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北海頭首工と住吉アジサイロード

画像枠北海道遺産に指定された北海幹線用水路の取水施設です。北海幹線用水路は赤平市住吉にある北海頭首工で空知川から取水され北から南へ約80kmに及ぶ農業専用水路で日本で最も長いものです。用水路は幅4~16m最大で50m以上有り地域の景観に及ぼす影響も大きい。赤平市ではボランティアが中心となって用水路を挟んだアジサイロードの作るための植樹を進めている。◆赤平市住吉

松浦武四郎の空知川見分

松浦武四郎は安政4年に空知川の踏査行をしているが丁巳東西蝦夷山川取調日誌では赤平では「其山根石炭多し」と、茂尻を通過した際には「石炭の崩れ落ちし処は、数十丈の処黒漆の屏風のごとく也、其眺望奇と云もおろかなりけり」と石炭に関する記録も有る。赤平市の独歩園近くで歌志内へ行く交差点から空知川に降り、川岸の露頭に沿って川下に50m程歩くと砂岩層に続いて石炭層が見えます。厚さは30cmから最大は4m近いのまで有る。ただ空知川の水量が少ない時だけにしましょう、水の多いときは住友河畔広場の上流左岸側に一部露頭している石炭層が見られます。対岸より見る事になるので 双眼鏡が有ると便利、車止めから徒歩10分、草が伸びる前が良い、広場の遊歩道に露頭の案内板が有る 一応ライマンの発見と云う事になっている様ですが ライマンは武四郎の地図を貶していたのに、いつも武四郎の地図を持ち歩いていたと云う。プロは本物の価値を認めていたと 云う事か・・

赤平公園 黎明の像

赤平公園道道227号線沿いにあり赤平駅からは徒歩5分と近い。小高い丘の広大な公園内には池や藤棚、サクラ160本があり市街地を一望できる展望台もあり四季折々の景色が楽しめる。黎明の像は1966年に赤平公園の頂上付近に建立され、当時の平和市民会議会長であった赤平市長の碑文がある。炭鉱殉職者を追悼し未来永劫の平和を希求、炭鉱職場の安全を祈念して建設したことが記され「抑留外国人殉職者は戦争中生産増強の犠牲となり肉親の許に帰ることも叶わず異郷の地に果てた」「外国人殉職者の霊をも合祀する」と刻んであり、国際平和の立場から連行された人々をも追悼する慰霊碑として建立されたことがわかります。碑文に追悼の表現はあるが、連行の経過やその労働実態、企業や政府の責任についてはふれてはいない。これが住友の城下町とも云われた赤平の精一杯の言葉なのかもしれない。赤平への中国人連行では北炭赤間、住友赤平、住友赤平川口組、豊里川口組、平岸油化地崎組、連合軍捕虜も住友赤平に連行されていた。中国人より遙かに多い人数の朝鮮人も住友赤平、北炭赤間、昭電豊里などに連行されていたようです。「平和赤平市民会議」の主催で日本人をはじめ赤平市内の炭鉱事故で亡くなった朝鮮人、中国人ら炭鉱労働者を慰霊する「安全平和祈願祭」が毎年おこなわれている。◇建立者:1966年 ◇建立年:赤平市 ◇所在地:赤平市美園町3丁目 ◇Mapコード:43.554942, 142.040321

住友赤平炭鉱立坑櫓

立坑櫓明治28年開砿で北炭が創業し後に住友が引継いでいる。櫓の高さは地上43.8m、地下650mで昭和38(1963)年に完成した施設で、空知に残る炭鉱施設としては最も保存時様態がよいとされ「ネオンのともる立坑」といわれた炭都・赤平の象徴的な存在。斜坑による地下350mまでの炭層は20年ほどで枯渇し、戦後の増産需要に応えるため深部への立坑の計画、三笠市にある住友奔別立坑の改良版とも云われ総費用約20億円と5年の歳月をかけて建設され、出炭量は飛躍的に伸びたが、エネルギー政策の転換で閉山となった平成6(1994)年まで使用された。閉山後も機械、電気系統などが稼動時のまま残され、鉱車操作場や繰込場などもほぼ完全なまま残されており、現在でも動かすことができるといわれている。立坑に隣接する事務所には膨大な量の坑内図、経営資料が閉山時のまま保管されている。

