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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道の漁業に関連する記念碑・海難碑・慰霊碑を巡る‼

海難者慰霊碑稚内市

海難者慰霊碑 ノシャップ岬沖で戦後の海難事故に限定し管理人の知る範囲で昭和年代には10件、死亡者50人以上、行方不明 30人以上(実際はもっとある)、平成年代の海難事故は6件、死者8名、行方不 が9名で、それに抜海、声問、宗谷(大岬)など稚内近海とベーリング海での海難事故を加えるとその数は更に増えます。ノシャップ沖は海難や座礁が多い海域ですが、船舶の衝突などもある難所となっている。宗谷岬事故は海難事故は多いようで岬は危険な海域といえる。他に港内に入る時に横波を受けたり防波堤に衝突したなどの事故もあった。漁期との関係では春先の鰊魚シーズンと晩秋から初冬のイカ釣漁船とカレイ刺し網漁が多いのが目についた。風の強い稚内ですが鰊魚のシーズンは突風が吹き荒れる事も多く、天候の急変に対応できなかった事が災害の遠因となったようです。海難者慰霊碑は稚内霊園の一角にあります。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ 稚内霊園  ◇Gmap:Gマップ

海難物故者追悼の碑豊富町

海難物故者追悼の碑 天塩や稚内、離島では海難の記録がネットで調べても簡単に見つかるが、豊富町に関しては殆ど見当たらない。ただ海難による犠牲者がないのに者追悼を建立する訳はないのでニュースにならない海難事故は起きていたのでしょう。詳しくは豊富町史を調べて改めて書き直したいとおもいますが、それまではこのままで。追悼碑は稚咲内漁港より天塩側に続く海岸の原生花園の中にひっそりと立っている。平成21年8月に漁船ではないが作業船引き船第八坂本丸が稚咲内漁港内での作業施中に転覆し作業員1がなくなっている。 ◇建立年:平成2年8月  ◇建立者:豊富町漁業協同組合員一同  ◇所在地:豊富町若咲内・若咲内海岸  ◇Gmap:Gマップ

天売島周辺海域 海難遭難者慰霊之碑羽幌町 天売島

海難遭難者慰霊之碑 大型の海難・遭難事故が全道各地に多く発生していたのは、まだ帆船の時代で港湾も自然の入江を利用した簡単なものや袋間程度のもので、天候予知も漁師の感頼りの頃でに、日本海では鰊と鱈釣りの季節に多いという印象がある。天売島海域で大規模な海難・遭難事故と云えば明治35年と41年の2度、明治35年4月30日は鰊魚期であり、現在の天売港付近で仮泊中に暴風にあい60余隻が転覆転し220余人が死亡するとい う遭難事故、亡くなられた方の多くは秋田県からの出様漁民という。明治41年3月11日は出漁中のたらつり漁船54隻が遭難し217名が亡くなっている。このタイプの遭難は船舶の動力化と袋間や港湾の整備拡充で減少したが、やはり気象の急変による遭難はあるようですが、近年は船同士の衝突事故が多いという。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:未確認  ◇Gmap:Gマップ

鰊刺網大時化遭難之碑岩内町

鰊刺網大時化遭難之碑 碑文より「明治45年5月4日朝、鰊刺網漁に出漁沖揚中の大小の漁船150余隻は岩内山から吹下す凄まじい東南風に煽られ、乗組員136名の生命を失う大惨事となる。本町漁業の礎となった諸霊を偲びその冥福を祈って建之。昭和55年9月 一善会会長 石山栄作」※岩内沖での遭難は碑文に書かれているより多いのだが、この範囲より狭い地域での遭難を慰霊したものと解した。碑を建立した石山栄作氏は19才の時にこの大時化で父親とともに遭難し九死に一生を得たというが、このことが心を常に離れず米寿を迎えた時に建立したのでした。鰊魚で漁民に何よりも恐れられたのは、この季節に多い天候の急変でした。◇建立年:昭和55年9月 ◇建立者:石山栄作 ◇所在地:岩内郡岩内町御崎 御崎公園 ◇G.Map:Gマップ

