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ぐるっと上砂川プチ観光・炭砿遺産と碑をみる‼

上砂川町

町の東部に夕張山脈が南北に走り、辺毛山を源に発したパンケウタシナイ川が町の北部を貫流し、その沢沿いに市街地が開けた山間の町。明治32年がに福井県鶉村から入植した開拓者によりこの地に鍬が入れられたのが上砂川町の始まり。明治44年には鉱山が開発され以来石炭とともに歴史を刻んできたが昭和62年には山の灯は消え、その歴史に幕を下ろした。炭鉱なきあとその遺産を生かした町づくりを経て先端技術と軽工業の町に生まれ変わろうとしている。町名はアイヌ語の『オタウシナイ』に由来する

旧上砂川駅舎(悲別駅舎)

悲別駅 大正7(1918)年に砂川炭鉱の石炭輸送専用線として上砂川駅(貨物駅)が開業され、その後、大正15(1926)年にJR函館本線(砂川~上砂川間)として旅客営業が開始されると同時に一般駅となる。昭和59(1984)年には、テレビドラマ「昨日、悲別で」のロケ地として使用されて一躍ブームとなったが、平成6(1994)年、廃線。映画「駅 STATION」のロケ地にもなったことから道内外のファンが数多く来町。平成8(1996)年から駅舎内にドラマ撮影当時の写真、パネル、色紙等を展示公開している。現在は舗装された線路跡と駅舎の位置関係がおかしいので、廃線後に移転していることにはすぐ気付きました。しかし上砂川支線の沿革史と、廃線後に移転したことは案内板に出してくれた方が絶対いいです。 ◇所在地:上砂川町中央北1条1丁目2 ◇Mapコード:43.480461, 141.990047

かみすながわ炭鉱館

かみすながわ炭鉱館 石炭とともに発展してきた三井城下町・上砂川町の歴史や人々の暮らし、石炭採掘の技術などを展示している博物館。ロビーには上砂川の地底を縦横無尽に走り、今は眠りについた「坑道模型」、昭和25年ころの炭鉱町の様子や炭鉱住宅を再現した大型の模型が展示されている。最先端技術と云われた水力採炭の模型もあった。展示場へ入ってすぐに見えるのが再現された立坑櫓、地下無重力実験センターが廃止され、お役御免となり平成15年に解体された。地下786m、地下無重力実験センターと坑道でつながっていたが、今は中央立坑が現存するのみ。屋外には炭鉱で使用された気動車なども展示されている。平成17年に休止されていたが町民有志によるボランティアの協力で期間限定で再開されている。お盆は8月14日・15日開館です。◇期 間:5月〜10月の土・日 午前10時〜午後4時 ◇時 間:午前10時〜午後4時 入館料無料 ◇所在地:上砂川町本町北1丁目1番3号 ◇Mapコード:43.477169, 141.991662

坑夫像 敢闘像

敢斗像 昭和16(1941)年になると炭砿は軍需工業動員法により「軍需工場」に指定され、戦争末期になると炭砿の労働時間は実質15時間前後から20時間にも及び極めて厳しいもので、昭和19(1944)年までは出炭量も増加を維持していたが、若い砿夫はもとよりベテラン砿夫も戦争にとられ、労働力不足に陥っていた。不足した労働力を補うため大陸で労務者を募集し送り込んでいたが、労働力不足は深刻で昭和19(1944)年には徴用へと変更されるが、実質は強制連行で8月には強制連行された中国人も入山している。ベテラン砿夫は少なく大陸より動員された人々の殆どは砿夫未経験で事故も多発、昭和20年の出炭量は前年の半分近くまで落ち込んだ。軍需省の依頼で終戦直前の昭和20(1945)年、軍需生産美術推進隊彫刻班5名で実在の炭鉱夫をモデルに現地制作し三井砂川鉱業所前に設置された像。戦時下の石炭増産を鼓舞し戦意高揚をはかるため制作された戦時芸術・戦争遺産とも云えるが、戦後も復興を支える石炭増産の騎手となった。同様の目的で芦別や夕張でも坑夫像が製作されている。敢斗像は元の場所から炭鉱館の前に移設された。◇建立年:昭和20年 ◇制作者:長沼孝三・野々村一男・菅沼五郎・中野四郎・峰 淳 ◇所在地:上砂川町本町北1丁目

