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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
監禁強制(タコ部屋等)労働に斃れた土工夫達の慰霊・顕彰碑等を巡る1‼

4・監獄部屋(通称・タコ部屋)

西暦1890年代に確立し1940年代(昭和25年頃)まで続いた監獄部屋(通称はタコ部屋)を核にした労務管理システム。北海道の開拓初期に基盤工事を受け持った資本の原始的蓄積期の囚人外役労働の廃止にともない拘禁強制労働の監獄部屋が鉄道工事で一般化、以降は産業資本段階の労働形態として鉄道・道路・港湾・用水溝工事に吸収されていく。囚人労働に代わるタコ部屋システムが完成していたので囚人外役労働が廃止されたといってもよい。

監獄部屋の最初は明治4年の函館、室蘭間の新道開削で本州より人夫を募集し工事現場に宿舎を建て労務者を収容したのが始まりともいうが、その当時はまだ監禁はなく監視も厳しいものではなかったようだが、明治5年4月に始まった室蘭~札幌間では多くの犠牲者をだし逃亡者もあって次第に監視は厳しくなっていったようで、監獄部屋の起源を明治6年開通の函館街道(函館~森)開削工事とする説もあり、明治22年に起工した室蘭線敷設工事の頃には監獄部屋という労務管理システムが出来上がっていたようである。鉄道建設、土地改良事業、港湾建設、発電所建設や戦時下の軍工事などを含めて、北海道で国費支出による土木事業の殆どは拘禁強制労働(タコ部屋労働)でおこなわれた。

明治以降に北海道で土木関連で働く土工夫を保護する法制度は無く雇用主の裁量に委ねられていた。監獄部屋の虐待が新聞紙上で報道され、社会問題になるにつれて無視出来なくなり、大正8年から法制度を整えてきたが、それ以前は完全に野放し状態、法制度を整えたといっても抜け穴が多く殆ど効果がなかった。北海道の土木事業は開拓事業との関わりが深く、道庁土木部長が道庁と土建業者は車の両輪という関係では、監獄部屋の改善はあっても一掃することは不可能であったろう。

法制度の概略はは募集制度の規制、部屋幹部の土工夫虐待防止を図るなど。大正14年3月には内務省令として労働者募集取締令を施行、昭和2年1月になって営利職業紹介事業取締規則を施行し周旋屋を取り締り、募集従事者は地方長官の許可を必要とし、応募者に対しては労働条件を明示した就業案内を作らせる。昭和7年に道庁から3万円、民間建設業者が2万円を拠出し北海道土工殖民協会が発足、事務所を札幌におき支部、出張所を各地に置いて問題の少ない周旋人を嘱託として採用し末端の募集業務に当たらせた。

労務者募集の手続きは、工事を請負うと地元警察署に「労務者募集願い」を提出させ、募集人員、募集地、周旋屋の名前、募集人の名前を書き、周旋屋に前科があると許可にならない仕組みで建設業者は徐々に土工殖民協会を経由する事になり、悪徳周旋屋の追放には多少の効果があったようで前借金の多い労務者は少なくなるが、土工夫が虐待で死んでも逃走と追跡者を届ければよいという抜け穴はそのままでした。此の制度も大平洋戦争に突入すると労務者不足は深刻化し有名無実化した。

周旋屋(周旋人)とは手数料と引き換えに他人(労働者)のために仕事を紹介する実務家、労務者斡旋業、悪質な周旋人は明治から昭和前期にかけて手数料を水増し監獄部屋へ人身売買に近い労務者斡旋をしていた。この場合の手数料は労務者の借金となるしくみでした。周旋屋への取締が厳しくなると関西以南や朝鮮半島などに拠点を移して労務者斡旋をしている。

タコ部屋の語源は諸説有れども説得力に欠けるが、最新の説では東北地方に出稼ぎを「他行」という方言があり、それが元になっているとするもの。初期のタコと呼ばれた底辺労働者は東北出身者が圧倒的でした。北海道で囚人や土工夫、強制連行者などが監禁強制労働で亡くなった人数は60年間に70万人を超えると推定されています。この数は北海道にあったゴールドラッシュに殺到した人達とほぼ同じかずになります。

