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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道の開拓殉難者・性差別と弾圧犠牲者の顕彰と慰霊の碑他‼

今野大力詩碑旭川市

今野大力碑 常磐公園の一角、放送大学 旭川サテライトスペースの裏側に建つ蛇紋岩の大きな碑。「今野大力詩碑」「詩人は時代を先驅した 詩人が郷土を眞實に生かした そんな言葉が 私の耳に流れて来ないかしら そんな言葉が 地球のどこかで語られる時 私のからだは 墓場の火玉となって消えるだろう 1924年作『やるせなさ』より」題額とも本間敬三書で刻まれている。今野大力は明治37年2月8日宮城県で生まれ3歳の時、旭川に移り住み、名寄、深川と移り、16歳で再び旭川に戻る。旭川新聞社給仕を経て旭川郵便局職員となった頃より試作を始め、小熊秀雄とも親交を結び旭川新聞に詩や劇評を投稿。昭和4年に上京し、日本プロレタリア作家同盟に加わる。以後一貫してプロレタリア文学運動の道を歩み、検挙と闘病の中で昭和10年6月19日、31歳で没する。宮本百合子の短編小説「小祝の一家」は、大力をモデルにしたものという。戦前のプロレタリア文学作家として小熊秀雄とならび旭川を代表する一人でした。 ◇建立年:昭和60年6月  ◇建立者:今野大力文学碑をつくる会  ◇所在地:旭川市常磐公園  ◇Gmap:Gマップ

西田信春碑十津川町

西田信春碑 西田 信春は岩見沢市で明治36年に生まれ4歳から新十津川で幼児期をすごした。札幌第一中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学文学部倫理学科在学中の大正14年から大正15年1月にかけて雨竜村の小作争議、蜂巣賀農場に応援に入っている。大学卒業とともに全日本鉄道従業員組合本部書記となり東京の各支部を指導。また侵略戦争には全身全霊で反対した不屈の闘志であったという。昭和4年1月より無産者新聞編輯局員、同年3月20日に日本共産党に入党。昭和7年8月より九州各県の党再建の責任者として活動、12月九州地方委員会を確立し委員長に就任している。昭和8年2月10日「九州地方空前の共産党大検挙」と報じられた弾圧(検挙者508人)で検挙され、福岡警察署で拷問の挙句に30歳の若さで虐殺された。それは小林多喜二が虐殺される9日前の事で、2人は裁判の裁きによってではなく、警察権力による拷問と暴力による即日の私的死刑だった。平成元年に郷里の新十津川町大和地区、西田信春小公園に碑が建立されている。 ◇建立年:1990年7月  ◇建立者:西田信春記念碑建設委員会  ◇所在地:樺戸郡新十津川町大和  ◇Gmap:Gマップ

相沢良を偲ぶ札幌市西区

相沢良を偲ぶ 女性平和運動家の相沢良を偲び、相沢良の胸像を彫った青銅レリーフが入り口の横に置かれている。説明板より「相沢良は25歳8ヵ月の短い生涯を、戦争に反対し、働くものの開放のために不屈にたたかいぬいた人間愛と勇気に満ちた女性活動家でした。この平和の滝は相沢良が戦時下の1932年夏から秋にかけて、治安維持法による不当な弾圧のもと、札幌市街で働く女性労働者とともにハイキングを行い、平和や働くものの幸せについて語り、学習し、労働歌を歌って勇気づけていたゆかりの所です。圧政と勇敢にたたかった相沢良は、激しい拷問にさらされ、餓死寸前の重篤のなか仮釈放、その一週間後の1936年1月28日、青森の生家でなくなりました。」※逮捕された良は拷問による取調べを受け、翌朝には美唄警察署に送られ再び拷問を受ける。戦前の治安維持法は例を見ない人権無視と弾圧のために手段を選ばない凶暴性を発揮した。 ◇建立年:1994年10月16日  ◇建立者:治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部  ◇所在地:札幌市西区平和 平和の滝公園  ◇Gmap:Gマップ