海難慰霊観音余市町

海難慰霊観音 大正6年1月24日午前10時頃、朝は穏やかな日和だったのが天候が急変して猛吹雪に変わり、朝7時頃からカレイ刺し網漁に出かけた豊浜町の漁民41名、余市町全体では72名の犠牲者を出すという惨事となり、犠牲者の41人海難供養碑が豊浜町の墓地内に建立されたが風化で文字は完全に消えている。昭和44年に豊浜町の有志が同年の事故とその前後に発生した水難事故の犠牲者を追悼する海難者慰霊聖観音像をソーラン節発祥之地の近くに建立している。観音蔵は古くは明治44年から昭和41年までにあった海難事故犠牲者を慰霊するものだといい、聖観音像横に御堂が建立されていた。。◇建立年:昭和44年 ◇建立者:豊浜部會一同 ◊所在地:余市郡余市町豊浜町 ◇G.Maps:Gマップ

海難慰霊碑枝幸町

海難慰霊碑 オホーツク海で犠牲になった人々の慰霊とその功績を後世に残すため水産関係者の努力で建立された。碑文より「明治開拓の往時より枝幸町の漁業開発のためオホーツクの荒波に身を託し幾多の辛酸を経て今日の漁業の発展のために努力されました。□□の中に不慮の難に遭い尊い犠牲となられた各位の霊に謹んでご冥福を申し上げます。私どもはかねてよりこれら先輩各位の偉大な功績とそのご苦労に対して心からなる畏敬の念おさしがたく永く後世に伝うべくこのたび慰霊碑を建立した次第であります。」※慰霊碑は高さ2m、横3m、幅2mの稲田花崗岩で明治開拓以来の海難殉職者131柱が祀られ、毎年8月11日に慰霊祭が催されている。碑建立後の平成19年5月に漁船の転覆があり1名がなくなっています。 ◇建立年:昭和48年8月16日 ◇設置者:枝幸町 ◇所在地:北海道枝幸町岬町 ウスタイベキャンプ場  ◇Gmap:Gマップ

海難殉職者慰霊碑紋別市

海難殉職者慰霊碑 碑文より「海難殉職者慰霊碑 町村金吾書」「紋別の開発は漁業に始まり漁業の発展と共に今日の輝かしい躍進を遂げてきた。併しながらこの漁業に身を挺し痛ましくも海難にあい職に殉じた犠牲者は開基以来二百余名にも及ぶ。遙かに幽明を隔て、諸士が不滅の遺功を偲ぶとき、追憶しきりに去来して詢に痛恨きわまない。仍って有志相計り霊魂長之に安かれと念じ諸士が縁り深きオホーツク海を瞰下に霽かす丘陵に慰霊の碑を建立する。昭和四十年七月 設計施工者は省略」※大正11年の暴風雨による大規模な漁船の海難事故をはじめ、色々な事故で亡くなられた方を慰霊する碑は紋別公園内にあります。近くに港湾殉職者慰霊碑があり、その先に1960年に設置された赤と白の紋別灯台が見える。展望台の開館時間は8時45分~17時30分迄。 ◇建立年:昭和40年7月 ◇建立者:紋別市 ◇建立地:紋別市花園町8丁目1  ◇Gmap:Gマップ

港湾殉職者慰霊碑紋別市

港湾殉職者慰霊碑 市街中心部の高台にある紋別公園の入口正面にテトラポット台座にした例を見ない港湾殉職者慰霊碑。碑文正面・裏面とも「港湾殉職者慰霊碑」と刻まれ、裏面に「昭和四十四年六月 建立 紋別市長 宮尾貫市 殉職者氏名(注・氏名省略12名省略) 株式会社西村組 紋別事業所 従業員一同施行」※紋別発展を支えた港湾整備の陰に尊い犠牲がありました。大正11年に暴風雨による大きな犠牲をだした海難事故があり、その翌年から本格的な港湾建設が始まり昭和5年度に完成、その後も拡張工事が続けられ現在に至っている。西村組も港湾整備に携わった業者であり関係者が殉職されたのだと解釈した。港湾工事が始まった年代からして、強制労働による犠牲者もいたのではとこちらも気きなります。 ◇建立年:昭和44年6月 ◇建立者:紋別市 ◇建立地:紋別市花園町8丁目2  ◇Gmap:Gマップ

