※説明板より転載「碑の形状について 石碑の形状は主柱に両翼を配し3本の柱としイトムカ鉱山のマークを模したもので夫々の柱は本山、大町、留辺蘂の3事業所を、また鉱山の周辺に屹立して馴染みの深い3連峰の武華岳、武利岳、三国山を象徴したもので、両翼の朱色は、往時盛んに採掘された深紅の水銀鉱(辰砂)を、柱は流れ産出された、輝きの水銀を現したものである。昭和53年107日」※国道39号線沿いにイトムカ発祥の地碑や恵泉小学校跡、前身恵泉中学校跡の碑が広いパーキングの一角にある。イトムカ鉱業所は主要鉱石が自然水銀で鉱山最盛期は年間200屯の水銀を生産し人口5000人を超え「大町」と呼ばれていた。採鉱現場は大町地区から約8kmほど離れた地区で本山(元山)団地と呼ばれた。戦後しばらくは休業していたが1950年頃から再開、1970年頃まで採掘していたが、海外産鉱石との競争や水銀需要の減少で閉山。その後は別会社となり含水銀廃棄物の処理を行うリサイクル事業へと転換、完結型のリサイクル施設として操業を続けているが最終廃棄物は埋立に頼っている。留辺蘂町の歴史では囚人酷使、監獄部屋、強制連行などを避けて通れないが、イトムカ水銀鉱山もその中に名を連ね、強制連行されてきた中国人や朝鮮人の数は1090人にも及ぶともいう。 ◇建立年:昭和53年10月7日  ◇建立者:鉱山関係者  ◇所在地:北見市留辺蘂町富士見  ◇Gmap:Gマップ

イトムカの水神碑旧留辺蘂町

# イトムカ鉱山は野村鉱業によって昭和14年から開発が進められ、昭和19年には190トンの水銀を産出、野村鉱業直轄以外に地崎組、土屋組が下請けとして入っていた。朝鮮人は昭和16年~昭和19年までの間に1020人が連行されているが、地崎組と土屋組への連行数は不明で実数は1020人を上回るとされ、中国人は地崎組に2次に渡って585人が連行され土屋組には300人が連行、両事業所で29人が亡くなっている。また地崎組は日本人タコ労働者もいて採鉱にあたっていたというが、朝鮮人を収容したタコ部屋もあった。北海道開拓殉難者調査報告によると殉難者は158人で氏名が判明しているのは145人、これには埋火葬認可証で確認出来た移動中の死亡者7人を含む97人もはいっている。強制連行で亡くなった中国人や朝鮮人の慰霊碑はなく、現在は有志が地崎組が造成した沈殿池(ダム)跡傍にある水神碑前で慰霊祭を挙行しているが、慰霊碑建立にも取り組んでいる。古代の朱砂の産地では水銀が採りつくされると水銀の神である事が忘れられ、水神や雨乞いの神神へと変貌をとげたと云い複雑な流れがあるようだ。今は水難などの厄除けや慰霊、灌漑・雨乞い等の役割を担うが、竜神に変わられる事もあるようだ。また戦前の鉄道や灌漑完成の記念碑や成功記念碑などは慰霊碑の意味もあるとされているが、水神のもその範疇に入ると思われる。 ◇建立年:昭和19年頃  ◇建立者:地崎組?  ◇所在地:北見市留辺蘂町富士見(旧沈殿池付近) ◇Gmap:Gマップ

水神・水神碑

古代の朱砂の産地では丹生系の地名や丹生神社として残っている。丹生神社には水銀の女神であるとされる丹生津姫が奉祀られているが、水銀が採りつくされてしまうと水銀の神であることが忘れられ、水神や雨乞いの神である罔象女(みずはのめ)や龗(おかみ)系統の神へと変貌をとげることもあった。金の産出量の多い北上川の流域に祀られる「瀬織津姫」の性格に水や水銀に加えて精錬と相まって金の要素が感じられるともいう。北上川流域で行われていた金の精錬事業が廃れると「瀬織津姫」の神名も歴史から消え、金神としての属性も伏され水神の役割のみを担うようになったものか?。丹生都姫(にゅうつひめ)を奉祀る神社は「辰砂」を多く産出する和歌山県や奈良県に多いとされるが、「丹生」という言葉から「辰砂」、つまり水銀の女神としての性格が読み取れれるが、この女神もある時期から水銀より水神へと歴史の中でその役割を変えていったようです。水銀が採れる奈良~和歌山一帯には「丹生都姫」、金が採れる北上川流域には「瀬織津姫」を祀る神社があり古の女神達が担った役割が浮かび上がってくる。

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