5・監獄部屋の特徴

日露戦争後、独占資本が発展する中で石炭・鉱石・木材・パルプなどの資源を運ぶ鉄道と道路が、北海道・樺太では拘禁強制労働によって開削され大企業が進出する。一方では地主の増収をはかるため、畑地と原野の水田化には北海道土功組合法(1902)による灌漑用水溝の国庫補助と、第一期拓殖計画(15ヶ年)とによって推進され、土功労働者の需要最盛期を迎える。この頃からタコ部屋労働者の酷使・虐待が新聞に報道され、警察の取り締まりが次第に厳しくなるが、巧妙にすり抜けて実態は余り変わらず、占領軍により土功部屋解散命令が出るまで、多くの土工夫は低辺労働者として人権を無視され過酷な労働を強いられてきた。

その特徴は
①小資本の土建飯場の労資関係から生まれた拘禁労働。
②それが土建業に特有な前近代的な下請け制度の上になりっている。
③人集めが前借金を口実にした「周旋」という名の誘拐や暴力によって行われた。
④権力支配によらずに、あらわな暴力支配による階級秩序が重んじられた。
⑤この秩序をおかす者には、死の制裁が加えられた。
⑥権力支配によるものは強制連行である。
⑦一言で言うなら労働者は消耗品であった。
⑧その起源を江戸期鉱山の囚人労働とアイヌ民族の拘禁強制労働に見る。

過酷な拘禁強制労働で亡くなった遺体をイトムカ鉱山では「クジラ」と云い厚岸では「マグロ」と呼んでいたという。タコ部屋は北海道で出来上がった拘禁強制労働システムですが次第に日本全国に広がります。労働者がバラバラで互いに信用できないように孤立させ、集団で抵抗できないようにしておくのが特徴で、地縁・血縁の関係が強い本州では抵抗が有り、朝鮮人の監獄部屋という場合が多いようです。

・募集という名の労務者狩り

本州で募集された土工夫の殆どは、周旋屋(周旋人)の甘い「口車」に載せられ、一旦周旋屋に入ると脱出来ない仕組みがとられ、工事現場まで囚人護送のように監視付きで送られる。前金は工事現場へ行くまでの宿泊、交通費に護送費用や手数料が上乗せされたもので、当人の手に渡るものではなく、騙しと誘拐同様の手口で近代の奴隷狩りともいえる。周旋人(シュウセンニン)とは手数料と引き換えに他人のために売り買いをする実務家、悪質な周旋人は明治から昭和前期にかけて手数料を水増しして監獄部屋へ人身売買に近い労務者斡旋をしていた。周旋人に対する取締が厳しくなると関西以南や朝鮮半島などに拠点を移して労務者斡旋をしている。

・借金だけが残る仕組み

1日平均15時間以上働きながら金を残した土工夫がいないのは、労働に見合う報酬が支払われる事がなかったからだ。監獄部屋では土工夫に本人の借金や揚げ金がを知らせなかったか、目にはふれないようにされていた。土工夫は取締規則で募集地の警察を通ってくるが、その時警察は契約書の内容を当人に尋ねるが、契約書に記入される前借金は、当人と送り屋の宿泊・交通費で、当人の手元には渡らない。前借金を返済させる名目でタコを長時間働かせるが、前借金には裏証書(仲介料という人身売買料+前借金)が土工夫のあずかり知らぬところで決められ、周旋屋の懐に入る仕組みになっていた。また警察に助けを求めても本人の知らない前借金があるため、逆に詐欺とされる事が多かったと云い、警察は彼らの味方をすることは少なかったようです。極端な例では3年間働いても返せない金額ということもあったという。

・監獄部屋の逃走対策

初期の監獄部屋は山間僻地とか断崖絶壁や山に囲まれた低地などに建てられたが、土工夫の逃亡阻止に都合良く他から内情を知られにくい土地というのがその理由。また逃亡者追跡用に馬と銃、土佐犬やドーベルマンなどの追跡用の猟犬が飼われ、ヒグマもまた逃亡阻止に一役かっていた。監獄部屋の内部構造は地形や収容人員によって違うが、共通しているのは部屋の出入り口は一箇所で、頑丈な引き戸があり、土工夫を囲い込み、外から施錠すれば脱出不可能になる事、移動の激しい土工部屋はすべて板壁で釘は中から打ちつけてある。各地に土功組合が開設されると灌漑用水溝開削工事が北海道各地ではじまり、監獄部屋も人目に触れる人里に出てきて、取締も厳しくなり逃亡防止策をかえ逃亡土工夫の逮捕に賞金を出し、それに要した費用も受け持つと地元民に協力を要請、同時に逃亡を助けるような行為に対しては脅迫する事もわすれなかった。昭和4年の石北線白滝工事現場では逮捕協力に「15円出す」と呼びかけられた地元の人もいた。そんな中にあっても己の中にある恐怖と闘いながらも逃亡を助けた多くの農民達がいたが、逆の場合も有った。