海難者慰霊碑旧常呂町

海難者慰霊碑 弁天の高台の眺望のよい場所に建立されている。昭和29(1954)年9月の青函連絡船の海難事故に遡ること4ヶ月半前、5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた爆弾低気圧は道内でも甚大な被害な被害を引き起こしたが、この低気圧はオホーツク海に抜け翌10日未明から急激に西の風が強まり瞬間風速31.7mを記録した。知床半島沖に出漁していた常呂漁業協同組合所属の小型漁船は、避難する間もなく多数沈没し、死者・行方不明21名という殉難者をだした。道東全体では太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われている。碑は昭和29(1954)年の爆弾低気圧による被災者の霊を慰めるため、38年11月に常呂漁業協同組合が建立した。 ◇建立年:昭和38年11月 ◇建立者:常呂漁業協同組合 ◇建立地:北見市常呂町常呂  ◇Gmap:Gマップ

海難物故者供養塔網走市

準備中 碑文より「網走の漁業は遠く文化年間約百六拾有余年の往時に端を開き管内産業興隆の緒となり今日の画期的な漁業に躍進し当地他経済事業の最も重要な一翼を担っている。然し乍らこの目覚しい漁業発展の陰には海難により尊い犠牲となった幾多の先人が礎となっていることは実に痛恨の極みでその限りない功績は燦として永遠に不滅の光彩を放つものである。今茲に我ら漁民相集い個人の遺績に想いを致し在夫の精霊永に安らかならんことを記念して感謝の誠を捧げるものである。昭和四十一年九月建立 網走漁業協同組合 北海道知事 町村金吾書」※道東では昭和29(1954)年5月の爆弾低気圧により道東海域で約400名が殉難したという海難事故があるが、網走は船舶の動力化が早かった事もあり、大正11年9月のホタテ漁船300隻の遭難を出した海難事故が史上空前だったようです。その時の遭難水死者は76人とも云うが実際はそれ以上の犠牲者があったという。 ◇建立年:昭和41年9月  ◇建立者:網走漁業協同組合  ◇所在地:網走市桂町2丁目1−1(網走神社境内) 

海難慰霊碑羅臼町

準備中 昭和29(1954)年5月9日から10日にかけて北海道を通り抜けた爆弾低気圧は道内でも甚大な被害な被害を引き起こしたが、この低気圧はオホーツク海に抜け翌10日未明から急激に西の風が強まり瞬間風速31.7mを記録した。道東全体では太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われている。羅臼では暴風雪で5月10日に通過、死亡者7名、行方不明33名、船舶の損壊82隻、多くの家屋が倒壊するという甚大な被害をだした。その5年後の昭和34年4月6日に発生した突風災害では死亡者4名、行方不明96名、船舶の損壊70隻、住宅の被害も甚大だった。この二つの災害だけで130名の殉難者にのぼる。昭和35年10月に羅臼漁業協同組合が国後島が一望できる共栄町の小高い丘に慰霊碑を建立しています。 ◇建立年:昭和35年10月  ◇建立者:羅臼町  ◇所在地:目梨郡羅臼町共栄町  ◇Gmap:Gマップ

根室女工節の碑根室市

根室女工節の碑 説明碑碑文より「この地方の民謡として 歌い継がれてきた根室女工節は 古くから根室や北方四島にある缶詰工場の隆盛を支える大きな力となった女工さん達が 遠く故郷を離れて出稼ぎし 幾夜もいつ果てるともしれぬ過酷な作業に耐えながらお互いを励ましあい 生産のよろこびや つのる故郷への切々な思いを口ずさんだ歌詞であり 哀愁漂う調べは深く人々の胸を打つものがあります 女工さん達の筆舌に尽くせない労苦と功績を讃え この唄を後世に伝承する思いを込めて この歌碑を建立するものであります」※女工節にはいろいろな歌詞がありそのなかの一つに「缶詰工場に二度来る子は 親のない子か まま母育ち 親のない子は泣き泣きかせぐ アラ 監獄部屋より まだつらい」など女工節の歌詞には過酷な労働環境や悪徳周旋屋の暗躍が垣間見えるのもあり、言い換えるならこれは北の女工哀史、手動の押しボタンスイッチで根室女工節が流れます。参考文献として合田一道著「流氷の海に女工節が聴える」をあげておきます。 ◇建立年:平成17年10月2日  ◇建立者:根室女工節歌碑建立の会  ◇所在地:根室市清隆町3丁目 ときわ台公園  ◇Gmap:Gマップ