労農運動犠牲者之碑札幌市

労農運動犠牲者之碑 月寒小学校から月寒公園の東端に沿って下る一方通行の坂道の途中、マンションの敷地手前にある木立ちに囲まれた敷地の入り口に「北海道解放運動無名戦士の碑小公園」と書かれた看板がある。風変わりな碑の前面に「だれが斗わずにいられよう 斗うであらう 斗わねばならぬ」と刻された石板と「勞農運動犠牲者之碑1949」と記された紋章がはめ込んである。説明版より「碑の由来 かつて専制と圧迫が支配する北海道において、生活と権利、平和と民主主義のためにたたかい官憲に捕われ拷問を受けて惨殺された人たち、あるいは灰色の獄中であるいは迫害と尾行に家郷を追われ窮乏裡にその生涯を閉じた人たち、戦後解放運動の先頭にたってたたかい倒れた人たち。これら先駆者の功績をながく讃え、その不屈のたたかいにまなび遺志を継ぐ誓いの碑として、一九四九年全道のはたらく人びとの決意をあつめてこれを建立し一九六六年九月この地移す。北海道解放運動犠牲者合葬追悼会実行委員会」※碑は道内出身の彫刻家山内壮夫氏の製作、ハンマーを象ったものと言われている。碑の建立されたのは大通西9丁目というが、昭和41年に移設された。 ◇建立年:昭和24年  ◇建立者:北海道解放運動犠牲者合葬追悼会実行委員会  ◇所在地:札幌市豊平区月寒西1条3丁目5  ◇Gmap:Gマップ

札幌開祖志村鐡一碑札幌市

札幌開祖志村鐡一碑 豊平川に架かる国道36号の豊平橋のふもと、川の右岸側にホテルの建物がありその一角に「札幌開祖志村鐵一碑」がある。碑の台座正面に「札幌開祖志村鉄一碑由来の記 氏は信州の剣客にして石狩調役荒井金助氏の招きに応じ安政四年(一八五七年)に移住して幕命を受けて豊平川渡守となり駅逓を兼ねる この地より約百二十米川下が氏の住宅の遺跡たり この碑は大正九年当時の札幌神社禰宜野村茂氏がその場所に建立したるものであるが、新豊平橋の完成にともない昭和四十二年七月に橋台小公園に市がこれを移転安置せるものである。尚この碑の筆跡は当時の北海道帝国大学総長佐藤昌介氏の揮毫せるものである。 昭和四十二年八月 札幌開祖志村鉄一碑顕彰保存会」台座の背面に「氏ハ信州乃剣客〇して石狩調役荒井金助の召に応し安政四年移住幕命を受けて豊平川渡守となり駅逓を兼ぬこの地ハ氏の住宅乃遺趾た里大正十年記」と刻まれている。札幌開祖と呼ばれる信州の剣客、志村鐵一は単身で未開拓の北海道に渡り、茅屋に住みながら渡し守を勤めたが、豊平川の水量は現在の約5倍以上という。維新後、志村は開拓使から幕府寄りと見られ、冷遇されて一方的にその任を解かれたというのが定説のようだ。「豊平物語」によると吹雪が三日間続いた時に亡くなったというが、定山渓に向かう途中で消息を絶った等の説もあるようです。 ◇建立年:大正9年  ◇移転年:昭和四十二年七月  ◇建立者:札幌神社禰宜野村茂  ◇所在地:札幌市豊平区豊平4条1丁目1  ◇Gmap:Gマップ

小林多喜二文学碑小樽市

小林多喜二文学碑 レリーフより「冬が近くなると ぼくはそのなつかしい国のことを考えて深い感動に捉えられている そこには運河と倉庫と税関と桟橋がある そこでは人は重っ苦しい空の下をどれも背をまげて歩いている ぼくは何処を歩いていようがどの人をも知っている 赤い断層を処々に見せている階段のように山にせり上がっている街を ぼくはどんなに愛しているか分からない」※碑文は治安維持法で獄中にいた昭和5年、児童文学者村上壽子にあてた書簡の一節という。小林多喜二は明治36年10月13日、秋田県下川沿村(現在の大館市川口)で小林末松の次男として生まれ明治40年4歳の時に小樽に移住し、港を見通せる若竹町の線路縁でパン屋を営む家で育った。明治41年から小樽港と南防波堤築堤、埋め立て工事が進められ監獄部屋による強制労働で3000人に迫る犠牲者をだし13年後に完成した。幼い時から港湾工事で人間扱いをされず酷使される多喜二が見たであろう光景が「監獄部屋」に再現されている。昭和8年2月20日、特高警察に逮捕され築地署で拷問で虐殺され、その遺体は「頭のてっぺんから足の指のつま先」に至るまで無傷だったところはなかった。その9日前に西田信春が福岡警察署で拷問の挙句に30歳の若さで虐殺されている。 ◇建立年:昭和40年10月9日  ◇建立者:小林多喜二文学碑建設期生会  ◇所在地:小樽市緑4丁目 旭展望台  ◇Gmap:Gマップ