住友赤平・歌志内への朝鮮人連行は約6,000人、昭電豊里には約1,500人が連行されたとされ、中国人の強制連行は北炭赤間、住友赤平、住友赤平川口組、豊里川口組、平岸油化地崎組、北炭神威鉄道工業などがあり、連合軍捕虜も住友赤平と北炭空知へと連行されてい。最先端の技術と働く者を消耗品のように扱った歴史が同居するのも炭砿だった。◇所在地:赤平市字赤平485

旧住友赤平炭鉱坑口浴場

画像枠立坑櫓の道路を挟んだ向かい側にあり地下通路で繋がっていて、塵や汗で真っ黒ににり仕事を終えた鉱夫達が体を洗い疲れを癒したという。浴槽は大小5つで吊篭方式の更衣室があった。当時としては最大級の浴場、地下坑道でつながる、吊篭方式の更衣室などが特徴か・・現在は立入禁止で外観のみの見学になるが。イベント等で年に数回の公開があるようす。◇所在地:赤平市字赤平552-1

住友赤平炭鉱採炭用機械類(旧自走枠工場内)

画像枠自走枠は坑夫にたよっていた採炭を効率よく大量掘削するためにつくられた大型機械で、総合体育館裏手の一角にある野外に放置されていたのを整備工場にて整備・復元し、当時のまま炭塵が付着した状態で、住友赤平炭鉱内で使用された大型の機械類100点ほどが展示(炭鉱人車、坑内トラクター、ボーリングマシン、コールカッター、チェンジコンベア、電ロコ、自走枠、リングカッター、シャトルカー、スパイラルロットなど)されている。現在は公開中止中で再開については不明、イベントなどで公開される可能性はある。◇所在地:赤平市字赤平485 ◇Mapコード:43.549697, 142.052222

赤平市炭鉱歴史資料館

画像枠 以前は住友赤平小学校炭鉱資料室という小学校の空き教室4室に住友赤平炭鉱から閉山時に寄贈された採炭用具や文化資料を保存し随時公開していた。赤平市炭鉱歴史資料館と名称を変更、炭鉱内部の理解を助ける坑内模型や発破道具、ガス探知機、救命用具、祭典資料など質量ともに膨大で保存状態も良い。平成26年5月より自走枠工場とともに休館なっている。イベントなどで公開になるチャンスはありそうですが、普段は敷地外より外観のみ見学可能となりそうです。◇所在地:赤平市字赤平485

北炭赤間炭鉱のズリ山展望広場

ズリ山階段赤平駅のすぐ裏手にあるズリ山で空知川右岸(赤間坑)とズリ山西側裏(末広坑)にあった二つの坑口から原炭が送られ、ここで選炭し残る石(ズリ)を積み上た35年分のズリで標高197.65m、平均斜度は18度という。北炭赤間炭鉱閉山後17年後の1990年、赤平市開基100年記念事業としてズリ山に階段と頂上に展望台を整備した。ズリ山階段としては日本一の777段、最初は展望ない樹幹を昇るだけだが途中にはベンチも設置されているので、休憩をとりながら登ることができ、頂上の展望広場からは、赤平市、芦別岳、十勝岳を望む。夏に開催される「あかびら火まつり」では、ズリ山の表面に火文字が描かれる。ズリ山の入口付近は小公園になっており説明板が設置されている。◇所在地:赤平市字赤平693-1 ◇Mapコード:43.550776, 142.043936

北炭赤間炭鉱選炭工場跡

画像枠北炭が1938年に開砿し、その3年後に選炭場が完成、最盛期には選炭工場と4キロ離れた採炭地の坑口との間に敷設された専用軌道を、石炭専用車両が1日50往復したという。北炭赤間炭鉱は65年に北炭子会社、空知炭鉱の経営に代わるが73年に閉山。空知川右岸(赤間坑)とズリ山西側裏(末広坑)にあった二つの坑口から送られた原炭を選炭した後にズリを35年積み上た高さは標高197.65mにもなり赤平のシンボルにもなっている。工場跡地は赤平市が買取り99年に施設の殆どは解体されたが、原炭ホッパーは一部が残されして広い敷地内でそれなりに偉容を誇っている。ズリ山を登る入口付近には説明板が設置され周辺は市民が資金を出し合って花畑にしていた。◇所在地:赤平市字赤平693-1 ◇Mapコード:43.550776, 142.043936