海上遭難者之碑根室市

海上遭難者之碑 昭和29(1954)年9月の洞爺丸台風で起きた青函連絡船の海難事故は世界の海難史上でも有名ですが、道東では4ヶ月半前の5月10日にかけて通過した低気圧で道東地域を中心に壊滅的な被害を引き起こした。この低気圧による最終的な被害は海難事故として太平洋上のサケ・マス漁船だけで沈没・消息不明合わせて38隻、死亡・行方不明者323名、知床沖などの遭難を加えると約400名が殉難したと言われているが、根室地方では191名の犠牲者という。被害を大きくした要員は、排水量10トン級の小型船舶で各々独自に遠くは200マイルまで出漁し、かつ無線やラジオなどを装備していない旧式船が約6割を占めていた事で天候の急変が伝わらなかった事などがありそう。合同葬儀が花咲小学校で行われ翌年に慰霊碑が建立された。またこの災害で漁船の近代化が図られていくことになります。 ◇海難年:昭和29年 5月10日  ◇建立年:昭和30年 5月10日  ◇建立者:歯舞・根室漁業組合他  ◇所在地:根室市琴平町1 金刀比羅神社境内 ◇Gmap:Gマップ

海難者慰霊の碑浜中町

海難者慰霊の碑 浜中町の開基百年を記念して近海で遭難し、亡くなった方々の慰霊のために建立された。碑前面には「海難者慰霊の碑 浜中町長 喜島賢吾 書」裏面に「わがまちの基幹産業である漁業は郷土草創の頃より長い変遷を刻んで発展を続けていますがこの間多くの海難犠牲の事実も忘れてはなりません。本年町の開基百年をを記念するにあたり浜中 散布両漁業協同組合及び霧多布市街 小川洪平氏の拠金を中心にこの碑が建てられました。昭和五十三年八月 浜中町」とある。毎年8月に仏教会が主催して、関係者が集まり慰霊祭が執り行われているようですが、併せて魚族供養も行っているという。各地域に開基百年を記念した開拓記念碑などが見られます。 ◇建立年:昭和53年8月  ◇建立者:浜中漁業協同組合 散布漁業協同組合 小川洪平 他  ◇所在地:厚岸郡浜中町 湯沸墓地  ◇Gmap:Gマップ

海難物故者供養塔釧路町

海難物故者供養塔 西暦2006年=平成18(2006)年の大時化で漁船転覆や漁業被害が記録されているが大規模な海難記録はみあたらなかった。大きな岬なので潮流変化や風向の急変や強風などがつきもので昔も今も危険な海域であることに変わりはないが、古くは岬の厚岸側に多くの漁期番屋がありニシン漁で賑わっていたというので、帆船の時代は際だった難所でもあり記録に出てこない海難事故はあったのか。戦後の昭和29年と昭和34年の暴風雨では道東全域に甚大な被害をもたらしたがここでも同様だったとおもわれます。シレパ岬の車止めの近くに馬頭観世音がありそこから約20分ほど歩き岬先端部に向かって下る少し前の左側に海難物故者供養塔があり、さらに進むと伝説の帆掛岩が見える。天気が良ければ厚岸湾口に浮かぶ大黒島などがよく見える。再訪予定です。 ◇建立年:未確認  ◇建立者:未確認  ◇所在地:釧路郡釧路町仙鳳趾村 尻羽岬  ◇Gmap:Gマップ

遭難漁者供養塔釧路市

準備中 戦前の海難事故は戦争による海難を別にすると急変する天候に対応出来ずに起きた海難事故が大半でした。釧路地方の大きな海難事故では大正2年の暴風雨で釧路沖で創業中のマグロ漁船18隻が沈没し63名が溺死した悲惨な海難事故がありました。当時のマグロ流し網漁は手漕ぎと帆で走る川崎船という小型船で嵐を避けて帰港中に沈没したものです。釧路に上陸しなかったので氏名がわからなかったと伝えられているが確かなことは不明。遭難漁者供養塔はこの事故の2年後に建立されていますが、碑文は風化で殆ど判読できない。昭和19年は釧路沖で日連丸が米潜水艦に撃沈され約2,800人が死亡しているが、昭和19年から20年にかけては軍や民間を問わず潜水艦に撃沈される事故が多かった。参考文献・釧路碑文手帳 Ⅰ ◇建立年:大正4年12月  ◇建立者:未確認  ◇所在地:釧路市紫雲台 紫雲台墓地 東区