・朝鮮人の監獄部屋

戦争末期には職業商会業務を担当した勤労動員署の役人と刑事、時には憲兵も一緒になって朝鮮人を探しだし、協和会手帳と外出証明書を提出させ、持っていない者や不急不用の仕事の従事者と認定された者はタコ部屋に送られた。業者が憲兵や刑事、役人を接待し、4月~6月にかけて駅や汽車、バスの中、個人の住宅でも寝込みに押し入り所構わず朝鮮人を探しだし、手当たり次第につかまえて「軍の徴用」といって監獄部屋に送り込む、仕事が出来ない季節(冬)が近づくと警戒をゆるめて逃走させ、賃金も旅費も払わずという巧妙で悪辣な方法がとられたともいう。前借り金もなくただ働きさせ、帳場にあずけた服や時計を取り上げてしまう。春先になるとまた同じ方法をくり返して儲けた朝鮮人使用業者は、敗戦時に「処理・損害賠償」の名目で政府より多額の保証金をせしめたが、これはタコシステムを最大限悪用したもの。

仏坂招魂碑室蘭市

#明治5(1872)年4月に始まった室蘭~札幌間の札幌本道開削工事は、母恋地区と室蘭港の間にある小高い岩盤質の山を崩し道を切り開く難工事で多くの犠牲者をだし、工事場付近に一時仮埋葬され、以来その場所を佛坂と呼び地名になったという。その後の日本製鋼所建設工事はそれをはるかに越える犠牲者をだした。碑文正面より「招魂碑」碑文左側面「建立年と施主 明治四十三年五月二一日 橋本組 下請負人 施主 新川茂十郎」碑文右側面には「明治五年會津藩士當地ニ渡海シ國道工事並ニ開拓ニ従事ソノ際夥多ノ死亡者ヲ出シタルモ草創ノ場合トテ仮埋葬トナシ爾来斯處ヲ佛坂ト称ヘ一ノ地名トナリシト云フ。今尚樹木雑草ノ小陰ニ朽チタル塔婆杯ノ散在スルヲ見ル。爾来星霜ノ閲スル事四旬明治四十年ノ秋株式會社日本製鋼所ノ設立アルヤ建設地切取其他ノ工事全部ヲ仙台市定禅寺通櫓町橋本組ニ於テ引受ケ昼夜ノ別ナク刻苦経営彼ノ土木事業界ニ難工事トシテ喧伝セラレタル喇叭山ノ開墾ヲシテ未ダ曽テ例ナキ大爆破ヲ案出執行シ部下一同又身命ヲ賭シ竣工ヲ奏シタリ。然レトモ之ガ為メ従事者ヲシテ犠牲ニ供シタル事莫大今ニシテ之ヲ追憶スレハ實ニ哀惜ニ不堪依テ茲ニ前后両者ノ英霊ヲ合祀シ祈念トシテ招魂碑ヲ建立スルモノ也」碑文背面「移設について 施主 大宮源次郎 國道の災害防除工事を施工するのでこの碑をここまでうつし併せて五十年忌の追善供養を行ひました。昭和三十二年十一月三十日 施主 日東土木株式會社」とある。※碑は札幌本道開削工事の犠牲者と日本製鋼所設立工事の殉難者を慰霊する為に工事関係者が建立。明治40年の日本製鋼所建設工事を橋本組が請負い、工期の遅れを取り戻すため大爆発採掘方式(発破)により死傷者多数をだし、この碑が建立された時で殉難者は245名、その後に75名の殉難者が確認出来ると云い、あわせて320名の殉職者となる(北海道開拓殉難者調査報告書)が、これだけの殉職者が出たのは、既に監獄部屋(タコ部屋)システムが完成し、取締まる法制度も無かった当時の土工夫らへの扱いを物語る。碑文から札幌本道開削工事で犠牲になった労働者が仮埋葬されそのまま放置されていたのが目を引くが、これが監獄部屋の始まりという説に現実味をあたえている。招魂碑は昭和32年の国道の災害防除工事のため15mほど移され、招魂碑に隣接し地蔵尊が祀られていたが建物は倒壊し地蔵尊も破壊している。工事当事者の心情が刻まれた監獄部屋の慰霊碑としては道内最古と思われ希有な存在でもあり最初に掲載した。◇建立年:明治43年5月21日 ◇建立者:新川茂十郎 ◇移転年:昭和32年11月30日 ◇所在地:北海道室蘭市新富町 ◇Gmap:Gマップ