上砂川 若山牧水歌碑

若山牧水歌碑 戦前の日本を代表する歌人であった若山牧水(宮崎県出身1885~1928)が大正15年に上砂川を訪れ二首の句を詠んだ。これを記念して開基80周年、開町30周年にあたる昭和54年に、その時の二首が刻まれた歌碑を上砂川岳国民保養センターの左脇 に建立した。「秋すでに 蕾をもてる 辛夷の木 雪とくるころ 咲くさまはいかに」「霜はいま 雫となりて したたりつ 朝日さす紅葉 うつくしきかな」後に「かみすながわ炭鉱館」前に移設されています。◇建立年:昭和54年 ◇制作者:上砂川町 ◇所在地:上砂川町本町北1丁目

旧三井砂川中央竪坑

中央竪坑 三井資本が道内で初めて鉱区開発から採炭まで行う空知の拠点炭鉱でした。大正2(1913)年に第一坑での採掘が始まり、大正7(1918)年の鉄道敷設で本格化、深部採炭を目的に開削された立坑。水力採炭で有名であった三井砂川鉱の主力立坑は昭和62(1987)年の三井砂川炭鉱閉山時まで使用され、閉山後は第一立坑櫓と昭和42(1967)年に建設された中央立坑櫓と同鉱の廃坑を利用した地下無重力実験センター(AMIC)の落下塔として使用されていたが平成15(2003)年に廃止されている。直線的なフォルムで端正な姿を誇っており保存状態は良さそうです。第一立坑櫓は解体撤去されたが一帯に炭砿関連の痕跡が点在する。◇所在地:上砂川町字上砂川7 ◇Mapコード:43.477563, 141.992877

三井砂川炭鉱殉職者慰霊碑

画像枠 かみすながわ炭鉱館横にある炭鉱殉職者の慰霊碑です。昭和14(1939)年までの殉職者264名とあり、それ以後も事故は続いているおり殉職者は320名を越えるようですが、殉職者慰霊碑に朝鮮人や中国人は含まれてはいないだろう。戦争でベテラン砿夫は徴兵され残ったのは高齢の砿夫と動員や強制連行された素人の集まりになり事故も多かったようだ。上砂川史によると昭和14(1939)年に朝鮮人労務者来山とあり、昭和19(1944)年8月に中国人労務者入山、昭和20(1945)年11月に中国人の送還と朝鮮人の帰国が始まり12月完了とあった。強制連行による中国人は下請け3業者による監獄部屋と三井砂川鉱業所直轄と合わせ1,412名だが、そのなかで202名の死亡者をだしている。資料などによると昭和19(1944)年8月時点での朝鮮人在籍者数は2,574人というが、戦時朝鮮人強制労働調査資料集に102人の死亡者名が掲載されていた。◇所在地:上砂川町字上砂川22番地11

上砂川炭山郵便局と坑口跡

画像枠 美唄に残っていた旧炭山郵便局が解体されたので、炭砿館近くの老人ホーム成寿苑の裏通りにある、上砂川炭山郵便局は建物は世代を重ねて開設時の面影は皆無だが日本で唯一「炭山」の名前が付く現役の郵便局だ。キャンプ場付近に三井砂川炭鉱の奥沢坑北坑第二斜坑坑口があり、スキー場の近くには三井砂川第一坑坑口が残されてるが、草木が伸びると見えない。三井砂川炭鉱のズリ山は木が茂りズリ山と云われなければ気づかない、一時は自然発火て燃え続けるズリ山と注目を集めたが今は目立たなくなった。◇所在地:上砂川町北3丁目 ◇Mapコード:43.474153, 141.995278

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