釧路港遭難溺死者供養塔釧路市

準備中 釧路地方の大きな海難事故を拾ってみると大正2年の暴風雨で釧路沖でマグロ漁船18隻が沈没し63名が溺死。大正5年4月29日の暴風雨で枕木積み取り作業を終えて帰港中の通船が港内入口で沈没、16名は救助されたが行方不明、溺死者11名をだした。大正2年と同様で帆を下ろすまもなく転覆に至ったようです。供養塔の建立は大正5年秋のようです。台座に犠牲者の氏名が刻まれているが、風化で読めない部分が多い。戦後の昭和29年に発生した暴風では釧路の鮭鱒流網漁船3隻が沈没し33人が亡くなっています。この事故があって次第に漁船の動力化とラジオ搭載が進んでいくようです。参考文献・釧路碑文手帳 Ⅰ ◇建立年:大正5年秋頃  ◇建立者:未確認  ◇所在地:釧路市紫雲台 紫雲台墓地東区

海難碑・海難慰霊碑広尾町

海難碑 昭和で大きな海難といえば昭和36年広尾港を出港した刺し網漁船、第18雲浦丸が襟裳岬東南35km付近でバラバラとなった船体の破片が発見され他の船と衝突して沈没したものと思われる事故。最近の北海道ではおよそ100件を超える海難事故が起きているがその中で約3割が衝突がらみのようで、昔のような天候の急変に対応できずに遭難というのは少ない。近年も年3件前後で船舶海難事故は発生しているようですが傾向は同じようですが、新聞報道されるような大型の海難事故は起きていないようです。写真の海難碑とならんで昭和47年11月、高松茂芳氏が建立された横型の海難慰霊碑があり、難殉難者9名の氏名と年齢が刻まれている。慰霊碑の両脇に不動尊と延命地蔵が安置され霊場となっている印象。 ◇建立年:昭和27年5月  ◇建立者:広尾漁業者有志  ◇所在地:広尾町フンベ  ◇Gmap:Gマップ

一石一字塔えりも町

一石一字塔 説明板によると海難者の追善供養であるが、安全な航海ができるようにとの願いもこめられている。碑は大正12(1923)年から数度地元青年団員によって、庶野よりの地(キスケ川の河口付近)から昭和31年に現在地に移されたが礎石経などは確認されていない。建立時に様似会所と幌泉場所支配人等が協力して等樹院住職に依頼して法要を執り行ったとされ、航海の無事と蝦夷地に暮らす和人の拠り所とした。また蝦夷地を幕府が直接管理(直轄)するようになり、アイヌ民族の同化策として寺院を建立し、法力を示すことでアイヌ民族を統制することも寺院に課せられた役割のひとつであった。碑の素材は岡山県産の花崗岩で高さ約150cm、長文の説明板も設置されているが割愛。 ◇建立年文化3(1806)年  ◇建立者:詳細不詳  ◇所在地:幌泉郡えりも町庶野 悲恋沼  ◇Gmap:Gマップ

豊国丸殉難者追悼碑えりも町

豊国丸殉難者追悼碑 碑表刻文「豊国丸 殉難者追悼碑 海軍中将正四位勲二等功五級四竃考輔 書」由来「昭和4(1929)年4月22日、午前6時函館港を出港した函館市長長谷川藤三郎所有、柿野紹介扱い汽船「豊国丸(ほうこくまる)」(2,343トン、高井甚三船長以下33名)が、函館市西浜町28番地株式会社八木本店の漁夫176人を乗せて、カムチャッカ東海岸アナッターチャーへ向け航行中、襟裳岬にて座礁し沈没。78名が死亡され追悼碑が建立された。平成3年2月の嵐で根元から倒壊したが台座を修復し再建している。裏面の刻文は風化が進んでいて殆ど読めません。 ◇建立年:昭和10年 ◇再建年:平成3年? ◇建立者:未確認 ◇所在地:襟裳岬 