野呂栄太郎碑長沼町

野呂栄太郎記念碑 北海道長沼町出身の野呂栄太郎(1900-1934)は北海中学、慶応大学に学ぶ。子どもの時の怪我が元で隻脚となったため公立の中学や東大への入学が許されない差別によるものでした。野呂栄太郎は『日本資本主義発達史』を書いた経済学者で、絶対主義的天皇制政府の暴虐や侵略戦争に反対した日本共産党の戦前の指導者でした。小林多喜二や西田信春が虐殺された半年後、スパイの手引きで検挙され品川署で激しい拷問をうけて病状が悪化、昭和9年1月19日33歳という若さで命を奪われた。野呂栄太郎の支援者が土地を提供して出来た長沼町の野呂栄太郎記念小公園に野呂栄太郎碑が建立されている。野呂栄太郎の生涯を貫く精神は、現代に生きる我々に今何をなすべきかを暗示しているようです。 ◇建立年:1974年10月  ◇改修年:1993年12月  ◇建立者:確認中  ◇所在地:長沼町東一線北二番地 野呂栄太郎記念小公園 ◇Gmap:Gマップ

救療院徧譽周甫居士(野村周甫墓碑)室蘭市

準備中 石板の碑文より「野村周甫先生遺徳碑 安政二年幕府蝦夷地ヲ直轄スルヤ先生醫員以テ元室蘭ニ赴任セラル常時人煙希少喬木天ヲ蔽ヒ熊羆群ヲ成ス且嚴冬冱寒石ヲ裂ク先生資性仁厚克ニ耐ヘテ濟生療病ニ盡瘁セラル實ニ本市醫薬ノ始祖タリ墓ハ亂荊荒榛ノ中ニ在リ其死ヲ距ル七十年近碑風打雨蝕委シ人ノ香花ヲ供スル者無シ深ク慨スベシ今茲本會胥謀リ更ニ貞石ヲ植テテ其遺徳ヲ表著ス 昭和三年十月 室蘭市 衛生會」碑の右側面に「モロラン詰 御雇醫師 野村周益父」左側面に「文久三癸亥年五月朔日」し記す。野村周甫は南部藩の医師で安政3(1856)年室蘭に赴任、医療院を開き、和人、アイヌの別なく治療をした。貧しいアイヌ人からは治療費を受け取らなかったといわれ、神のように慕われたという。文久3(1863)年5月83歳で死去。墓碑は室蘭市衛生会が昭和3年に再建したようですが、半ば草木に埋も目立たぬ場所にある。 ◇建立年:昭和3年10月  ◇建立者:室蘭市衛生会  ◊所在地:室蘭市崎守町171 仙海寺墓地  ◇Gmap:Gマップ

中川五郎治顕彰の碑松前町

中川五郎治顕彰の碑 説明は碑文で換える「中川五郎治は本名を小針屋佐七といい、明和5(1768)年青森県下北郡川内村に生まれた。文化4(1807)年エトロフ島の幕府会所に勤務中、ロシア船の来襲に遭遇し、シベリアに拉致された。五郎治はシベリアでの艱難辛苦に耐え、文化9(1812)年の帰国時、牛痘種痘法を習得し、ロシア語の牛痘種痘書を持ち帰った。五郎治伝来の種痘法は松前、函館、秋田、そして津軽で普及されたに留まったが、その情報は遠く京都や大阪に伝えられて日本の医学界に大きな衝撃を与え、以後の日本の牛痘種痘の普及を大いに促進させた。彼は嘉永元(1848)年松前で没し、同町の法源寺の両親の墓に葬られた。その没後150年に当たり、第99回日本医史学会が函館市で開催されるのを機に碑を建立しその功績をたたえる。平成10(1998)年5月16日 松前町 日本医史学会 弘前大学医学部麻酔科同門会」※種痘の普及範囲が限定されているのは、異教の国からの帰還者は没するまで松前藩の和人地から出る事が禁止されていたこと、このなかで生き延びる為の手段が種痘であったと思われ、そのために技術の伝承がなされなかったのかもしれない。松前を除いた蝦夷地で集団種痘が実地されたのは安政4(1857)年で、五郎治が没してから9年後だった。 ◇建立年:平成10年5月16日  ◇建立者:松前町 日本医史学会  ◊所在地:松前郡松前町松代  ◇Gmap:Gマップ