赤間炭鉱の碑

画像枠 かつては赤間2区と呼ばれていた様ですが北炭赤間炭砿は昭和13年に開砿し、昭和16年には北炭赤間橋とあわせて北端赤間炭砿選炭工場が建設され、末広坑の原炭も選炭工場で処理され、4キロほど離れた採炭地の坑口と専用軌道で結んで運んだ。最盛期には石炭を積んだ車両が一日に50往復もしたというが、選炭工場の一部とズリ山以外の以外の遺構は残されていないようです。エネルギー政策の変更もあって昭和40年に北炭の子会社、空知炭鉱に経営権が変わり昭和48年に閉山した。跡地を赤平市が買取り建物の殆どを解体、選炭工場の一部は炭砿遺産として保存された。北炭赤間橋が有った付近の道路脇に赤間炭鉱の碑が他の3基(説明碑を含めて)あるが、橋の痕跡は殆ど見られない。◇建立年:平成15年建立 ◇建立者: ◇所在地:赤平市豊岡 ◇Mapコード:43.559349, 142.053908

豊里炭鉱の碑

画像枠 大正時代に開坑した地崎赤平炭礦、幌倉炭礦を取得し粗鉱として福住炭鉱、寿炭礦、大新炭礦、赤間の沢炭礦、明豊炭鉱など12鉱区を持っていたが炭層ゃ炭質には恵まれなかったようで、昭和11年に昭和肥料(株)が橋本炭礦を買収し昭和12年に豊里炭鉱を開坑している。昭和14年に日本電気工業(株)と合併し社名が昭和電工(株)となるが、昭和25年には昭和電工が手を引き東海産業(株)に継承される。昭和26年になって東海産業の独立企業体・東海鉱業(株)の経営となるが経営は不安定で昭和30年10月、明治鉱業(株)傘下に入り経営の安定をみるがエネルギー革命で石油や外炭との競争、エネルギー政策の転換もあり昭和42年7月に閉山となる。赤平市では3番目に大きな炭鉱で最盛期の従業員は約1,200名、閉山時は660人となっていた。慰霊碑は確認出来なかったが開鉱より30年間の殉職者数は173人、閉山後は5年ごとに慰霊祭を開いてきたが遺族の高齢化で平成29年が最後になるという。戦争末期に昭電豊里には朝鮮人約1,500人が連行され29人の死亡者をだし、また中国人の強制連行では川口組豊里出張所が52名の死亡者をだしているが、殉職者数に含まれているのかはわかりません。炭砿の遺構はズリ山(森林になっている)と僅かに残る選炭場があるも近づくのはむりそうですが、豊里ふるさと会館にはかつての豊里炭砿を再現したジオラマがあり、会館前に豊里炭鉱の碑がある。◇建立年: ◇建立者: ◇所在地:赤平市宮下町3丁目 ◇Mapコード:43.560079, 142.031324

茂尻炭鉱跡の碑

画像枠 大倉鉱業によって大正7年に開鉱された炭鉱で廃鉱は昭和45年、後に櫓を撤去された立坑付近は民間企業の工場等に転用され、遺構は殆ど残っておらず茂尻炭鉱専用線あとに痕跡をみるだけのようです。昭和6年に茂尻炭鉱株式会社として独立、昭和10年のガス爆発事故で95人の犠牲者を出し経営悪化で三菱鉱業(株)が買収昭し雄別炭鉱鉄道株式会社茂尻鉱業所となります。戦後の昭和21年に三菱鉱業(株)より独立し雄別炭鉱株式会社と社名を変更している。昭和43年に年産50万トン達成するが翌年の昭和44年4月に発生したガス爆発を(46名死傷)契機に経営悪化から同年に閉山、昭和45年に会社を解散している。閉山後に茂尻炭鉱株式会社が設立され露天掘りが行われるが昭和49年に終了。炭砿事務所のあった線路脇近くに慰霊の意味も込めて昭和49年に茂尻炭鉱の記念碑が建立されている。茂尻炭礦には友子組織やタコ部屋が有ったというが、石炭統制会の史料などによれば戦争末期に朝鮮人が約2,500人連行されたという。◇建立年:昭和49年 ◇建立者: ◇所在地:赤平市茂尻旭町1丁目 ◇Mapコード:43.535927, 142.094111

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