林重右衛門墓碑苫小牧市

林重右衛門墓碑 江戸時代から明治にかけ勇払から白老に至る一帯は樽前浜と呼ばれ、5~6月頃からマイワシを地曳網で獲るイワシ漁が盛んでイワシは〆粕(しめかす) に加工されていまた。当時は樽前浜一帯の殆どが場所請負人の請負場所で漁場の多くは東北などからの出稼人達に支えられていた。出稼人達は漁獲の二割を請負人に支払い、八割が自分たちの取り分となる仕組みで俗に「二八取り」とも呼ばれた。この時期は樽前浜のイワシ漁業が大規模漁業として確立した時期とされ、林家は南部易国澗で漁業を営む網元で、天保2(1831)年、酉松(とりまつ) と名乗った5代目が重右衛門(じゅうえもん) も毎年、樽前浜にやって来て大勢の漁夫を指揮してイワシ漁業を行っていたが、襲名から7年後の天保8(1837)年に、39歳の若さで重右衛門は樽前浜で病死しました。墓碑に林家の|三(みつひき)の屋号があり、箱館の場所請負人、井筒屋大橋久右衛門 が、林重右衛門の霊を弔うため建立したものと考えられている。弘化2(1845)年にこの地を訪れた松浦武四郎は 『初航蝦夷日誌』の中に「豊漁期にはアイヌの使役もあって樽前浜は商人の出店や茶屋も建つほどの盛況を極め、その繁栄は東部第一なり。」と記している。昭和54年7月4日に苫小牧市指定有形文化財となっています。 ◇管理者:苫小牧市教育委員会  ◇所在地:苫小牧市字錦岡238番地1  ◇Gmap:Gマップ

海難殉職者慰霊碑登別市

海難殉職者慰霊碑 以前に古い写真で見た時は巻上機のある海際にあった思うが、漁霊碑と並んでいたような記憶があるが、初めて現地で見た時は漁霊碑だけが海際にあり、平成29年に立ち寄った時は富浦神社敷地内に弔魂碑、海難殉職者慰霊碑、魚霊費と並んで立っていた。登別市の古い広報によると、魚族の霊を慰めるために富浦町の漁民たちが中心となって寄付を募り富浦漁港の船巻き揚げ場に魚霊費に建立したというのが、今回は漁霊碑そのものが更新され「魚霊碑/登別市長 小笠原春一書」と新しくなっている。昭和50年代遺構で記録に残るような大型海難事故機はないようですが、過去の海難殉職者すべてを慰霊するために建立したものと解釈した。 ◇建立年:昭和61年8月(海難殉職者慰霊碑)   ◇建立年:昭和41年8月3日 (魚霊費)  ◇再建年:平成20年以降? (魚霊費)  ◇建立者:登別漁業協同組合 ?  ◇所在地:登別市富浦町2丁目 富浦神社境内  ◇Gmap:Gマップ

水難者慰霊碑白老町

水難者慰霊碑 いぶり中央漁協の白老地区水難者慰霊碑は45柱が祭られている。昭和5(1930)年8月12日、山田三蔵(49歳)が子息ほか11名で電気着火式機関を取り付けた川崎船でイカ釣りに沖へ出航。急な時化に遭い転覆、全員不明。昭和15(1940)年4月12日、須貝作次郎所有の第13松島丸は船長ほか6人を乗せてメヌケ延縄漁に出漁。就寝中一酸化炭素中毒により須貝留治(18歳)ら18歳から55歳の乗組員6人が死亡。昭和30(1955)年7月21日、中部サケマス流網漁のため弥栄丸に乗船、千島オンネコタン島沖で操業中浸水沈没。渡辺富蔵(33歳)ら19歳から33歳までの乗組員10人全員が不明というが、これ以降については記録に残るような大型海難事故は起きていないものとおもわれる。並んで昭和8年10月10日建立の漁霊供養碑が建っている。 ◇建立年:昭和22年8月20日  ◇建立者:白老漁業会  ◇所在地:白老町字石山 汐音広場  ◇Gmap:Gマップ

築港殉職碑室蘭市

築港殉職碑 大正7年(1918)着工の南・北防波堤工事(昭和2年に終了)では殉職者13人、昭和33年(1958)着工の外防波堤工事(昭和39年に終了)では殉職者12人と、25人もの尊い犠牲者を出しています。室蘭の発展とともにあった港を築く際に殉職した方々の慰霊のため、昭和42(1967)年、室蘭港湾建設事務所が同所の裏に犠牲者25人の名を記した「殉職碑」を建立しました。ただ大正7年から昭和2年までの防波堤工事で殉職者13人というのは信じがたい。理由は小樽の港湾工事、ここでは大勢のタコ労働者が動員されていたが、室蘭も同じではなかったのかと? ◇建立年:昭和42年 ◇建立者:室蘭港湾建設事務所? ◇所在地:室蘭市祝津町1丁目1 室蘭港湾事務所横  ◇Gmap:Gマップ