薄野娼妓並水子哀悼碑札幌市

薄野娼妓並水子哀悼碑 薄野繁華街の南端にある豊川稲荷札幌別院敷地内に屋根に覆われた石碑があり、それが「薄野娼妓並水子哀悼碑」で、傍に高札があり建立の謂れが記されている。「薄野娼妓並びに水子哀悼碑」建立のいわれ薄野は明治四年、当時の判官により開拓労務者の“足止め策”として薄野遊郭を置いたのが起源であります。その開拓を支えた遊郭の娼妓たちを供養し、さらにはその陰にある水子と、現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事、堂垣内尚弘氏から碑文を頂き建立したのが、この哀悼碑であります。昭和五十一年五月二十五日記 薄野花街哀悼碑建立期成会 合掌」※かつては遊郭の中にあった豊川稲荷札幌別院を囲む札幌軟石の門柱や支柱には、遊郭や遊女達らしき名前や文字が刻まれ、正面の鳥居の左脇にある古い門柱に「新見番」と刻まれている。見番は遊里で芸者の取り次ぎや送迎、玉代の精算などをした所を云うようです。最盛期の明治40年頃には遊郭が32軒、遊女が372人というもはっきりした記録は残ってないようですが、大正7年に中島公園で開道五十年記念北海道博覧会の開催が決まり、大正9年に遊郭は菊水地区に移転された。北海道開拓の陰で性奴隷として犠牲になった多くの女性達がいたのでした。 ◇建立年:昭和51年5月25日  ◇建立者:薄野花街哀悼碑建立期成会  ◇所在地:札幌市中央区南7条西4丁目1−1 豊川稲荷札幌別院境内  ◇Gmap:Gマップ

札幌遊郭(通称白石遊郭)跡白石歴しるべ 札幌市

通称白石遊郭跡 菊水公園の入口脇に公園内に白石歴しるべという史跡説明板に札幌遊郭の概略が記されていた。説明板の転載「明治初期、札幌本府建設に集まった大工達を目当てに料飲店や売女屋が増えたため、開拓使は街外れの薄野(すすきの)に札幌遊郭(一般に薄野遊郭と呼ばれた)を定めてこれらを一カ所にまとめた。薄野が市街地化すると遊郭の移転が計画され周辺の村は遊郭設置に名乗りをあげたが、リンゴの病害虫で悩む白石村の果樹園主たちが遊郭用地を札幌区に寄付して誘致に成功した。大正9年までに移転を終えた札幌遊郭は地名を取って白石遊郭と一般に呼ばれた。写真のように通りに面して30軒ほどの妓楼が並び、通りの中央に小川が流れていた。遊郭の東西の端に大きな門があり、国道26号からこの門に至る道は大門通り呼ばれた。戦後の昭和26(1951)年、札幌市の風俗取締条例制定とアメリカ軍の撤退で廃業する妓楼が相継ぎ、昭和33(1958)年の売春防止法完全施行で白石遊郭は姿を消した」※米軍の空撮による遊郭一帯の写真が説明板にあり遊郭の名前が記されていた。 ◇設置年:平成10年1月  ◇設置者:札幌市白石区役所  ◇所在地:札幌市白石区菊水5条2丁目1 菊水公園  ◇Gmap:Gマップ

北海道庁立札幌治療院跡・札幌助産所跡白石歴しるべ 札幌市

北海道庁立札幌治療院跡 白石歴しるべの史跡説明板が軽費老人ホーム札幌市菊寿園の看板下に設置されている。それより遊郭に関聯する部分を転載「大正6年から9年にかけて札幌遊郭(通称薄野遊郭)がこの菊水地区に移転し、それに伴い公権力で性病を予防・治療する北海道庁立札幌治療院(院長は警察署長)も薄野から遊郭街のこの位置に移転してきた」※とあり遊郭が開拓使の事業であった事がわかる。北海道開拓の名も無き殉難者として囚人、タコ労働者、強制連行の外国人、性的奴隷(遊女)等があげらるが、明冶4年に開拓使の手で薄野遊郭や室蘭に貸座敷(妓楼)が設けられ、アイヌもまた人間であると考えていた進歩的な松本十郎判官でさえも「女郎また開拓の一端といわざるべきや」と明言し、根室に赴任するやいなや貸座敷を認めている。明冶17年末から北海道で続々と遊廓が公認されるが、これらは開拓事業の一環として進められた負の歴史でもあった。 ◇設置年:平成10年1月  ◇設置者:札幌市白石区役所  ◇所在地:札幌市白石区菊水5条1丁目8  ◇Gmap:Gマップ

有縁両縁塔函館市

有縁両縁塔 北海道で公認の遊郭は協和3(1803)年の箱館山上町が最初のようですが、慰霊碑の建立については説明板の転載で代える。『この「有縁両縁塔」は、元治元(1803)年に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養碑である。かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の舟見町界隈)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1858)年に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商船や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせるようになった。この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊郭で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性達がいた事実を残すもので、台右には建立者達の名前が刻まれている』碑文にあるように埋もれた陰の歴史で、先行して人身売買があり、遊郭で働かされここで倒れても引き取り手がなく遊郭で生涯を終えざるを得なかった。北海道開拓の中で監獄労働で斃れた人達と同じように、この人達もまた殉難者であったといえる。 ◇建立年:維時元治甲子歳終夏六仏観喜日(1864)  ◇建立者:世話人6名 遊女屋経営者25人共同建立  ◊所在地:函館市船見町23 地蔵寺入口  ◇Gmap:Gマップ

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 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

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