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旧日本陸軍浅茅野飛行場跡の掩体壕猿払村

# 国民徴用令が昭和14(1939)年7月より日本本土で施行されたが、朝鮮では昭和19(1944)年9月より徴用が適用され労務動員が行われる。徴用は国家が国民に対して行う強制であり、早くに日本に来ていた朝鮮人は国内の徴用が適用されたと思われる。徴用以前の朝鮮では募集形式や官斡旋方式で行政・警察、軍当局による強力な勧誘、強制、詐欺の伴う労務動員があり、連行に特高や憲兵などが同行し逃亡等で逮捕される場合は事実上の強制連行と考えて良さそうである。労務動員された人々の運命は配置先や業者で大きく変わるが、悲惨だったのは配置先がタコ部屋の場合や軍直轄工事で監獄部屋に収容され使役された人々だろう。戦争末期に道内の飛行場建設工事などに信用部屋で働いた朝鮮人などは強制的に軍属にして千島や樺太の土木工事などに連行したという。浅茅野飛行場は1948(昭和18)年2月に第一、同年12月に第二飛行場の建設が始まり、翌1944(昭和19年)年2月に第一、5月に第二飛行場が完成。第一飛行場は大型無蓋掩体壕17基、小型無蓋掩体壕13基の合計30基の掩体壕を持つ飛行場でした。工事の元請けは鉄道工業株式会社ですが、下請けも含め人間を消耗品のように扱うタコ部屋経営だったこと、直接工事を行ったのは主に丹野組でした。浅茅野飛行場工事に動員された朝鮮人は600から800というも、殆どが証言からの推測であり詳細は不明、強制労働での使役で北海道公式記録で道内から244名の日本人が動員となっているが実数は詳細不明、信用部屋は朝鮮人が圧倒的に多という。戦時朝鮮人強制労働調査資料集(平成15年)に連行期死亡者名簿に94人が載っているが、日本人は15名、本籍不明が人12名で、氏名が判明している犠牲者は121名という。飛行場跡は猿払村と浜頓別町の両町に及び殆どが牧草地に変わっているが掩体壕が数基残っているのが見える。強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムが建立した追悼碑が幌加内町朱鞠内にある。◇所在地:猿払村浅茅野 ◇Gmap:Gマップ

記憶 継承旧日本陸軍浅茅野飛行場建設工事犠牲者追悼碑

# 碑文より「近代を迎えた北海道は日本の植民地として先住民アイヌに苦難を強い、軍国主義の基地となり、「タコ」部屋労働と朝鮮人、中国人強制連行・強制労働の地となりました。戦後も多くの犠牲者の遺骨が残されましたが、1970年代から朱鞠内をはじめ、各地で遺骨の発掘が取り組まれ、本願寺札幌別院など仏教寺院でも遺骨が発見されました。2003年には強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラムが発足し、猿払村で韓国、中国、ドイツ、ポーランドの人々と共に旧日本陸軍浅茅野飛行場建設工事犠牲者の遺骨34体を発掘して遺族に届けるなど、東アジアの人々との和解と平和を求める活動が進められました・ナショナリズムやヘイトスピーチを越えて戦争と抑圧の時代を再び招かぬことを誓い、日帝強制動員被害者支援財団とともに、ここに記憶・継承の碑を建立します。 2017年10月28日 強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム 大観民国日帝強制動員被害者支援財団」※碑の裏面には韓国語で同文が記されている。◇建立年:2017年10月28日 ◇建立者:記憶・継承の碑建立事業有志一同 ◇所在地:幌加内町朱鞠内 ◇Gmap:Gマップ