海難慰霊碑森町砂原村

海難慰霊碑 碑前面「砂原村 海難慰霊碑 北海道知事町村金吾書」とある。離れた位置から見ただけなので背面は見ていず碑文の有無も確認していないが、砂原村とあり町制施行した昭和45年以前に建立された事だけはわかる。海難慰霊碑が有るということは旧砂原村の漁家もその洗礼を受けたということ、記録を調べてみたが具体的なことはわからず、ただこの辺の海域では恵山付近での遭難記事が一番多かった。 ◇建立年:昭和45年以前nbsp; ◇建立者:旧砂原村?  ◇所在地:森町字砂原  ◇Gmap:Gマップ

海難供養塔鹿部町

海難供養塔 昭和43年8月建立の海難慰霊塔が鹿部公園に隣接するパーキングエリアの一角にある。海難に関する碑文は刻まれていないが昭和42年は北海道での海難事故が425件とあり鹿部でも海難事故があったのかもしれない。鹿部町の海難殉職者は大正年間から昭和44年まで判明しているだけで73名(戦没者は除く)というので、明治にまで遡れば100名は超えているものと思われる。海難供養塔と横並びに平成3年の建立の魚族供養塔がある。公園内の一角には珍しいミンクの供養塔があった。 ◇建立年:昭和43年8月  ◇建立者:鹿部漁業協同組合  ◇所在地:鹿部町鹿部  ◇Gmap:Gマップ

海難供養塔函館市(旧椴法華村)

海難供養塔 かつては箱館六ヶ場所の一つ、尾札部場所の鱈漁場として栄え鱈やイカでは屈指の好漁場でした。好漁場故集まる漁船も多く加えて津軽海峡に面しているので通過する汽船も多いことから海難事故は多かったようですが、恵山沖などは船の墓場と思えるほど座礁、衝突、沈没なとの海難事故が多いという印象がある。ただ小型漁船にとって恐ろしいのは突然吹き出す強風、動力が風任せの帆船の時代は特に恐れられていました。ヒカタの強風と爆弾低気圧の暴風は多くの海難事故を引き起こしています。戦後になってから海難供養塔が設置された昭和44年までの間だけでも40件以上の海難事故が記録されているようです。椴法華村は平成16年12月1日に戸井町、恵山町、南茅部町とともに函館市に編入合併しています。 ◇建立年:昭和44年10月4日  ◇建立者:椴法華村漁業協同組合  ◇所在地:函館市元村町67 乱塔の沢  ◇Gmap:Gマップ

海難碑函館市(旧戸井町)

海難碑 海難事故は恵山沖や汐首岬沖などにおおいようですが、海難費の建立された頃を見ると昭和26年から28年にかけて30件近い海難事故が起きている。海難事故の多くは20トン未満の漁船が圧倒的ですが、小型船で最も恐ろしいのは突然に吹き出すヒカタの強風という。10年後の昭和38年1月にヒカタの強風で13人の犠牲をだしている。この時の慰霊碑は釜谷漁港附近と戸井漁港附近にたてられたというが現地で発見できなかった。写真の慰霊碑は昭和28年建立された釜谷漁港横にある慰霊碑。戸井町は平成16年12月1日に椴法華村、恵山町、南茅部町とともに函館市に編入合併しています。 ◇建立年:昭和28年6月16日  ◇建立者:遺族一同  ◇所在地:函館市釜谷町155−2 釜谷漁港  ◇Gmap:Gマップ

瓊江丸記念碑江差町

瓊江丸記念碑 説明板より転載する「町指定文化財(平成3年11月26日指定)瓊江丸記念碑 瓊江丸は、松沢伊八が社長を務めていた北海汽船会社の船。明治二四年(1891)七月に、津軽海峡で三吉丸と衝突し沈没、乗客二五三人と船員八人が死亡した。松沢伊八は遺族への補償に努めたが、明治二六年(1893)に死亡、北海汽船会社も同年に閉社した。この碑は、事故により死亡した方々を供養するため、明治二七年(1894)年に建立された。平成二五年 江差町教育委員会」※この石碑は明治27年に松ノ岱に建立され昭和43年に正覚院本堂前境内に移設されたという。この碑とは別に松前町の光明寺に「瓊江丸 沈没 溺死者 記念碑」と刻まれた碑がある。側面には「明治廾四年七月十一日溺死二百四十人氏名納在無縁堂」とあり。それ以外部分は見えないため確認できず。 ◇建立年:明治27年  ◇建立者:未確認nbsp; ◇所在地:檜山郡江差町本町271 正覚院  ◇Gmap:Gマップ

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 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

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