願いの像幌加内町

# 「願いの像」は空知民衆史講座の人々が中心になって1991年に建立。当初は朱鞠内湖の展望台に建立する計画であったが、朱鞠内湖を管理している北海道は道立自然公園ということで許可せず、像自体が完成した後も何年間か保管されていたが、協力者の一人が今の場所を提供し建立に至ったという。長いが碑文を転載する。「日中戦争から太平洋戦争に至る(1935年~1943年)までの9年間、朱鞠内は過酷な強制連行、強制労働の現場でした。数千人の日本人労働者と三千人の韓国人・朝鮮人が名雨線(旧深名線)鉄道工事と雨竜ダム工事に従事させられました。強制労働の末、死に至らしめられた人々は、次々と朱鞠内の土に埋められていきました。1976年、空知に一つの運動が起こりました。鉄道工事、ダム工事の犠牲者を調査し、遺骨を発掘し追悼しようとする『民衆史掘り起こし運動』に多くの人が参加し、朱鞠内では『追悼法要会」が結成されました。参加者の調査による結果、204人(現在まで)の犠牲者の氏名が判明しました。その中には36人の胸腺連行による韓国人・朝鮮人の犠牲者がありました。1980年から4度にわたる発掘調査で、朱鞠内共同墓地周辺の笹ヤブの下から16体の遺骨が掘り起こされました。それらの遺骨は参加者の手で改葬され、40年ぶりに遺族の手に還されていきました。韓国への遺骨返還の旅が続けられました。戦争の嵐の中で、山間の地に命を失った多くの「タコ」と呼ばれた労働者の慟哭と、他国に強制連行された人々の怒りと悲しみにふれた私たちは、この運動をとおして、二度と再びこのような犠牲を強いることがあってはならないことを学びました。ここに、犠牲となった人々、遺族、そして命の尊さに目覚めたすべての人々の思いを込めてこの像を建立します。」願いの像の呼びかけは1948(昭和59)年に始まり、約7年後に道内外よりよせられた募金で建立された。」※幌加内町と風連村の埋葬許可証や寺院の過去帳の調査で判明した犠牲者数は204名、このうちダム工事犠牲者は142名、鉄道関係が59名、その他3名となり、日本人は168人で朝鮮人は36名でした。これは判明した人数で未だ大地に多くの遺霊が眠っていると思われます。参考文献として和解のかけ橋「続 笹の墓標」をあげておきます。◇建立年:1991年10月6日 ◇建立者:生命の尊さに目覚めた民族和解と友好を願う像 建立委員会 ◇建立地:幌加内町朱鞠内 ◇Gmap:Gマップ

平和の踏石幌加内町

# 朱鞠内ダムと深名線鉄道敷設工事で犠牲になった日本人労働者(タコ部屋)と朝鮮人強制連行労働者の氏名、年齢、出新地、死亡年月が二枚の銅板?に刻まれている。1939年7月に国民徴用令が日本本土で施行されたが、朝鮮では1944年9月から実施されている。それ以前は1939年1月から募集形式、1942年から官斡旋方式、1944年9月から徴用になる。徴用とは国家が国民に対して行う強制であり労務動員の柱だったが、徴用でなくともの意思に反して連行された場合は強制連行といえる。朝鮮での徴用適用以前の募集形式や官斡旋方式で行政・警察、軍当局による強力な勧誘、強制、詐欺などが伴う労務動員、動員の途中は特高や憲兵の監視付き、逃亡などで逮捕される場合も事実上の強制連行と云っても良さそうです。そのような手段で労務動員された人々の運命は配置先や業者で大きく変わるが、配置先がタコ部屋であったり、人目に触れない朱鞠内のような山間部、軍直轄工事などの場合は特に悲惨だったようです。また戦争末期に飛行場建設工事などに信用部屋で働いた朝鮮人などは強制的に軍属にして千島や樺太の工事などに連行したのだという。ここに氏名の刻まれている方々はまだ運の良い人達かもしれず、未だ湖底や朱鞠内共同墓地周辺に多くの遺霊が眠っていると思われます。◇所在地:幌加内町朱鞠内 ◇Gmap:Gマップ

笹の墓標展示館幌加内町

# 朱鞠内で強制労働による犠牲者が弔われた真宗大谷派光顕寺は、平成11年に改修され本堂は青少年研修・宿泊施設「旧光顕寺・笹の墓標展示館」となって、民衆史掘り起し運動と強制労働の実態をいまに伝える歴史資料館として多くの来館者を集めている。現在、発掘遺骨とともに犠牲者の位牌が大切に保管され、位牌の一部や発掘の副葬品などが写真パネルと共に展示公開されている。 笹の墓標展示館の前に「平和の踏石」があり、少し離れて「記憶 継承」の碑があります。朱鞠内で鉄道・ダム工事が行われた1940年代は太平洋戦争中であり、強制労働に加え冬期間の気温は-40℃を記録する程の過酷な環境であったが、工事は冬季間も休まず続けられ怪我や病気になる者が絶えず、死に至った者も少なくなかったという。調査で判明した犠牲者数は204名というが、未だ朱鞠内の大地に多くの遺霊が眠っていると思われます。◇開館:冬期は閉鎖 ◇管理者:空知民衆史講座 ◇所在地:幌加内町朱鞠内 ◇Gmap:Gマップ

朱鞠内ダム 殉職者慰霊塔幌加内町

# 王子製紙はダムによって得られる電力よりも森林資源が目的だったといわれ、朱鞠内湖(雨竜ダム)工事の着工は昭和16(1941)年、当初は飛島組(現・飛島建設)が請け負ったが、難工事と会社の財政難により中断、その後は王子製紙の子会社として設立された雨竜電力株式会社が工事を引き継いだ。工事は大きく5つの工区に分けられ、1第一堰堤、2第二堰堤(雨竜第2ダム)、3土堰堤(湖南西側)、4取水口(湖西側)、5水力発電施設(風連町)に延べ数百万人の労働者が動員され、ダム本体は昭和18(1943)年に竣工。またダム工事と同時に雨竜線を開通させて大量の木材を切り出し運んだ。ダム工事には日本人の土工夫の他、連行された朝鮮人が劣悪な労働環境下で駆り出され、衰弱して労働に耐えられなくなった労働者の中には、生き埋め同様に投棄されたり堰堤に埋められた人もいるという。現在判明しているだけで200人以上になるが、何人が亡くなっているのかは未だ不明。朱鞠内湖の第一堰堤の坂を登ると高さ12,5mの「殉職者慰霊塔」が見えるが、ダム工事で使用された吊り橋の支柱を利用して建立されたものという。由来の碑文はなく過酷な強制労働で多くの日本人や朝鮮人の命と引き換えに完成した朱鞠内ダムの歴史は封印されている。◇建立年:昭和18年 ◇建立者:雨竜電力株式会社 ◇建立地:幌加内町朱鞠内 ◇Gmap:Gマップ

開道百年記念碑土工夫追悼碑 旭川市

# 碑文「ふるさとの大いなる繁栄の中にあなたたちの汗と油、血と命、にじみこんでいるたくましい腕でシャベル、ツルハシ、大原始林の中に道は拓け、ふるさとのあゆみを開始された。むくわれることのなかったあなたたちの労働は限りないふるさとの前進のなかに息づいていることを私たちは忘れない。旭川市長 五十嵐広三書」記念碑建立碑文より「未開の蝦夷地にわたり原始林を伐りひらき熊笹の群生を踏みわけて、道路を造り橋を架け鉄道を敷設するなど明治、大正、昭和の三代にわたり本道の開発事業に従事、血と汗と逞しき開拓精神により幾多の功績をのこした労務者および建設なかばにして開発の礎と散った殉職者の偉大なる業績をおもいおこし、時あたかも開道百年の記念すべきときにあたり本記念碑建立の発起人代表のーとして盡力された飯塚栄三郎氏の意をくみ、ここに先覚者の偉業をたたえその霊を慰めるためこの記念碑を建立したものである。昭和43年9月5日 発起人 明昭親睦会 協賛 旭川建設業協会 同 協力者一同 協力 財団法人 観音霊園」※旭川市の観音台霊園にある開道百年記念碑ですが、その趣旨は幹線国道の元になった道を切り開き、屯田兵の住居を建て、地底で石炭を掘った多くの囚人達、囚人に続いて北海道の鉄道敷設や灌漑溝開削、ダムや発電所建設に動員され過酷な環境の中で土木事業に従事し散っていった労務者達を開拓殉難者として讃え慰霊碑する碑ですが、碑文の殉職者や殉難者という言葉からは人権を顧みない拘禁強制労働の被害者で有ったという歴史的事実はみえてこない。◇建立年:昭和43年9月5日 ◇発起人:明昭親睦会 ◇所在地:旭川市神居町富沢 観音霊園記念公園 ◇Gmap:Gマップ

殉難者慰霊碑真勲別発電所 上川町

# 碑文より「大日本電力眞勲別水力發電所建設工事施工二際シ産業ノ第一線ニ於テ殉職セシ諸氏ノ靈ヲ茲ニ謹ミテ合祀シ慰靈ヲ行フ 昭和十六年八月 荒井合名會社」※とあった。荒井組~合名會社の期間中に建立した慰霊碑で石版がはめ込まれた碑文の有るのはこの慰霊碑だけのようですが、経年劣化で崩壊寸前の状況にある。碑のある場所は発電所ではなく上川霊園の入口手前の右側で大きな台座に乗っている不動尊?でした。真勲別発電所は層雲峡発電所より少し下流で取水された用水は直線距離にして約 7.5 km下流にある真勲別発電所(昭和16年運転開始)までその殆ど隧道で導水される。4発電所の中では導水路となる隧道部分が長く多く難工事だったと思われ、北海道開拓殉難者調査報告書では真勲別の殉難受者は31名と記されている。◇建立年:昭和16年8月 ◇建立者:荒井合名會社 ◇所在地:上川郡上川町東町(慰霊碑)◇Gmap:Gマップ

聖徳太子碑の碑上川発電所 上川町

# 石狩川には石狩川最古という愛別発電所をはじめ、上流から愛別までの間に6発電所があるが、戦前に完成したのは真勲別発電所、上川発電所、安足間発電所、愛別発電所ですが、この中でダム水路式は上川発電所のみ。上川発電所取水堰(真勲別発電所下流)より6,208mの殆どを隧道で古川ダム(堤高23.9m、堤頂長156.4m)に導水しダムより隧道で上川発電所(昭和5年運転開始)に導かれる。この工事は三工区あり元請けは逢沢組、荒井合名会社、竹内組で、昭和3年6月に着工、翌年の昭和4年に竣工しているが、竣工後に建立されたようです。「聖徳太子」碑は上川発電所送水管近くの道路脇にがあり、右側面に「発電所記念 竹内組 配下一同 昭和四年八月建立」と刻まれている。万字線鉄道敷設工事で宗派を問わない慰霊碑として聖徳碑が建立されており、この碑も同じ趣旨で建立されたと思われる。北海道開拓殉難者調査報告書を見ると安足間は61名、愛別12名、真勲別31名、層雲別(層雲峡)が7名、所属不明の殉難受者38名とあるのに対し、上川の殉難受者は1名と、難工事にしては少なく所属不明の殉難受者に含まれているかもしてない。◇建立年:昭和4年8月 ◇建立者:竹内組関係者 ◇所在地:上川郡上川町字日東・上川発電所 ◇Gmap:Gマップ

赤羽六代地蔵尊聖台ダム殉難者慰霊碑 美瑛町

# 碑の正面は「六代地蔵尊」、裏面には「建之 太田キ□」、風化で1文字は判読不能。聖台ダムは石狩川水系宇莫別川を堰き止めた堤高29.7m、堤頂長485.4m、有効貯水容量3215千m3の灌漑用アースダムで平成20年に北海道選奨土木遺産に指定されている。大正4年の大洪水で溺死者48名をだす大惨事に見舞われた宇莫別ではダム決壊への不安から猛烈な反対運動が起こるが、強制収用という強行手段で昭和7年に工事着手。大型転圧機械をアメリカやドイツから輸入し当時では最高水準の技術を導入、ダムの基礎岩盤工事に採用されたセメント注入工法は、戦後の北海道のダム建設の手本として注目された。建設作業員は(囚人も含む)延べ10万人が動員されたというが、基本はタコ部屋に依存した人海戦術で6年の歳月をかけ昭和12年に完成。鉄道工業の元請けで工事は大倉組の下請負で行われ、過酷な労働や虐待頻発の様子が何度か小樽新聞で報道された。巡視にいった警官を監禁、次は土工夫の虐待で特高が出向き幹部4名逮捕、その他の2件は土工夫が集団で脱走し旭川の警察に虐待を訴えて駆け込んだ件。北海道開拓殉難者調査報告書では殉難者24名(ダムと用水路工事・実際はもっと多くの人が犠牲になったと思われる)とあり、氏名が判明しているのは14名と記されている。赤羽六代地蔵尊は当時美瑛町栄町(美瑛原野4線付近)にあった広妙教会(法華宗真門流)の太田順妙尼がダム建設で悲惨な最期を遂げた人々を弔うため建立されたが、人目につかないダム敷地より外れた所に放置同然の状態におかれている。◇建立年:詳細不明 昭和12年以降 ◇建立者:太田順妙尼 ◇所在地:美瑛町字赤羽 ◇Gmap:Gマップ

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